深爪エリマキトカゲ
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カテゴリ:ハシモト氏( 32 )
この前近代にしてこの「近代」あり
絶好調のハシモト節.
調子乗ってたら1ページまるまる線を引きそうになる.
>>
 前近代は、「思考の自由」なんか理解しない。現実的な「形あるもの」と結びついて、初めてその価値を理解する。「形あるもの」と結びついていなかったら、それはただの無価値で、それをする人間は、ただの「変わり者」である。「思考の自由」なんかを理解しないからこそ、前近代は、「思考の自由」を求める「近代」を生む。生んだ前近代は、「自分が生んだこと」だけは理解して、自分の生んだ子の「内実」なんかは理解しない。もしかしたら、「自分が生んだ」ということさえも、理解したくなくなったら理解しないかもしれない。だからこそ、「お前みたいな子を生んだ覚えはない!」という、素晴らしい啖呵も存在するのであろう。
 前近代は、ただ「思考の自由」であるような近代を理解しない。だから、「親」でもある前近代への理解──つまり「言いわけ」の必要に迫られた近代は、それを「形あるもの」に結びつけようとする。だから、「近代社会」とか「近代知性」とか「近代兵器」というカテゴリーのようなものが生まれる
「近代社会」とか「近代知性」という概念は、いたって前近代的な発想である(橋本治『いま私たちが考えるべきこと』「7 へんな土壌からはへんな木しか生えない」p.123-124)
>>

そしてこんなことをさらりと書くハシモト氏にびっくりしてしまうのである.
>>
 私にとって「近代」とは、ただ「思考の自由」である。のべつまくなしに「こんにちはー」だけをやっている習性をつけてしまった人間にとって、「それをやらずに、ただ自分の思考への集中を続けてもいい」は、大いなるゆるしである。前近代から近代を覗き見た私は、だから、「そんなことやってもいいんだ……」と思ってびっくりしてしまうのである。
同上 p.122
>>

タイトルのカッコは,「巷ではこう使われてるみたいだけどサァ…」という意味のカッコですね.
『括弧の意味論』で分類されてたはずだけど…もう忘れました.

+*+*+*

今ちょっと過渡期なので一段落してから書こうと思います.
あらたいへんさぁたいへん
たいへん抜いたら「アラサー」(死)
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by chee-choff | 2012-03-28 00:17 | ハシモト氏
paradise lost
凄いベン図やねこれは.

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+*+*+*

思い浮かべる内容は一人ひとりが違って,
でも誰もが「そうそう,そうよね」と納得できてしまう言葉,
例えばこういうのが「普遍へ達した抽象」なのかなと思った.

>>
 そこに居続けて,その結果そこに依存するしかなくなって,「出たくない」と思うようになった人間が,実はその根本において,「ここにいたくない」という矛盾を抱えているのだとすれば,「出るしかない」という危機が,あまり危機にはならない.今の日本の不思議さは,そこにあるのだろうと思う.
「希望がない」ということが,そのまま「希望がある」になる.「出たいけど,出たくない」の矛盾はそれを可能にする.べつに悪くはないだろう──自分の真実を見つめる目がありさえすれば.
橋本治『失楽園の向こう側』p.278-279
>>
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by chee-choff | 2012-01-08 20:33 | ハシモト氏
男達は…/倍々コーヒー
「活字離れ」を決定的にした雑誌の話をしていて,
その章が終わって次章でいきなり「男と女」の話になって,
「はれれー?」と思いながらやっぱり引き込まれてしまって,
違う話題に引き込まれたと思ってそのまま元の流れに戻ってくる鮮やかな豪腕(?)が
そこまでたどり着いてしばらく経たないとその凄さに気付けない距離感というのは,
私淑している弟子としては病み付きになる「たまんねーぜ!」的快感である.

>>
 日本の男達にとって,“他人”というものには二種類あった.一つは,「自分と同じ様な他人」で,もう一つは,「自分とは全然違うからこそ“他人”であるような他人」だ.“女”という他人は,当然のことながら後者に含まれる.(…)日本の男達は,“自分と同じような男”になら関心をもつ.しかし,“自分と違うような他人”には,関心を示さない.関心を示しても,それが自分にとってどういう意味を持つかが分からないからだ.(…)
 男達は“他人”に関心がなくて,それに引き換え日本の女達は他人が好きで,他人の噂話だけで成り立っているような女性週刊誌やワイドショーだけを貪っていた.女達をそうそう責める訳にはいかない.なにしろ日本には,「他人が演ずる行為を積極的に拾い上げてその意味を探る」という知的習慣がないのだから.つまり,科学する姿勢がないのだ.“公正中立”という及び腰の態度だけがあって,果敢な客観性がない
橋本治『浮上せよと活字は言う』p.204-205 男達はどこへ行ったか?
>>
「果敢な客観性」という表現がまずステキだなと指摘しておいて…
前の太字は「それを言う(する)ことで彼(彼女)は何を言おうとしているのか?」という
内容そのものでなく内容の提示の仕方に意味を見出すウチダ氏の言論姿勢そのままだ.
そのテキトーな物言い(オブラートだと思うが)から科学との距離を感じていたのだけど,
ウチダ氏の思考は「科学する姿勢」なのだった.
構造をそのまま構造として語るのは,そりゃ文学でなく科学だわね.
比喩の部分は文学でもいいとして(なんて言うと怒られるか),比喩はあくまでサブなのだから.

そして上の続きに,決定的な言葉が連なる.
>>
“他人”とは,それがマーケットを形成するような数となった時だけ,始めてその動向が注目されるようなものだ.(…)日本では,“市場”という形でだけ“他人”の存在が考慮される.そのことを自覚しなければ,自分の生き方がそのまま“経済侵略”として非難されなければならないという悲劇は理解されないだろうし,また回避されないだろう.
同上 p.205-206
>>
下線部は,文脈上は80年代(から現在?)の“若い女”や70年代の“若い男”を指すのだけれど,
(全く余談だけど70年代の若い男はみんなロンゲだったらしい…僕の流行は70年代?)
実は「社会の中の人」という視点からすれば“全ての人”がそこに含まれるのではないか,と思う.
つまり,自分を社会に一個人として認めてもらうには,
「市場を形成する要素としての一個人」という形しか取れないということだ.
もちろんそれは(資本主義の?)原理であってそのこと自体は何ら悪いことではなく,
ハシモト氏の言っている通りそれに無自覚であることが(その個人の中でだけ)問題なのだ.
だからそれについての個人の勘違いは基本的に個人に報いられて終わるはずだが,
世の中が複雑系だというのは,有名人が勘違いを起こしてその勘違いを「当たり前」にすると
社会(正確には「社会を形成する個人」)へのポジティブフィードバック(+の,の意味)がかかってしまう.
そのフィードバックに歯止めをかけるためにも活字の役目はある…
という話が本書でなされているわけではなく,これ(←どこから?)は僕が勝手に思っただけ.

そうそう,もともとこの抜粋をしたのは
自分の生き方がそのまま“経済侵略”として非難されなければならない
という表現が良く分からなかったからだ.
 その悲劇が理解されない,と続くということは,
 理解されなければ悲劇ではないのか,理解されないことそのことが悲劇なのか?
 とは別の疑問であって…
たぶん「経済侵略」の意味が分からないのだと思う.
それは自分の生活を全て経済のターム(用語)で語るということ?
だとするとそれを非難するのは誰?
…きっと「"経済"は"自分の生き方"そのものではない」という前提がここにあるはずなのだけど,
よく分からない..

あ,あとハッとした一部分をば.
>>
 社会そのものは動いている.動いている以上,社会はその動きを維持する優秀な歯車を必要とする.人は多かれ少なかれ“歯車”とならざるをえなくて,必要なことは,一度歯車となった者が,その歯車となった経験を活かして,再び“人間”に戻ることだった.そのようにして,遠い以前に確定してしまった「他人の社会」は,初めて「自分なる人間の存在する社会」になる.
同上 p.216
>>
 この部分が「最初に就職した会社に最低3年はいろよ」という父の助言とダブって聞こえた.
 まあそれはそう思わせるタイムリーな話があったというだけなのだけれども.
歯車になることを嫌う人間は,歯車とは何かを知らずに一生を終える.
それはたぶん容易に理解できて,
でもそのことと「社会とは何かを知らずに一生を終える」ことが
イコールであることはなかなか誰も言ってくれない,ということだろうか.
それはあるいは「自分が社会の一部であるという実感を持つ」こと.
「別にそんなことに実感を持つ必要はない」と言う人もいるかもしれないけれど,
「他者に自分を認めてもらう」ことを知らないのは,
孤独である以前に「孤独とは何か」すら知らないということだ.
それが孤独を知る人間から見て「自分より孤独だ」と思われても当人には関係がなく,
そのような当人が増えれば社会は縮小し,あるいは破綻する.
あれ,なんか暗い話に…

+*+*+*

アイスコーヒーは水出しが一般的だけど,
ホットと比べると水っぽいのは確かで(冷たいせい?),
でも実はそれは「薄い水っぽいコーヒー」と思うからで,
「濃いコーヒーっぽい水」と思えば「思ったより濃い」わけで,
ホットの飲み残しを2度水で薄めても飲めてしまうという…
なにこれ,貧乏学生?


畢竟,カフェインがそこにあれば問題なし.

No caffeine, No life.
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by chee-choff | 2011-10-16 23:21 | ハシモト氏
『美男へのレッスン』橋本治
『美男へのレッスン』橋本治

2011/09/02 23:11
ハシモト氏の語りについて。

氏は僕らの日常にたまに起こる「よく考えてみると…」
という冷静さをひたすら実践しているのだ。
だから読み手は話の内容に興奮しつつも、
頭をぐるぐる回して読み進めることができる。
その「発端の些末さ」(些末、と言ったのは例えば
文学的感覚というかそれの崇高な命題から見て、の意)は
市井の読み手にとってとても近しいものに感じられる。
すっ飛んだ内容でもするする入り込めるのは、その意味で
ハシモト氏と思考の動機を簡単に共有できるからだろう。

そして「本質を突く」性質のもつものでもあるけれど、
このような冷静さを常とする本を好きになって
面白くないのは、その読み手の周囲の人々である。
「よく考えてみると…」が起動すると、まずたいていは
起こそうとしていた行動が中断される。
それをよかれと思うのは知性の発動に促された本人の
一部分であって、周囲の人々とその周囲の人々の期待に
応えんと行動しようとしてうずうずしている本人の
別の一部分は「こんな所で考え込むなよ」と思っている。
そう思う彼らは、彼らのそれぞれが他人に期待している。
自分発の動機の起動に目を向けようとしない。

まあハシモト氏に限らないとは思うけど、
「本に没入すればするほど一人でいたくなる」
という原理はここにあるだろう。
読む本の内容ではなく、読書そのものの機能として、
それは他者とのコミュニケーションと相容れない。

…と書いて、本当だろうか? と思う。
ここでの「他者とのコミュニケーション」に、
「現代の主流の」という修飾語を付けた方がいいだろう。
その主流にはほかに、
「一人でいる時間はもったいない」とか、
「お金は使わないともったいない」とか。
何か、しっかりしたこだわりがあるように見えて、
それが物事の一部分だけ捉えてのこだわりであるだけに、
全体を見てしまう人からすると「まあ勝手にすれば…」
と距離を感じさせる要因になるというか、
「まあ一人でいいや」と内向きにさせてしまう。
全体を見るというのは、空間的にもそうだし、
時間的にもそうだ。

「ひとつひとつの行動に付随する快楽は体験して
もちろん悪いものではないが、その積み重ねを
どう生かすつもりなのか、あるいはそんなことを
考えなくてもよい(無意識も含めて)根拠があるのか?」
身体的感覚と言われてしまえば今の自分に言葉で
返すことはできないが、それでもやはり
「今の自分の感覚とは違うなあ…」と思ってしまう。
快楽の積み重ね、他者との親身な時間の共有の経験が
想像もつかないところで自分を「いいもの」にしていく、
という感覚を今の自分は持つことができない。
「慣れ」に対する恐れ(影響力の強さの認識ということ)は
もちろんあるが、それだけではない(「良い習慣」に
恐れを抱く必要はどこにもない)。

…根本のところで、現代をあまり信用していないのだ。
ある種の過去の人々を参照項として見出せてはいて、
それを錯綜する現代に合わせて適応する応用力、
または器用さをまだ持ち合わせいないということか。
「自分は流されやすい人間だ」という強い認識は
過去の充実した数年間とその回顧の中での驚愕に
由来するものであり、その経験が今の自分の行動原理を
成立させる大きな駆動力の一つであることは間違いない。

その変わり目は来るのだろうか。
すなわち、「応用力がついた」と思える時は。
生身の人から影響を受けない限りはその認識に
至ることはなさそうだ(本の中の人から受ける影響では、
生身に回帰する方向性に絡まないような気がする。
これにはなんとなく以上の説明を付けられないが)。
だからこそ、読書三昧の日々を送りつつも、
「来るもの拒まず」の格言を守り、
「外乱という不確定要素」の居場所を自分の中に(いや、
自分と他者の境界に、か)確保しているのだ。
そしてこの現状を「そこそこいいもの」だと思っている。
それでまあ、いいと思うけど。
2011/09/02 23:42

2011/09/19 18:18
昨日読了。
書評用の文章を書こうとしてみる。

本書のテーマは一応「美男とは何か?」だが、
そのテーマを軸に人に関するあらゆることが語られる。
美男と対になる(と一見思える)美女について、
枕草子に遡っての美男の起源、
欧米の映画やM.ジャクソンを素材にしたりして、
当たり前のように本筋から外れて氏の「筆の気分」で
話が展開され、逸れまくっている論の道筋の一つひとつが
実はちゃんとつながっていると断言さえもして
その理由に「だってそういうもんだから」の一言で
納得させようとする氏はやはりめちゃくちゃな人である。

「やりたい放題本」はハシモト氏の十八番であって
それについていく読者も大変なのだけど、
本書の救いはメインテーマがもの凄く身近というか
キャッチーなので「ここをちゃんと理解すれば俺も
モテモテの美男になれる…!」とか「この話は
もしかするとカッコイイあの人の秘密が書かれている
かもしれないわ」といった日常的な欲望を駆動源に
本書の→散漫に過ぎる内容に喰らいつけることである。
(と書いたが本書の想定読者が男性であることから
 女性が後者の達成を目指すにはハードルが高過ぎ、
 そもそも氏がわかりやすいことを書くはずがないので
 前者で「騙された!」と叫ばない男はきっといないが
 「騙されて良かった」こともあるにはあるのである。
 そのことについてこれから書く)

その「散漫に過ぎる内容」というのが、
(詰めに詰めて11ページにわたる目次の項目の多さで
 簡単にウンザリできてしまえるものでもあるのだが)
ふざけてるのかマジメなのかマジメにふざけてるのか
分からない(いやそこはむしろ「分かりすぎる」)語り口で
時にいきなり「ぽーん」と鋭い洞察を放り投げる
もんだから、軽快なヨタ話(も一杯あるんです)をさらりと
流すのと同じ要領でそこを「ま、そーよね」とすらーっと
通り過ぎることもできるのだけれど、
「本質感知センサー」(なるものを勝手に命名しました)を
起動させて注意深く読み進めていたならば
「一体どう生きてくればこんな事が言えるんだ…」
と想像を絶する氏の教養に驚愕すること頻りなのである。

難しい所を飛ばして「あはは、これおもれー」で通読でき、
マジメに読めば「どうすりゃいいんだ…」と途方に暮れる
こともできる本書は万人にオススメできます!

と言って嘘ではないんですが…
いちおう途方に暮れた側の一人として、
上で触れた「ぽーん」をいくつか抜粋しておきます。
本質を捉えるのは大事であって(一連の)思考の達成点
でもあるんですが、やはりいきなり「ぽーん」と
目の前に突き出されても理解が追いつくはずがなく、
(いやもちろん氏のぐるぐるした思考過程は示されるんですが)
それでいて「これは凄いことを言っている…!」
というのは分かるもんだから、「自分で一から考える」
意志の起爆剤になると僕は思ってるんですが、どうだろう。。

>>
 男にとっての「理想の女」は歌舞伎の女方で、女にとっての「理想の男」は宝塚の男役である。「そんなもの嫌いだ」と言っても仕方がない。人間の「理想」というものは、そのようにメチャクチャなものであるのだから。p.41

 クドクドと歴史談義をしていても始まらないのでさっさとやめるが、要は、近代というもの人の頭の中で生まれて、だからこそとてもイチャモンのつけやすい、いたって人工的な「人為の時代」だということである。p.142

 江戸で確立された日本の売春のソフィスティケイションは、「なるかならぬかは客の腕次第」という、「遊女の拒否権」を設定してしまったことにあって、その後の「風俗産業」は、すべてその「江戸の拒否権」の伝統下にあるのである。p.247

(…)人間は、「生活の一致」というものを重視するもので、「争いの種」となるものは、この「生活の一致」を壊す、「生活習慣の違い」なのだ。私は、「民族紛争」と「嫁姑の争い」は、基本的に同じものでありうると思う。同じ台所で、同じ国土で、それぞれの「生活習慣の違い」を訴えたくなってしまった人間達は、争いに勤しむ。p.300

 子供の時に完成された「可愛らしさ」を持っていた子供にとって、「その先の時間」というものは、その完成を崩す方向にしか働かないーー子供はそのように解釈する。p.352(太字は筆者の傍点部)
>>

そういえば本書の初版は94年だが、
最近文庫化されたらしい(今年の5月に中公文庫より)。
内容が全く色褪せていないからだろう。
なぜ今に…と言われると見当も付かないけれど。

>>
 つまり、美女達は、いくら頑張ってもメリットのない「美女」を捨てて、男社会の中でワンランク高い位置を占める「美男」になろうとしたのだ。
 というわけで、現在は「男顔の美女」が大はやりなのである。p.210
>>

新聞のテレビ紹介欄でしか知らないが、今だと
「花より男子」とか「美男ですね」とかでしょうね。
ホントになんでも、考えればいくらでも深くなるもんなのね。
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by chee-choff | 2011-09-26 00:05 | ハシモト氏
「顔のない美男」とは?
半分過ぎまで読んできて『美男へのレッスン』(橋本治)が,
『現代思想のパフォーマンス』(難波江和英・内田樹)的なノリだと気付いた.

「美男とは何か」を問うことから始めるのはいいんだけど相変わらずすっ飛んでるというか
言っていることの論理性はなんとか追えるものの言っている意味は分からないし,
本人もそれと分かって言及している「この話をすることで何が言いたいのか」も
受け止められてもその都度の条件反射というか話の大枠が見えてこないし
(と書いてからこれも「いつも通りのハシモト本」だと気付いて「まぁいいか…」にはなる),
とはいえ語り口を頭(願わくば身体だが)に染み込ませるだけで心地よいので読み進めると
いつの間にか「なんかそれっぽい話」(でも,というかやっぱり「美男」とはあまり関係ない)が
始まって「おおすげー!」となって引用したくなった箇所に印をつけて,冒頭の気付きに到着.

ホントにハシモト本のタイトルほど(ふつうの)期待を裏切るものはないと思うのだけど,
美男になれると思ってこの本を買った人は「ふざけんな!」と床に叩き付けるだろうな,と.
「え,気付かないで買ったの?」とハシモト氏なら言うだろう.
世間的には「ふざけた本」なのだけど正確には「ふざけたハシモト氏が至極まじめに書いた本」であって,
ここで止めるとよからぬ誤解を招くので続けると,ここでいう「ふざけた」の意味は
「"世間の目"で世間を眺めてたまるか」という机上の人の意地というか生き様のことである.
で「机上」なんて使うと「机上の空論」が浮かんで否定的に思われそうだけれど,
「誰が"机上の空論"という言葉を使い始めたか(あるいは頻繁に用いるか)?」と考えると
必ずしも否定的とは限らないニュアンスを想像できると思われる.

最初に書こうとした話からどんどん逸れていた.
ので戻る.
「考え方」というのはそれだけ提示されてもよく分からない.
使えるのか,面白いのか,よく分からない.
効果的な例と共に示すことで利用価値や面白さが伝わる.
考え方を広めようとする人がみんなそう思っているとは思わないけれど,
この「効果的」のいちばんは,提示した「考え方」がその付属させた例に留まらない可能性を
読み手に感じさせることだ.
具体的には「提示した"考え方"の応用可能性(応用できる範囲の広さ)」や
「付属させた"例"に感じた面白さを(形を変えて)再び体験したいと思わせる中毒性」だろうか.
だから抽象が洗練されていても具体例が貧弱だと伝わらないし,
面白い話とそこから抽出できる(と語り手の言う)考え方が結びつかなければ発展しない.

ということで抽象にばかりかまけてないで具体的な話に興味を持った方がいいよ,と自分に言うことにした.
おしまい.
…最初に書こうとしたことって何だったんだろう..

あ,そういえば最近この本が文庫化した記事を見たけれど,
何で今頃なんだろう?(初版は94年)
もちろん当時の価値観でしか大した意味をなさない本というわけでは決してないのだけど.
むしろ経済(的な価値観)の落ち目の今の方が身に迫る内容だ,ということかもしれない.
いや,身に迫ると書くと違うのかな.
なんだろ,「現実ばかり見つめるのに疲れたけれど惚けたいわけではない」という需要が生まれつつあるのか.
なんだそりゃ.

>>
 別に,「洗練」とか「上品」が「嘘のスタイル」だというわけではない.「"実質だけ"というスタイルは,状況がその"実質"を越えてしまった時に,とんでもなく不自由なものとなる」──そんなことぐらいは,知っておいて損ではない
橋本治『美男へのレッスン』p.307
>>
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by chee-choff | 2011-08-27 01:24 | ハシモト氏
『大不況には本を読む』橋本治 番外2
本編の前に.

1を読み返さずにこの2を書こうと思って,
でも2を一度書き上げてから多分1から読み直すのだろうなと思って,
「自分は書いた記事を読み返してよく修正することがある」ことを思い出して,
でもその理由を完璧主義と言うには単純化し過ぎだなあと思った.

自分の書いた文章を読み返すたびに修正する.
この行為を,「予め完成形を描けている」前提で解釈すれば,
「その完成形に向けて微修正を繰り返している」となるのだけれど,
その修正の間隔の長さがまた別解釈を呼び起こすもので,
書いたすぐそばから,でなく一度書いて結構経ってから,
もあるのならば(むしろその方が頻度は高い),
「書いた時と読み返す時の自分(の考え方)が変わったから修正する」
と捉えた方が自然である.
そういえばその間隔が特に長い時は,「修正」でなく「加筆」という形をとる.
もとの記述を残したまま,気になった箇所のすぐ下に追記を日付と共に加える.

多分,昔に書いた自分の文章を「興味深い」(=何かしら想起させるものがある)と
思える間は,読み返しての加筆作業を続けることができるのだろうと予想する.
でも自分の文章に関してその意味で面白くなくなったものがないと言えばそうでもあるので,
単なる自己満足もそこに含まれているのも否定できない.
後者の成分をなるべく削ぎ落とすことが客観性確保の道ではある.
人を納得させるために文章を書けばこの辺は一気に進化するのだろうけれど,
そういう意志は未だ弱い,かなり弱い.
けれどそのスタンス(具体的な他者の視点を求めない)を貫きつつ客観性を求める,
というパッと見矛盾した状況を矛盾でなくする解釈もまたあって,

それは「あまり一般性のない“一般”を導き出す」方向性ですね.

一般性のない一般と書くとまた変ではあるので例えば,
普段誰もほとんど考えないけれどそれに従って行動している価値観,とかそういうの.
そういうものは「具体性との付き合いが深いほど見えなくなる」ことも有り得そうだ.

が…

具体性をなるべく排除しつつも個々が具体性に演繹できるような一般,
というややこしいものを明確に語ることが果たしてできるのか.
明確に語られた時点でその性質を失うようなものではないのか.

やはりここは「身体性」の力を借りぬわけにはいくまい.

だから頭だけじゃダメっていつも思ってはいる.
機会があれば…ね☆
あんたそればっか.

+*+*+*+*+*+

>>
「昔に戻せばいい」という復古主義がことごとく失敗に終わってしまうのは,これが「その現在に至までの人の獲得した進歩」を,ことごとく否定してしまうからです.
 人は,考える生き物です.考えた結果が「進歩」となります.「進歩」と一括りにされるものの中には「いいもの」も「悪いもの」もあって,その「進歩」の中から「悪いもの」を探し出すことができるのもまた,人の「進歩」というものです.
「進歩」というのは,考えることを必須とする人間のエネルギーのなせるもので,復古主義はこれを否定してしまいます.つまりは,人間の根本にあるエネルギーを否定してしまうものだから,これがうまくいくはずはないのです. p.77
>>
つまり「昔に戻せばいい」の一言は無思考宣言だと.
その意味では「今を楽しめばいい」の一言も同じ.
もちろんどちらもそれがホントの一言で終わることは稀なのだけど,
「そこへは簡単に転がっていくものだ」という戒めはあって損はない.

しかしここでいう「進歩」と「怠惰」は正反対に位置するはずなのだけど,
楽をしたいという気持ちも人間の根本にあるような気も一方でするわけで,
そうだとすれば「人間は根本的に矛盾した存在だ」と言えそうではあるが,
それで終わってしまえば落ち着き先が矛盾であっても「矛盾という短絡」,
「進歩」と「怠惰」の双方をなおざりにしない一次元上からの留保でなく,
同次元に落ちたうえに「怠惰」になびいてしまっていると気が付くべきだ.

もしかしたら「人って楽をしたがるもんだよね」という「常識」が,
つい最近登録されたものかもしれないのだ.

まあこれは「結論なしの結論」を先に設定するという「結論ありき」の解釈だけれど.

話を戻して…
「昔は良かった」と言うにしても,
具体的に昔の何が良かったのか,
それが良いとされた昔はどういう時代であったのか,
それと同じ「良い」が現代で再現される可能性はあるのか,
その「良い」とはまず状態だと考えて間違いでないとして,
当時の価値観や存在した物々などのとある関係が「良い」を実現していたのならば,
価値観はじめ当時と同じものより変わったものの方が多い現代において

しんどくなった.
「細かく割れば際限のない問い」なのだけど,
これは分かりやすい「それ」の一例であって,
「問い」とは全てそういった性質を持っているものでもある.
俗にいう「答えのない問い」というやつです.
答えが出ないと分かって問い続ける行為を無駄とする価値観が
現代では主流であって,それは「分からないことはない」という
漠然としたイメージのこと.
問い続ける過程自体に価値があると言われたって,
「ググってポン」が「問うこと」だと思っている若者(また極端な…)にとっては
「何バカなこと言ってんだか」と呆れられても不思議ではない.
でも極端だと言っても,「問うこと」をちゃんと教えなければ,そうなる方が自然.

苦労して問題を解決してきた人が,その苦労を苦痛でしかなかったと振り返ってしまって,
「後の人にはこんな苦痛を味わわせたくない」と思ってしまったのが,
その「ある面で正直過ぎてちょっとズレてしまった親切心」の発露が,
始まりだったのかもしれない(何の?).

という流れから,次に
 なぜ「いろいろな複雑を含んでいた苦労」を「単なる苦痛」と看做してしまったか?
という問いの検証をしなければならない.

続きは次回.
でも話が続くとは限らない…
「今の自分」は続けたいと思うんだけどね.
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by chee-choff | 2011-06-15 22:06 | ハシモト氏
『大不況には本を読む』橋本治 番外1
「書評を書く」ために書評を書くと,
書きたいことよりも書き易いことを優先してしまう.
エネルギは節約するものだから.

「他人に見せる」を前提に書くと,
「自分しか見ない」を前提に書くよりも内容が劣化する.
ふつう逆かもしれないが自分が認識する書評のあり方からすれば当然で,
「他人に見せる」書評よりも「自分しか見ない」書評の方が
自分が読んで面白いことが書いてあるからだ.
それは後者の書評の存在目的がそれ(=自分が読んで面白いこと)にしかないからだ.

他人は自分とは違う.
他人が知っていることは自分が知っていることとは違う.
他人が知らないことは自分が知らないこととは違う.
だから,他人に向けて書くか自分に向けて書くかによって,その内容は根本的に違う.
まぁどっちが面白いかはそれとは別の話ではあるけれど,
加えて他人が面白いと思うことと自分が面白いと思うことも違うので,
前者に力を入れれば後者はなおざりになる.
他人に見せる書評というのは,端的にそういうもの.

+*+*+*

昨日読了したハシモト本で,ぜひ触れておきたい部分を書評に書けなかった.
ので「自分のために」ここに記しておく.
何度も言わんでも分かっとるわい,と思われるかもしれないが,
呪(まじな)い的効果があって,宣言しておくとそうしない場合よりも
面白くなったりするものなのである.
もちろん自分にとって.

やっと本題.

>>
「豊かさに慣れる」ということは,豊かになってしまった「外側の状況」に対応して,自分自身の欲望を解き放ってしまうことです.解き放って,その栓を締めるということが出来にくくなるのが,「豊かさに慣れる」です.だから,いくらでも「未来予測」が甘くなります. p.69
>>
豊かさを「絶対善」とみなすことは,豊かさのこういう側面を全く無視するのと同値.
未来予測を立てるのは現在だけど,その内容自体は未来のことだから,
現在のみに生きる人,すなわち現実に「無時間モデル」を適用して疑わない人にとっては,
未来予測に価値は無く,意味は無い.
じゃあそんな「無駄なこと」はしない…この論理自体に不整合はない.

 この「無時間モデルを適用して疑わない人」は本書では「データ至上主義者」と呼ばれている.
 そう呼んでしまうと極端な性質の人間に思われてしまうけれど,なんとそれは,
 今の世の中の「思考の最先端」,人々が「頭の良い人」と呼ぶ人の別名でもあるのだ.
>>
 現実から離れた「予測」が「勝手な思い込み」になり,それが「いつか破綻する」になるのは理の当然ですが,「それは現実から離れた予測じゃないのか?」と言う人間は,コンピューターのデータから離れたところにいるので,そんなことを言っても,信じてはもらえないのです──データ至上主義者は,「データはそんなことを言っていない」と言い,「大丈夫だ」というデータ分析の結果を信じられない人間達は,「ネット社会の現実を知らない遅れた人間達」なのです.
 データ至上主義者達は暴走して,その暴走する道筋には「富」がばらまかれ,「データは分からないが富には敏感」という人達がこれに巻き込まれ,「もう危いよ」という危険信号は何度も点りながら,暴走した「思惑」は,やがてデッドエンドに乗り上げるのです──それが二○○八年の秋です.
 どうしてそんなことが起こったのでしょう? そう難しいことではありません.「頭のいいやつは正しい」という思い込みが世界を支配して,その「頭のいいやつ」が,経済の実体を無視して複雑な金の動かし方の出来るやつ」だったからです. p.54-55
>>
 
話を戻す.
すなわち「豊かさに慣れる」ことの無視された一側面について.
>>
「なんとかなるはず」と思い込んでいて,その思い込みが崩れた時,人の欲求不満は爆発します.どうしてそうなるのかと言えば,「なんとかなる(はず)」を可能にしていた豊かさが,「欲望は全開にされてしかるべき」とだけ思い込ませて,「欲望をセーブする」というノウハウを教えなかったからです.
欲望は自身で抑えるもの」という発想が根本になければ,「開放されてしかるべき欲望」が壁にぶつかった時,それは「誰かに抑え込まれている」という被害者の発想に変わって発現します.だから簡単に,欲求不満となって爆発するのです. p.69-70
>>
これもまた恐ろしい話で,現在の価値観の主流には
「欲望は自身で抑えるもの」という発想が根本的に存在しない.
対偶(?)も真であり,すなわち「我慢は悪だ」が違和感なく罷り通る世の中でもある.
ある発想が根本的に失われることは,その発想が存在しないことが当たり前となることであり,
「世代の断絶」は上の世代の主観として語られることが多いが,
「自分の常識と相手の常識が違う」という全く同質の断絶を下の世代も感じている.
言われれば当たり前のことを敢えて言うのは,このことがその断絶を目の当たりにしているその場では
(あまりのショックに)顧みられることがないと思っているからである.

「世代の断絶の現場」で「断絶を咀嚼して呑み込む」のはもちろん,上の世代の役目である.
別にここで教師の心構えについて説いているわけではなく,
例えば「電車で女子高生が手鏡片手に化粧している」場面を思い浮かべてもらえればいい.
自室にいるかのように振る舞う当人に呆気に取られるのはまあしょうがないとして,
ここで「断絶を呑み込む」と何ができるかと言えば,
「なぜこの子はここでこんな事ができるのだろう」という方向に(勝手に)頭が働くのである.
その思考がまともに進めば彼女に対して「すまない…」と思うことにもなる.
(という展開は「自分」が彼女の親と同世代であった場合にあり得る)

…ここでいったん読み返して,引用の目的を逸していたことに気付いたので進路修正.
この引用に書いてあるのはひとつの行動原理だが,それは断絶を埋めるためのものではない.
断絶をしっかりそれと認識するためのものだ.
 断絶は(突然には)埋まらない,いずれかの常識が相手に譲歩せずして.
 上が下に譲歩して「時代に乗る」,「若者に歩み寄る」などと言うようだが,
 それを諦め,迎合,頽廃と看做すことがまともというものだろう.
 時間をかけて下に上へ譲歩させることが本来だが,その先導はもちろん上の役目.
 地域コミュニティが機能していた時代ではこのことは「当たり前」であったはず.
上の例を使えば,しっかり咀嚼するための「下あご」といったところか.
…ちょっと違うな,下顎を鍛えるための「せんべい」だろうか.
うん,昔はせんべいは茶菓子の定番でみんなバリバリ食べてたしね.
「固いからヤ」というのは食わず嫌い=無経験が言わせるもので,
一度バリバリやればその歯応えが爽快であることにも気付けるのだ.
最初は疲れるだろうけど,顎のできてない若者にとっちゃね.
あでも「下手に鍛えて顎が張るのはヤ」とか言われそう.
うるせー! 黙ってバリバリ喰っとけ!

何の話を…

うん,どうやら疲れたらしい.
続きはまた明日.
このグダグダ感がいいね.
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by chee-choff | 2011-06-13 23:50 | ハシモト氏
脳と躰のダイアローグ(AW-00)
2011/05/28 13:31
『天使のウインク』(橋本治)の連載書評ことはじめ。
記号は芸なくThe Angel's Winkの頭文字。
電気機器(MP3プレーヤとか)の商品記号みたい。
それはさておき。

前回は『ひろい世界のかたすみで』でやった。
今回もそれと同じように、本の中で特に気になった一言、
連想が進む一言、何か言いたくなる一言を引き、
筆の従うままに書き進めようと思っている。
別の形にしてもよいが、それは思いつけばまた。

そういえば、前回の「全くの言いっぱなし」に対して
今回は「橋本治の思考を広める」みたいなことを
ブログの予告で口走っていた気がする。
そういう思いがあるのは前回も含め確かなのだが、
それほどまでの緊張感を筆致に含める気はなく、
あくまで気の向くままに書いたものの上に
そういった雰囲気がうっすらかかっていればいいな、
と思う程度のものだと断っておく。

そして本題に入る前にもう一つ。
実は今の自分はあまり「徒然思考モード」ではなく、
それは落ち着いて余裕をもって本を読む考える時間を
今日久しぶりに取れたからである。
なので準備運動をする必要があり、
そのために近況を振り返ってみようと思う。

ひとつには、仕事の忙しさがある。
グループの通常業務以外に2つほど責任業務がある。
と言って増えた残業は少しでしかないのだが、
常時複数のことを抱えて仕事をするというのは
(それがふつうなのかもしれないが)仕事量に関係なく
精神力の消耗が激しいものである。
それが、家に帰ってからの余力を削いでいた。
本業外責任業務の一つは来週末には任を離れるので、
もう一辛抱といったところ。

もうひとつは直近の話になるけれど、
2年目社員研修という名目で2泊3日の合宿があった。
その合宿がなかなか生ぬるく、かといって
共同作業も多く一日中他人に合わせる生活が
まる3日続いたこともあり、いちおう本は持っていったが
落ち着いて読める時間はほとんどなかった。
やはり「思考」は独りでいないとできないものだ、
と合宿を通じて改めて痛感した。
グループワークをしていて、突っ込み所は満載であり、
それは思考ネタが豊富にあるということでもあるのだが、
それが単純にいつもの思考の促進剤にならないのは、
「他人に囲まれて独り考えていると浮く(沈む)」から。
それが協調性に欠けると言われようが当人が納得ずくなら
何ら悪いことではないのだが、端的に自分には
「それができない」というだけのことである。
周りの空気を過剰に読んでしまう心象は中学時代に
目覚め、以降ずっと育まれてきたものであり、
今さら改善しようとは思わない(このこと自体への
喫緊の外乱があれば別だが)。
その心象に心乱されることもこれまで幾度もあったが、
だからといって他人と触れ合うことが嫌いではない。
むしろ他人がいなければ生きていけないと思っている。
だから、基本的に積極性をゼロにして(!)独りでいる時を
日常とし、何か話が出てきてそれが面白そうであれば
のっかるという生活方針を今は採用しているのだった。
…意識してはいたけれど、書いてみると、
相変わらず極端だなあ…

で、話を戻せば「独りの日常」に対して最近は
非日常が続いた、と言いたかったのだった。
それが週末の3連休(今日は初日)で落ち着いた。
やっと戻ってこれた、というわけだ。

ほんの数日のこととはいえ、
いったん活字から離れると、
戻ってくるには体力が要る。
「活字のない生活」も簡単に日常になってしまう、
ということが今回分かった。
(いや、大学3回生まではそういう生活だったから
 むしろそちらに年季が入っているのだが)
まあその「戻ってくるための体力」というのは
切り替え時のみの必要量
だから、
そこを忘れて「自分には活字生活は向いていなかった」
などと勘違いしないように、と今後の自分に戒める。

…もちろん「活字を要しなくなる根本的な生活の変化」
の到来は否定しない(今まで何度も言ってきたが)。
つまり、それに足る要因の存在を否定しない。
これが、「物事にこだわらないことにこだわる姿勢」。
あるいは「反原理主義的原理主義」。
そしてこれは時の経過に従い
「反(反原理主義的原理主義)的原理主義」
→「反(反(反原理主義的原理主義)的原理主義)的原理主義」
へと変遷を遂げていく。
 全然関係ないけどこの括弧の付け方を見ると
 大学受験の英語(グラマー)の「関係代名詞」を思い出すなあ。
 The swimmer with whom you talked yesterday is my elder brother.
 みたいな.…合ってんのこれ?
この変遷を止めないことが原理主義を離れる唯一の道。
…まあ「変化を肯定する」の一言で済むんだけど、
話を簡単にしない役得もまたある、と。

それは「似たような表現を同一とみなす」のでなく、
似たような表現の微細な差異に気づく」方向性。

「同じ」と「違う」はどちらが先か。
それを決めないこと。
「同じ」と「違う」はどちらが大事か。
それを決めないこと。

それを決めない力
2011/05/28 14:17

その力を培うのは筋トレでも脳トレでもない。
…いや、いい表現が浮かばないんだけどね。


一気に関係ない話に飛ぶけれど、
「代名詞の多用」について。
内容を正しく伝えようと思うのならば、
代名詞ではなくそのまま対象(主語、目的語等)を記せばいい。
それがまどろっこしくなるからある程度の代名詞は必要。
でもその「ある程度」以上の代名詞の多用はなぜか?
(少なくとも自分のことを言っている)
それは「読み手に解釈の余地を与える」ためではないか?
ひとつ「それ」と書いた時に、その「それ」に該当する
可能性のものがいくつかある場合がある。
それをたった一つに限定して差し出すことが全て、
書き手が「伝えたいこと」を伝えるために
必要なこととは限らない
、とふと思ったのだ。
これはウチダ氏がどこかで言っていた話とつながるが、
いやそれは「読み手一人ひとりが"自分だけに
この読み方ができる"と思わせるような多様な
解釈可能性を備えた書物は歴史に語り継がれる」とか
そんな話だったかと思うが、
いやこの話とは少し違うのだが(どっちやねん)、
例えば代名詞をやたらめったら使う自分の思いとしては
「伝わる人に伝わってくれればいい」がある気がする。
…違うな、それは違う。
「読む時に応じて読み方が変わってくるものを書く」
意思が自分にはあるのかもしれない。
それは「書くリズムを優先すればそうなった」のもあり、
上で述べた「変化の肯定」の一実践であるとも言える。
加えて、「自分が何を言ってるか分からない」ことを
許容する気持ちもあるし、それがなぜかと言えば
「特に特定の対象に向けて特定の内容を伝えたいという
意思がない」からである。
…どんどん話をややこしくするけれど、もしかすると
「その意思がない」という現状はまず事実としてあるが、
その表現が「いつかその意思を確固と持つ時が到来する」
ことの予感よりも「そんな意思を持たないでも
伝わって欲しいものが伝わればいい」と思えるように
なりたい願望を含んでいるような気がするのである。

それを「身体の声を聴く一作法」と無理矢理纏めてみる。
…いや、それをむりくりでなくするには時間を要する、
なぜなら身体は「無時間モデル」では表現できないから。
お、まとまった?
2011/05/28 14:39
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by chee-choff | 2011-06-05 17:29 | ハシモト氏
危険な本と(今度は)過酷な予告
KOKUYOのYOKOKU♪

と似た語感で思わず.

KAKOKUなYOKOKU♪

+*+*+*+*+*+*+*

>>
(…)偶発的に存在する“一時の輝き”だけが魅力なのだから,その魅力は磨きようがない.磨き始めた途端,「一般性がない」というところへ行く.
 スターを待望する人間のスターに対する期待値がとんでもなく低いところにあるから,そのレベルでスターにされてしまった人間はとんでもない災難だ.そこから抜け出ようとした途端“落ち目”になる.「若いときの瞬間的な才能だけですぐだめになるスポーツ選手」は,今や「グラビア・アイドル」と呼ばれるただの若い娘達の現実になってしまった.そういう種類の“スター”達の現実は,そういう“スター”と同世代の若い娘達の現実でもある.“スターである”と“スターでない”は,今や紙一重で,誰がスターになったってかまわないような現実があればこそ,「誰だか分からない,そこらにいそうな娘」が“スター”になる.
p.258-259「二十歳過ぎたらどんな人?」(橋本治『天使のウインク』)
>>

真面目に読んだ方には途中から何が言いたいかは分かってもらえたかと思う.
と言って別に言いたいことはなく,いつもの「連想」を記録しているだけだが.

今日の夕刊に「貧乏大家族アイドル」なる人の自殺の記事があった.
テレビで見た記憶はないが,「貧乏大家族」の生活をメインに取り上げた番組があるのは知っていて,
そこから出てきたんだろうなあ,と思った程度.
で,さっき上の抜粋書を付箋貼り作業のために読み返していて,
抜粋部分を目にしてすぐに,夕刊記事を連想した.

うーん,世知辛い.

+*+*+*+*+*+*

抜粋したついでに.
前にハシモト本で抜粋&コメント連載をしたけれど,
またやりたいなあと連載を終えた時に言って,
早速ちょうどいい本が目の前にあることに気付いてしまった.
それが上でも触れた『天使のウインク』.
この本も相変わらずのハシモト節満載なのだけど,
なんつうか今まで読んできた本より危険度が高い.
基本的に本質を突き過ぎており,まともに受け入れると
のほほんと日常生活を送れなくなる危険性がある.
さすがの僕でも(いや,変人なので)時々「ああっやめて」と
悶え苦しみながら読み進める記事があった.
が,そこをどうかして「翻訳」してこその「オサマー」(タツラーの真似.なんか中東…)
だというプライド(があると仮定しつつそれ)を発揮すべき,と感じた.
これが過酷だというのは,前回は予告時点で8割方原稿を書き上げていたのだが,
今回は思いつき先行なので貯蓄ゼロだからである.
付した(「連想が膨らむ」意味を込めた強調色の)付箋は9枚.
読み返しが終われば10枚ちょいかな,前と同じくらい.
要領はもう前回でつかめたので流れで悩むことはないが,
なにぶん内容が危険なので…「翻訳」に悩みそう.
そして「予告したらそれに満足してやらない」ジンクスもあり.
…ま,どーなってもいいか,というスタンスが鍵だと気付く.
なにぶんプレッシャーに弱いもので.

ま,どーなってもいいか.

 5.14追記
 『天使のウインク』の帯文を載せておく.
 本書が「危険な本」であることを予感させる.
  >
  恐怖を克服しなくてなんの人間か
  酒鬼薔薇聖斗から新潟監禁事件まで.世紀末の闇を超ド級のポップセンスで解読し,
  “天使が目くばせするような”方向へ私たちを導くハシモトの問題作.
  >

+*+*+*+*

上を書いててまた思いつく.
語感遊び.
「盛られるモラル」
盛られる,と言えば(コナン的には)アレしかないんですがね.
ここに見出されるのは,
常識を知りつつ非常識を装う「反常識」と同じイロニィ.
まあこれをイロニィと取るのは“常識側”なんですが.

アポトキシン,トリプトファン,ファントムメナス!
(誤変換で「アポと寄進」と出て一瞬凍り付いた.
 よかった,「ポア」じゃなくて)

+*+*+*+*+*

増殖.

DOKUGOのGODOKU♪ (気付ける,のか?)

SHOKUGOのGOSHOKU♪ (食べながら校閲しちゃダメ)
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by chee-choff | 2011-05-13 01:04 | ハシモト氏
男女差別について<WW-10_3> 完
2011/02/23 22:32
前回と同じ論の次章の抜粋となるけれど、
今回のテーマは男女差別について。

僕自身は深刻な差別を受けた経験はなく、
逆に集団の一人として差別に荷担する(見て見ぬ振り、
も荷担である)側に立ったことしかないので、
本テーマについては比較的さばさばと考えられる。

「差別はいけないのは当たり前」
という前提で始めたくないのもそのせいで、
非情に聞こえるかもしれないが正確に言えば、
「差別は程度により、必要に応じた存在意義がある」。
ちと表現に触れれば、「区別」も差別である。
で、これも「そういうもの」系の話だけれど、
集団が行う差別はそれによって集団内に連帯を生む。
仲間が一つのことを一緒にやるという意味で、
「立派な」共同作業だからだ。
つまり、差別する側(集団)も差別される側(個人が多い)も
お互いが「そういうもの」だと分かっていて、
「余興」だと思って差別を行うことには何ら害はない。
(例えば差別される人が困った顔をしながらも
「まぁ団結って大事だしね」と苦笑いで呟けるような。)

…と言ってそんな平穏な「差別」などはじっさい
滅多に存在しないのも事実なのだが。
そして差別が平穏でないのは、差別する側とされる側の
双方が「差別の構造」、集団心理を理解していないが故。
そしてまたその理解のなさを推進してしまうのが
現代社会を牛耳る「グローバリズム」の思想。

と突如話が大きくなってしまったが…
ここで言っておきたいのは、
「差別は区別に含まれる」と表現して「差別」という
言葉を中性的にしようとかそゆのではなくて、
(少し拡大解釈して)「全ての区別は差別に読み換え可能」
という認識が差別の構造を見通す助力となるということ。
格言風に言えば、
区別あるところに差別あり
だろうか。
そして当たり前にある「男女の区別」が、かつては
当たり前にあった(と言っていいのかな)「男女の差別」の
源であり、差別を見直すには区別に目を向けろ、
という方向性をここから見いだすことができる。
(つまり「ジェンダーと性差の違い」ですね)

差別問題が時に猛烈に深刻となるのは、
差別者と被差別者が互いに「差別の枠組み」を
意識できないくらい泥沼にはまり込むことがあるからで、
ここにあるのはそんな彼らに向ける言葉ではないが(彼らが
必要としているのは現実的な解決手段であって、
それを自ら生み出すための論理を提供しても
その論理を組み立てるための冷静さは失われている)、
長い目で見れば「差別の構造」を理解する人間が
増えていけば差別は必ず減少に向かうだろうと思う。
…今回は特に話がまじめだな。。

>>
男という同一単位が社会を作って、そこに支配者という上限を明確にするものを存在させてしまうと、同じ男の中に線引きが生まれて、身分差別が確定する。男の間に序列はあって、女はそれに準ずるものとしてその社会に組み込まれていくけど、「準ずるもの」という考え方は、果たして差別なのかーーですよね。「準ずる」を、「正当な権利を与えられないワンランク下がったもの」と考えると、これは差別になるけど、「女というものは男の社会とは別のところにいて、これを男の社会に組み込む時には、"男に準ずるもの"としてカウントする」だったら、別に差別にはならないでしょう。だって、その考え方は、もともと、「男と女は違うところに棲み分けている」ってことを前提にしてるんだから
(…)「男と女は棲み分けをしていた」という大前提を、どのように解釈するかの問題でしかないと思うんですよ。(…)今やグローバリズムになって、「全地球的に一つの基準であってしかるべき」という方向が強くでているけれども、これは所詮、「そうした方が儲けやすくなる」という、マーケットを支配する者の考え方で、反グローバリズムは「棲み分け」の肯定でしょ。
(…)
「女は内、男は外」という棲み分けだけれども、女にとって「外の世界」がめんどくさいのは、そこが「男だけの世界」だからかもしれない。だから、男が「内の世界」をめんどくさがるのは、そこが「女だけの世界」だからかもしれないーーそういう考え方も成り立つわけですよね。
(p.160-163「女って何だ? 5ー男女差別と『仮名手本忠臣蔵』のあるセリフ」同上)
>>
2011/02/23 23:15

そしてWWシリーズは今回で終了.
付した日付を見て分かる通り,
本連載は2月に集中して書き溜めたものを使って,
ブログに載せる前にもう一度読み直してコメントをつけている.
(いちおう句読点の違い(「、。」と「,.」)はつけている)
2月は『ひろい世界のかたすみで』を読了したてであったので,
ハシモト節がうつったかのような記述もあり,
自分で自分の書いたものに驚くこともしばしばあった.
ということで,ここに書いたものは確かに自分の頭が紡ぎ出した
言葉たち(と上のハシモト本の抜粋)で構成されてはいるのだが,
これを「僕の文章だ」と自信を持って言うことはできない.
一字一句すべてが僕の中で噛み砕かれ理解されて書かれたのであれば,
それを読み直して自分が驚くなどということはない.
「憑衣された」時に書かれたものは,憑き物がとれれば「なんだこれ?」である.
本を読み終えてから思いついたことを書く面白さはここにあって,
読む前には書けなかったことが書けるようになるんですね.
自分がびっくりすることを自分で書けるようになる.
それは本当に書いている間だけ何かが憑いていて
書き終えると跡形もなく消えてしまうものかもしれないが,
書いたことで「自分の中の何かが変わった」ことも完全には疑えない.

 何かが変わる.
 変わるを喜ぶ.


また連載がやりたくなったら,今後読む本でもいいけど,
『ああでもなくこうでもなくシリーズ』でやってもいいな.
あれはほんとこういう「いいとこチョイス&コメント」形式の
連載にとっては宝の宝庫(ん?)だからね.

以上,ここまで読んでくだすった方へ,
どうもお疲れさまでした<(_ _)>


「連載ってなんだ?」という方には,
+αとともに整理したタグと最初の記事をリンクしておきます.
ご興味があればどうぞ.

 →「ハシモト氏」タグの記事
 →連載初回
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by chee-choff | 2011-04-22 21:53 | ハシモト氏