深爪エリマキトカゲ
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カテゴリ:ink now( 9 )
敢えて考える6(完)
これにて完結.

◆2011/01/30 13:15
2010/01/26 02:24
そして心身一体。
…腹の調子が悪い。
ここ4日ほど。
左腕に山脈をこしらえてからの気もするが、
傷は多分関係ない。
 「左腕の山脈」という表現で分かる人はいないと思うが、
 これは言ってしまえば「自傷痕」である。
 と書くと別の意味で深刻になってしまうのだが、
 何のためかといえば「気合い入れ」か「眠気覚まし」。
 思えば高3で駿台に通い始めた頃に、
 平均睡眠時間3時間が身体に課する不調を
 気合いでカバーせんと、爪楊枝で左腕をピーッと
 引っ掻いたのが始まりであった。
 長さは大体ヒジから手首の辺りまでで一定で、
 強さはその時の眠気や覚悟の程によって変わったが、
 強い時はうっすら血が滲むほどであった。
 以後も年がら年中ではないが、主に頭をフルに使う
 場面ではたびたびこの気合い入れに頼っており、
 (大学の講義の試験期間や弁理士資格勉強の時など)
 爪楊枝のケースを仕立てて持ち歩く時期もあった。
  ついでに言えばその爪楊枝は気合い入れだけでなく
  「お口のお供」にも使っていて、四六時中くわえては
  ぼろぼろにした経験もあって竹製の楊枝を好んで
  使っていた。竹製の方が鋭く固いので、こさえた
  山脈のヒリヒリ感もいや増すのであった。
 もちろん今はそんなに頑張ることなんてないので、
 (頭は家でもグルグル回すが、期限付きの目的も
 ないので燃料が切れたら食べるか寝るかすればいい)
 学生を辞めてからはお世話になっていない。
 が、左腕を子細に眺めると盛り上がった「山脈」の跡が
 10本は残っていて、ああこれは年を追うごとに
 だんだん浮き上がってくるのだなと思う。
 「昔こさえた傷は年をとってから浮き出てくるんだよ」
 と小さい頃祖母に言われて、出血してもかさぶたが
 取れればつるつるの肌が取り戻せた当時の僕は
 「そんなバカな」とまるで信じていなかったが、
 そうかそれを実感せざるを得ないようなことを
 自分は自分にしてきたのだなと感慨深し。
 
精神が限界(というよりはそれより手前にある、
とある閾値)にきて、その精神のダメージが
身体にもやってきたと。
でもこれは防衛反応の一つだと考える。
不健全な思考を野放しにして悪状況に呑まれて
精神崩壊するよりも、肉体的に違和感を与えて
脳の活動を鈍らせた方が自身の安定につながる、
と身体と脳の合議体が結論を下したような気がする。
 なるほど言われてみればその通りだと思う。
 これは多分当時読んでいた本の影響。
 けれど「身体と脳の合議体の結論」は多分違っていて、
 「身体が脳に反抗した結果」が正しい。
 もしかすると、その身体の反抗を脳が現状からの逃避に
 使えると判断して受け入れた、ということを
 含意させた表現なのかもしれないが。
 「体調不良だと気兼ねなく会社を休める」
 という感覚と同じようなものだろう。
 とすると…今の自分は後者のように思っているところ
 (もちろん体調不良になった理由は「過労」に
 限られるわけだが)、まだまだストイックを免れて
 いないのだろうか。まぁもう諦めてるけれど。

だとすれば、「まだ精神は大丈夫だよ!」と脳が
再度の主張をすることで、この腹痛から逃れられる
可能性もあるが、同時に、身体が脳を過信して
その主張を了承したがためにとんでもなく鬱になる、
という可能性だってある。
別にどっちでもいいのだけど(結果として選ばない、
ではなくなるようにしかならない、の意味で)、
ただ一つ言えるのは
「この腹痛に助けられているところがある」
ことだろう。
生存戦略を体で理解してくれている、身体に感謝。
 随分まともなことを言っている。
 こうやって頭はしっかり働いているところを見ると、
 「方策が分からずどうしようもなくなっている」
 のではなく、「するべきことは分かっていて、遂行に
 どれだけ自分が耐えられるか」の次元に問題があった
 ことがよく分かる。社会人になってからこれと
 同じ状況に陥ったとすれば「さっさと逃避する」が
 最適なソリューションで間違いない、と
 今の自分は思うが、それは独りでいるからだと思う。
 つまり、会社の中ではなく、プライベートな場面で
 「他者との(生身の)関係で」責任を負うことになれば、
 当たり前だが解決の難しい問題となる。
 (そこでは「逃避」が「現実逃避」になってしまう)
 そしてその難題に対して経験的には全く「お手上げ」な
 今の自分には責任を負うことの大きなプレッシャーと
 なるわけで、でもそれも実は大変よくある話であって
 結局は「なるようにしかならない」。
 「どうすれば責任を負わないで済むか」とか、
 「責任を責任と感じないような価値観はあるか」とか、
 そういう方面に貴重な知的リソースを使いたくはない。
 やはりここは「経験的に未知であることに対して
 如何に思考で立ち向かう(受け入れる)ことができるか」
 を主軸に据えてじっくり考えていきたい。
 おお、偶然にもうまく今と繋がって締められた☆
 というわけでここまで読んでくだすった皆様、
 お付き合い頂き、どうもありがとうございました。

2010/01/26 02:32
◆2011/01/30 14:03
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by chee-choff | 2011-01-30 16:07 | ink now
敢えて考える5
久しぶりに「ink now」の続編.

何の話かもう忘れてしまった方はまずこちら(の後半部分)をどうぞ.

話はいよいよ山場.

と言っても「自己の腐敗度」が山場というだけだが…


◆2011/01/18 01:01
2010/01/24 13:10
昨日思ったこと。
もしかすると、今の自分は「羨ましがられている」
のではないかという発想を持った。
 これは明らかに自己防衛反応ですね(笑)
 ここらで危険水域に入ったと見ていい。

個人で閉じていれば思い至るはずのない発想だが、
研究室の人間(具体的にはKが一人でいる時だが)を
見ていてふと思った。
 困ったら身近な他人をダシに使う、と。
 まぁ常套手段ではあれ、その内実を今ここで晒す
 という神経はちと常軌を逸する気がしないでもないが、
 (過去の非常事態の自分であれ)自分のこういう中身が
 他人に了解されていると思い込むには
 格好の材料(行為)であって、それ込みの目で他人から
 見られてそれを吹き飛ばすようなオーラを自分の内側で
 形成する必要に迫られる様まで想像する自分は
 もう救いようのないマゾですね、といった話を
 続けていると立場がどんどん悪くなるので(今更か)、
 この辺で自粛。

なぜか。
昨日、M2のKはこの時期にも関わらずPS3で
楽しんでいるようであったが、ふとその振る舞いの影に
「不満」を見て取ったのだと思う。
それが僕自身と同じく大した研究でないことによるのか、
彼がそれを認識しつつかつちひろはなぜそんな泰然自若と
していられるのか(あるいは明晰なオーラを醸して
いるのか)に疑問を持っているのか、
あるいは(詳述はしないが)日頃の振る舞いが欲求の度を
高めたがために中途半端な自分の立ち位置に
苛立ちを覚えてしまうのかはわからない。
 なんとかぼかしてるけど酷いこと言ってるねこれ(笑)
 幸福や満足の指標は(特に身近な)他人との
 相対値によって大きく左右されるわけだから、
 他人を落とせば相対的に自分は浮上する。
 そりゃもっともだ、もっともなんだけれども…
 自分の思考で押しとどめるのであっても通常は
 その行為自体に後ろめたさを感じるものである。
 その後ろ暗さの理由までは普段の人はほとんど
 前景化させないかなとは思うけれど、実は
 「思考は顔に出る」ことを経験上みんな
 知っているからではないかと僕は踏んでいる(何を?)。
 つまりは「考えている内容の傾向はなんとなく
 相手に伝わってしまう」ということ。
 身体性が軽視される「脳化社会」では相手の表情や
 佇まいを読む技術も廃れる傾向にあるだろうから、
 逆に「思考内容と表情をちぐはぐにさせる」技術を
 こちらが磨けばそれは使えるのではないか(何に?)。
 と、ふと(ここ強調)思ったりもする。
 あ、あと「ちひろ」とは自分のことです。
 名前の由来は「千と千尋」からきているのだが
 (中学で先輩に「今日からお前は千だ!」と言われて
 それがダジャレだと気付くのに大変な時間を
 要したことに由来する)、そして一気に話が逸れるが、
 実は近々ブログのコンセプトをきっちり考え直そうと
 思っていて、それを如実に表すであろうブログの
 タイトルを「ちひろ氏の生活と意見」にして
 一人称を「ちひろ氏」で綴っていこうとか考えている。
 (ちなみに森見登美彦ブログの一人称は「登美彦氏」)
 まだ全然詰めていないので妄想的予告はここまで。

…こういった話はもちろん人に(当人になぞもってのほか)
話すたぐいのものではないが、自分で独白するにせよ、
自己弁護の詭弁の砂上楼閣的屁理屈であるとの視点を
免れ得ないが、そもそもそのような表裏(正邪?)一体の
論理にこそ(身体性、あるいは誠実が含まれていれば)
(少なくとも当人にとっての)真理が見いだせると考える。
 あ、自分でも気付いてますねこれ。
 しかしよもやこの「独白」を公開することになるとは
 思いもよらぬであったろうに(とものすごい他人事)。
 ちなみにここの「砂上楼閣的屁理屈」はたしか
 「モリミー語録」に入っていたかと思う。
 (=森見登美彦の著作に出現するオモチロイ単語集)
 これをぜひ習得したいと思い『太陽の塔』を
 数年越しに6回読み返したりもしたが…
 まあそれはまた気が向けば。
 そして「表裏一体」がよくわからない。
 たぶん「ふつうに考えるとよくないことの中にも
 よく見るといいことが含まれている」といったことを
 言いたかったらしい。言いたい放題やね(笑)
 あと困った時はなんでも「身体性」をもってくる、と。
 この言葉って適用範囲が広いからいろいろ言えた気に
 なっちゃうところが少し恐い。
 のでもう少し自重した方がいいんじゃないかな。
 ー>今の自分

逆に言えば、「反論の仕様のない正義」には実用性など
これっぽっちもありはしないのである。
 そこで(その「正義」を振りかざされた時点で)
 対話(議論)が終わっちゃうからね。

まぁこういう議論を一遍やってハイ解決ではなく、
延々と堂々巡り(に思われるが実は山頂に向けて山麓を
少しずつ上向きにぐるぐる回っているのだ、という
比喩はウチダ氏から頂いたもの)を繰り返してこそ、
自分のスタンスの誠実さが担保されるのである。
つまり「この道も楽じゃないな」ということであり、
「この道」とはいつか心に決めた「もう考えないことから
逃げない」のことである。
もちろんそれは大前提の話で、身体性を敏感に
しておきたいかたわら疲れたら無理せず休みたいわけで、
それは忙しい時もさらなりということなので、
こうして修論執筆真っ盛りのこの時期に
関係のない思考に励みつつ取るものはきちんと取るという
方針も守りつつ無理しないという意味での退路(側道か)も
きちんと確保されているという「高安全率の安心設計」
がここに確立されたのである(安心って何?)。
調子いいね。
 最後らへんはもう手が勝手に動くがごとく書かれた、
 というか打ち込まれた記憶がうっすらある。
 今までずっと考えてきたことやずっと読んでいる著者の
 言い回しなどは本当にするすると出てくる。
 「他人の言葉を語るほど饒舌になる」のは本当。
 それを「自分の言葉で話せている」と誤認せず、
 かつ自分の言葉を導くための「繋ぎ」であるとの
 自覚を強く持つことが、言論で生きる人間には
 必須のスタンスかと思う。
 あくまで「言論で生きる人間」の話。
 彼らはふつうの人に貸すための言葉を用意することを
 生業としているわけだから。
 だからふつうの人は「他人の言葉」を「自分の言葉」
 として話すことに躊躇する必要はない。
 むしろ日常はその行為で埋め尽くされている。
 気をつけた方がいいのが「程度を守ること」、
 そのためにあると便利なのが「自覚を持つ」。
 それらを「利便」ととるか「謎」(好奇心を誘うという
 意味で)ととるかが、ふつうの人と言論人の分かれ目。
 なんか話が変な所に…そしてここでおしまい。。

2010/01/24 15:57
◆2011/01/18 02:01
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by chee-choff | 2011-01-23 17:31 | ink now
経験を残すとは
経験を残すとは

2009/10/24 15:07
2010/11/09 19:43追記
散歩中に可愛い子を見つけた時、
彼女のどこが可愛いのかと、
無意識に思考が進んでしまった理由。
 (注:普段からこんなこと考えてるわけでなく、偶。)

それは多分、僕が「考える」目的と通ずる。
→タイトル。

・既視感

それを言葉で綴っていくとしよう。
あとで見て再構成できるかといえば、多分無理。
言葉が一人歩きするだろう。
とはいえ、一人歩きするのは、
書いた文章を頻繁に読み返す場合ではないか。

むしろ、インスピレーションが働いた時から、
それが薄れるまでに言葉にする作業ができれば、
その作業を通じて(その時に)さっき見た顔が、
感覚の中に定着するのではないか。
顔の何がと言われれば、
具体的な特徴かもしれないし、印象・雰囲気かも。
たぶん意識できないところで定着するのは後者。
そしてその積み重ねが多ければ、
顔を好きになれる人が増えるのだと思う。
(いま顔の話をしてるからこう「顔」と言ってるだけだが)

ここで「既視感リンク」の話とつながる。
 (「既視感リンク」と名付けた過去の記事はここの後半くらい?
  その記事の発想元たるウチダ氏リンクはここ.)

「何かよくわからないけど惹かれる顔」というのがある。
そのよくわからないものの解明を目指すことは、
いま話していることとは関係がない。
上で言った「積み重ね」があると、
こういう「よくわからない惹かれ方」をより多く
経験できるのだと思う。
たぶん、よくわからないことはそのまま、
放っておくのがいいのだろう。
わかろうとして把握できるものではない気がする。

2010/11/09 19:40
↑の続き。
それはきっと「無粋」なことなのだ。
あるいは、「分からない」をもっと増やすためになら
わかろうとする趨向に棹さしてもよい気がする。

「分からないを増やす」とは、「感覚を割る」こと。
それは例えば、ある好きだと思う顔があって、
「なぜその顔に惹かれるのか」
「その顔の部分に惹かれるならそれはどこか」
「惹かれたと思った(=その顔を見た)時の前後の
 自分の状態はどうか」
 →顔の火照り、心拍数、視野狭搾の程度、…
といった疑問をどんどん増殖させていくこと、
そして同時に、「ああ、こういう(一つの)理由であの顔に
惹かれたのか」という短絡から永遠に遠ざかること。

それは、その顔の「良い所」(と勿論「悪い所」も)を
無限に発見していく作業でもある。
それは快楽でもあり、時に苦痛でもある。

それは物として見えぬほどの、
とても小さな「変化の体現」でしかない。
けれどそれを(もちろんやってくることは避けられない)
自ら追い求め、受け入れることは、
とても大きな意味で「人の本質に適う」。
その「種と個の隔たり」を少しでも埋めようと思うなら、
今では微かなる「種の声」を花鳥風月の便りに聴きつつ、
個たる己の方から歩み寄っていくしかない。

それは、終わりのない夢。
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by chee-choff | 2010-11-09 20:19 | ink now
敢えて考える4
◆2010/09/27 23:04
2010/01/21 20:22
「今しかできないことをする」の中には、
「今しか考えられないことについて考える」が含まれる。
さらに言えばそれは、
「今でしかこう考えさせる状況は来ないだろう」
という自覚を持って考えることでもある。
これも一つの「攻めの思考」。
>「現象の一回性」あるいは「再現不可能性」に
 きちんと向き合うということ。
 これが今では意識しないとできないというのは、
 メディア(=記憶媒体)の発達という世の事情もある。
 もうひとつ、「思考は行動に含まれない」
 と言われて割と誰もが首肯するのではないか。
 語の意味をきちんと考えればそんなはずはないが、
 「何かを生み出してこそ」「何かを得てこそ」
 あるいは「金を使ってこそ」行動した意味がある、
 つまりそれらを行動と呼ぼう、と世間では
 思われている節がある(と僕が勝手に思っている)。
 (もっと言えば、そんな考え方ができるのは
 自分のやりたいことが今の自分に全て分かっていて、
 それを自分の想像する通りに実行することが
 幸せの体現であり、本人の意図とは無関係に
 その「予定調和」の前後では何ら変化のない
 「無時間モデル」を思考の枠組みにしているからだ) 
 その退廃あるいは単純化の元凶は
 資本主義の跋扈にあると言挙げするのは簡単。
 が、その恩恵に浴する身として全否定はできない。
 むしろその己が態度こそ不遜と思われても
 仕方がないという諦念を持ちつつも、
 「それでいい」という身体の声に従う他はない。
 「でも一人じゃイヤ」という声も
 無視するワケにはいかないのだが…
 複雑な世の中では「身体の理」が真っ直ぐ通らないか。

で、本題。
…なんだっけ。
上の言い換えを楽しむうちに忘れてしまった(笑)
>この時はたぶん、書いてる間に言い換えが
 ぽこぽこどんどん湧き出してきたのだと思う。
 これはホントに楽しい。
 出てきたもの価値のある(他人が読むに値する)ものか
 どうかは全く別問題だが。
 後から読み直すと「しらける」ことが「まだ」多い。
 これは鍛錬を積み重ねることで改善できると信じる。

…あ、思い出した。
「この修論追い込みの時期にマジメに本が読める神経」
について。
まわりの状況を考えれば、この時期は修論執筆に
追われていなければ落ち着いていられないのは当然。
が、その「まわり」とはもはや隔絶されている現況。
>=研究室の学生部屋から離れた助教と二人だけの
 「閉鎖空間」で、助教は全くやる気がないという現況。

マジメに研究やる環境もないし、モチベーションも
見る影もない。
それでも緊張感だけは(これは余計な「空気を読み」
取っているのだろう)つきまとう。
>この辺話が矛盾してるような気がしないでもない。
この勝手に増幅するポテンシャルをどこに解放すべきか。
で、僕はそれを読書に解放しているというわけだ。
いつもの読書と読む本を変えれば、読書に
「いつもと違う雰囲気」をもたらすことは可能。
たまたま今回(次回はもう期待したくないが)は
橋本治の論考がジャストフィットしているのだ。
>この時はあまり想像していなかったようだが、
 今では「橋本治本」が座右の書になっている。
 もしやこの時に思考体系に大きな変化があったのかも。
 思い返せば「一皮むける」のはいつも、イケイケで
 充実した行動の日々を送れていた時期よりも、
 「苦しみのまっただ中」をどう耐え抜くかの
 七転八倒の日々を送っていた時期なのだ。

これは…まぁ主観的だれど「昇華」だよね。
そう信じたい。
2010/01/21 20:31
◆2010/09/27 23:28
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by chee-choff | 2010-09-27 23:37 | ink now
敢えて考える3
◇2010/08/02 00:30
2010/01/20 22:39
「攻めの思考」でいこう。
アセアセする時期であっても、
常に頭の回転はスムーズであるように。
>「攻めの思考」とはトピックに関わらず
 積極的に考えていこう、という姿勢であったかと思う。
 対しては「守りの思考」になるのだろうが、
 多分この意味では「逃げの思考」の方が対義語に近い。
 この場合は、「思考をしないが為の思考」に
 及んでしまうということ。
 この流れで「考えてるんだから大丈夫よね」などと
 口走ってしまえばもはや全く大丈夫ではない。
 自家中毒とはこのことを言うんではなかろうか。

その維持のミソは「割り切り」にある。
>くよくよするな、と。
 というのはほんの上っ面であって,
 詳しくは「タイミングの良いところで区切りをつける」ということ.
 そのタイミングは現在進行形で思考している脳には判断できない.
 脳の思考(の内容やら,思考時間と連関する疲労やら…)に対して
 心地よいと感じたり気持ち悪いと感じる身体ならば適切な判断が可能.
 これと似た話は「敢えて考える2」でもした.
 脳も体の一部であるからして,
 心身一体ならぬ「身脳一体」なわけですね.
 (ここでは「心」は身体と脳の相互作用によるもの,と考えている)
 もちろん,「身体の声を聴く」能力は昔以上に努力しなければ簡単に廃れる.

「もしも」をしっかり想定し、
その実現を受け入れられるだけの心構えを持つ。
もちろん積極的に「もしも」を受け入れはしないが、
その「構え」があるとなしとでは、
アセアセする「今の今」の時間を大事にできない。
>「大事にできない」→「大事にできる程度が
 変わってくるだろう」と言いたかったのでは。
 ここでいう「もしも」とは恐らく、
 修論が通らなかったとかそういったネガティブな
 展開のことであろう。
 「しっかり想定」というのもやればやるだけいい
 というものではないのは今考えれば当たり前。
 そのせいで前に書いた「自分の想像に負ける」ことも
 起こりうるわけだし。
 とはいえ,「考えたら分かるかもしれないけど分からないこと」を
 野放しにするのは不安を見て見ぬ振りするようなものなので,
 自分が納得のいくまで未来のパターンを想定するべきである.
 そして「ここまで考えたらいいや」の締めにも思考の跡を残すべきだと.
 なんだか論理馬鹿みたいに聞こえるかもしれないけど,
 (精神面において)重要なのは,「内容のある思考をすること」よりも
 「思考をした痕跡を自分の記憶にしっかり残す」ことであり,
 実際のところその思考内容は忘れてしまっていてもあまり問題はない.
 本気で考えたものは意識せずともしっかり刻み込まれるものだし.

余計なことは考えないが、
繰り返しの堂々巡りでなければ、
それは余計なことでない(場合が多い)。
>「繰り返しだと気付いていない繰り返し」が一番タチが悪い.
 生半可な思考で納得しているとこのドツボにはまりやすいのは想像に難くない.
 「同じようなことを考えているな」と感じる回数が増えるほど,
 「過去に幾度かした似たような思考と今回の一連の思考は
 如何なる点において異なるのか」を見出すのが難しくなる.
 がその困難を幾度か乗り越えてこその「ブレイクスルー」もあるわけだし,
 その困難を和らげる方向性として「より微細な変化に焦点をおく」逃げの手もある.
 まぁこの逃げというのも「王道からの逃げ」であって別に悪いことではない. 

常に、臨機応変に。
この時期にいかに頭が働くかは、
結果として出るものがどうあれ、
必ず後々に生きる。
それは間違いない。
>うん、ポジティブだね。
2010/01/20 22:43
◆2010/08/02 01:16
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by chee-choff | 2010-08-26 00:17 | ink now
哲学の道は京都のみにあらず
これは修論もろもろ全て終わってから書いたもの.
だからはっちゃけ全開かというと全然そうでもなく,
修論執筆時と同じ雰囲気を引き摺り続けている.
ホント散歩以外何もしない生活が習慣づいてしまうと,
束縛から解放されても何もしないのねといういい実例.
それで本人が満足してるなら何の文句もないがね(と他人事).
だから,「苦悩」ではないのだけど当時の思考全般を「悩み」とするなら
これも含まれるだろうということで加えた.

タイトルから想像できるほど大したこと書いてないのが迷惑千万.
しかも何が言いたいのかも汲み取れないというw
思いつきって無責任ね.



100314散歩

2010/03/14 20:54
早朝に2泊4日のスノボから帰ってきて、
昼まで寝て飯を食べると、
体はあまり疲れていないことに気付いた。
そして出発前は完治していなかった風邪もどうやら
ほぼおさまったらしい。
というわけで、夕方から西の方に散歩に行ってきた。

烏丸今出川から北に少し行った所にブックオフを
見つけてしまった。また行かねば。
それはおいといて…

風景を取り入れる意識をもって歩いていると、
ほんとにいろんなことが取り込める。
いや、取り込むというよりは風景を認識した時に
自分で意味づけた(あるいは連想した)ものを
印象として脳に刻み込む、といった感じ。
>もっと詳しく言えば,
 とある意味によって関連づけた二者が刻み込まれるのではなく,
 その「関連づけた意味」が前面に出て刻まれる.
 本来(というか「特別考えることをしなければ」)結びつくはずもなかった
 二つの事柄がネットワーク線で繋がれた,という経験が
 まず強い印象として残り,その意味が記憶の奥底から前面に出てくる際に
 「ひとつの意味で繋がれた二者」も同時に顔出す,という印象がかなり近い.
ひととおり歩いてから出町の王将で食べている時に
散歩時を思い返してみたとき、
出てくるものはやはり何かしら想像した時に
一緒にいた風景であった。
その何かしらの想像の中身はあまり定かではなかったが…
多分覚えている風景を浮かべていれば思い出せるはず。

というわけで思い出す。
>ここから意味不明な言葉の羅列が続くけれど,
 まぁ「関連づけた意味」から「関連事象」の再構成の
 イメージが分かってもらえれば幸い(かなり無理言ってるけどね).
・飛行機雲のエックス字。
 時間差。
 交差部分が消えるとまた別の形に。
 よく見ると二筋の線、
 時間経過で一筋にまとまる。
 >たぶん直角に近いエックス字ではなく,
  平行に近い方のエックス字であったのだと思う.

・いつもの出町商店街前のT字交差点。
 車の列と隣の交差点、
 これらに合うBGMとは。
 あるいは、これらとは別に決定されたBGMと
 これらをつなぐ「印象」とは。
 (「車の列」という絵がわりと普遍的なのかも)
 >「この風景に合う曲がありそう」とこの時思った.
  こういうことはたまにある.
  ここではその風景に合った曲の名前は書いていないが,
  後に同じような風景に遭遇した時に(まさに)「再生」されることが多い.
  また,「あるいは」で続く言い直しが少し気になる.
  …今ちょっと考えてみてもよく分からないのでこの案件は
  「違和感の断片入れ」なる脳内ボックスに放り込む.

・どこかの寺の表札の字。
 達筆でなく、幼げな字体。
 単に下手だとも場違いとも
 気遣いが全くないとも言えるし、
 こういう字体に親しみを持つ人々を
 対象としたお寺なのかもしれない。
 >失礼千万w
  ちなみに僕は書道2級,硬筆2段(小6時).
  ネタにする以上のプライドなど欠片も残っていない.

・おなじみ同志社の寒梅館。
 初めて見るアングルから見たので、
 最初はそれと気付かなかった。
・葬儀会場を囲む白黒の幕。
 あまり凝視できない。
 口が動く独り言もはばかられたので、
 もごもごしていた。
 何をもごもご言っていたかは不明。
 多分「そういうことだよな」とかそんなの。
 なにがそういうことなのかは不明。
 >その葬儀会場の雰囲気に取り込まれたくなくて,
  客観的な立場を保ちたくてもごもごしたのだと思う.
  心の中まで無言でその白黒を見つめていると,
  多分「勝手に引き込まれていた」のだろう.
  普段からそういう「没入力」みたいなのを培っているので,
  その無意識の発動を抑えたのではなかろうか.
  きっとこの当時も「そういうこと」の中身をちゃんと想像していて,
  それを再現時にも覚えていたにもかかわらず「不明」と書いたことは
  何となく分かる気がする.
  自分の中ではいくらでも何でも明らかにしてやると決意していても,
  その決意が外に向かう(=他者に分かるように出力する)までには
  大きな壁があり,それは時が来るまで(それは墓場までかもしれないし,
  そこまでぶっちゃけれる近しい人の登場時かもしれない)越えてはいけない
  壁でもある.
  …訳わかんない書き方ですみませぬ.

・古本屋を発見。
 店頭のセール本だけ眺める。
 須原一秀の本があった。
 100円だし一瞬買おうかと思ったが、
 立ち読みするに口調がアレなのでやめた。
 遺本で印象に残ってた人ではあるんだが。
 >ここでいう遺本とは『自死という生き方』のこと.
  類い稀なるテーマであったので前に読んだことがあったのだけれど,
  その時は「こういう話を文章にするのは至極難しいことであるのだな」
  という程度の感想しか持たなかった.
  読む前はある種の憧れがあったのだけど,それが読後に消えたのは確実に言える.
  僕は人に勧めようとは思わないけれど…興味があればAmazonで検索してみては.

・帰りの夜道。
 右側の家並みに既視感を覚え、
 「これは出町商店街を抜けた所の家並みと同じでは?」 との印象が、道を進んで裏付けられた。
 単に同じ道であったというだけだが。
 この既視感を言葉で表すのは難しいと思われる。 
 >「裏付けられた」とは,道を進んで思った通りの場所に出たということ.
  町並みが一辺で整っているのなら至極ありきたりなことではある.

なんだか普通の日記のような気もするが、
主に風景に特化して書けているとは思う。
これを何度か繰り返して慣れたとすれば、
記憶の掘り起こしが楽にできるようになる気がする。
気が向けば試そう。 


コメントを足しながら何か足りんなーと思っていたら,
「記憶を掘り起こした過程」が書かれていないことに気付いた.
ぽこっと生まれたその日の風景が何に依って出てきたのか,
その「きっかけ」であり,「ぽこっ」の膨らみが大きくなる
瞬間前の「萌芽」を,今の自分は見たかったのであった.
ここにはそれは書かれておらず,「ぽこっ」がきちんと形になったのを
見届けてさらにそれを整形したものしか書かれていない.
まぁその「整形後」から「萌芽」を再生あるいは類推することも
できるとは思うのだけれど…
今日はもう疲れたのでまた気が向けば.

…またひとつ支離滅裂に磨きをかけてしまったw

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by chee-choff | 2010-08-16 21:41 | ink now
敢えて考える2
◇2010/07/22 23:33
2010/01/19 18:16
「考えるの止めたら病気らしいよ?」@あめふるはこにわ
「手触りのないものは信じません」@小田切学
という言葉たちが身に染みる今日このごろ。
>上は「あめふるはこにわ」(Treow氏)の歌詞、
 下は『少女ファイト』(日本橋ヨヲコ)の
 登場人物のせりふ。
 たぶんああいう精神状態にあって、
 するっと出てきた言葉なのだと思う。


前者について…「まともな思考ができてるかどうか」を、
正常かどうかの指標にしてよいと思う。
今の(=本を読むのが日常たる今の)自分にとっては。
つまりは普段で一番落ち着いている時の思考と
「なんかやばいんじゃね?」て時の思考を比べればよい。
…ていう想定が混乱時にできないという話だった。
だからもう単純に「頭が思考可能か否か」でいいか。
>「頭が思考可能か否か」の確認は、
 そういう視点に立てれば確認できる。
 頭が働いていない時にはその視点に立つことすら
 困難な気もするが、それは例えば部屋に警句なり
 標語なりを書いた貼り紙をしておけば実現可能。
 ただそれはそれで日常的に変なプレッシャーが
 増えるような気がするので別の手だてを考えた方が
 良さそうだが…まぁなんにせよ思考を楽しんで
 できていれば○ではなかろうか。
 「考えるのも面倒だ」がどの問題に対しても唯一解に
 なってしまった時に、自分の頭を疑えばいいと思う。
 そこにくれば解決策は至極簡単で、
 「(食べて)寝る」に尽きるわけですね。
 「時間が解決」もあるし、「健全な魂は〜」もある。
 すぐに解決しようとしないこと。
 思考の本質は「無時間モデル」であり、
 時間の経過に従って思考が変化することを
 思考そのものは把握できない(「思考が把握する」
 という表現も変だけれどまぁそれを許すとして、
 「この先を考えてもわかんないしやめよう」という
 判断は当該思考の外から成されるものである)。
 つまりは「躰の声を聴く」ですね。
 …小休止。
 2010/07/22 23:46
 再開。
 2010/07/25 00:02


一方の後者。
想像力の使い方の問題やね。
上(17日)に書いた「想像力豊富さんの欠点」というのは。
想像が悪い方(と言い切れるわけでもないが)にいきそうな
時に、歯止めをかけてくれる言葉がこれ。
他人が絡んでいる時は特にね。
普段接している他人が絡んでいて、その人について
彼自身が語ったものでないことについての彼の情報、
それは彼の口から語られたものからの類推もしくは
完全に僕自身の想像のなすものであって、
それにふりまわされそうな時にこのことを思い出す。
>「噂は単なる噂に過ぎない」ということ。
 噂を信じてよいのは、それを自分の中で楽しみとして
 捉えられる場合。信じると言っても「本当だと思う」
 ではなくて「本当だったら面白いな」の方。
 あ、これは信じるとは言わないか。
 本人から直接聞いた話でさえ真偽のほどは不確かゆえ、
 人づてに聞いた話に取り込まれるなぞ言語道断。
 …「人は自分のことも分からない」を当然の常識と
 してしまうとこういう発言も軽口になってしまう。
 真偽と認識とは同じ次元にいないのだと思う。
 その理解は現実と妄想の適切な共存に寄与するはず。
  ついでに言えば噂を広めてもよいのは、
  その楽しさを他人と共有できそうな場合、
  かつ噂を構成する当人がそれにより傷つかない場合。
  まぁ後者はそう簡単に判断できるものでもないから、
  噂の発生源の影響力とか、所属コミュニティの
  噂に対する姿勢とかを総合して流れに身を任せる
  しかないのだろうと思う。

あるいは、なんか引っかかる(落ち着かない)話が
あるなと感じた時に、その話の出来元を思い起こす。
>噂は伝わる間に「伝言ゲーム」のごとく
 ころころ形を変えていくものであり、
 「おおもとは何であったか」という方向の想像が
 持てれば、その特定が叶わずとも末端の
 へんてこりんな話を鵜呑みにすることは避けられる。
 ここで「思い起こす」と書いているのは少々
 長めの説明を必要とするのだけれど、
 やな日々を具体的に思い出すことになるので割愛。
  と書いて「割愛」という文字に見とれるのだけれど、
  語源的に何を「省略」したのかが凄い気になる。

やっぱ考える人として、
この方がいいよね。
2010/01/19 18:32
◆2010/07/25 00:21
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by chee-choff | 2010-08-03 21:33 | ink now
敢えて考える1
d0044938_21292983.jpg

◇2010/07/20 00:42
これら(下に始まる白抜き文字)は自分が逃げ出すちょっと前に書いていたもの。
(この続きはあと4つくらいあるのだけれど,それ以外に
日々の謎めいた思考の断片もわんさかある.
それらも織り交ぜて今後載せていく予定.)
不条理な研究環境に耐えようとなんとか
自分をなだめすかす論理をぐちゃぐちゃさせているが、
結局この方面の努力の甲斐なく一度京都を
飛び出すことにはなった(実家は大阪なもので)。
(とりあえず京都からは抜け出して実家たる大阪にて
旅の準備を始めようと思った。その時に顔を覆うほどの
ストレートロン毛をばっさり切り落としたのだった)
ただだからといってこれらの思考が全く無駄であった
わけでは当然なく、むしろ延命措置にはなったのであり、
ほだされて戻ってくる際の変わり身の早さにも寄与した。
何より「自分はこのような思考をひねり出せる」という
経験ができたことが大きいのであり、
必死であった当時の感覚も呼び起こせる範囲で
再現しつつ、当時の境地においてでしか有効性のない
論理ばかりでもないと(詳しく見直す前である)今は
とりあえず思っているので、単に(過去の自分をネタに
して笑う意味で)面白いという以上に、きっと
将来の自分の糧になるとも思っている。
…前置きはこれくらいにしときましょか。
ではいざ本編へ。
◆2010/07/20 00:50

◇2010/07/20 22:20

2010/01/17 17:48
「考えないことから逃げない」と言ってしまったから、
 これ違うね,「考えることから逃げない」やね.10.09.27訂
考えない方がいいと予感されるものについても、
考える理由ができてしまったのである。
>この「予感」は当たっていた可能性もある。
 まぁ未知なプラスに対して分かりやすいマイナスが
 どっかと前方に腰を下ろしていただけなのだろうが。
 こういう話はいつまで経っても「正否」がつかない。
 もとい、その判定を下す時に応じて変わる。
 「過去(+現在)の解釈は未来に委ねられる」わけだ。
 これは幾世代も通じての語り口として多いが、
 閉じた一個人においても勿論言える。


で、本題。
「僕が修論執筆を放棄したらどうなるか」。
両親の期待にちと沿わなくなる。
>「ちと」は過小評価、ですかね。
学部卒の経歴が一生残る。
入社後の給料が減る。
社内で妙な注目をされる。
>自意識過剰。
働くまでに気楽に過ごせる日数が1ヶ月増える。
精神の休息が得られる。
と見せかけて後悔が残る可能性もある。
それを後悔と思わないための精神修行が始まる。
>このあたりから無限ループに入り出す。
 が、それをここで止めるあたり
 「マジメなプラグマティスト」であると自己評価。

社会適合性(周りに合わせる意の妥協力)が弱まる。
>挫折の経験は同種の圧力に対してマイナスに働く。
 精神的に思い悩んだ経験が多くあると、
 論理でそれをねじ伏せても自然と
 身体が拒否反応を起こすことがある。
 その身体の脆さは結局思考に伝染して、
 自分の構築した論理に自信が持てなくなる。
 (←「健全な魂は健全な肉体に宿る」)
 こうまでなると「外部の協力」が必要となる。
 「他人の協力」でも「外界の娯楽」でも何でも。
 (「外界の娯楽」って言い方がひどいw
  自分は世間と隔絶してますみたいな言い方だ。
  まぁ半分当たってはいるけれど。。)
  (その「半分」に敢えて解説を加えると、
   世間の価値観には与せずとも、
   世間とはきちんとつながっていよう、
   という意志を今の自分は持ち合わせている。
   そうやって「引き裂かれて」いることで、
   やすやすと「安住しない」(重複表現?)でいたい。
   生物の本質たる「変化」を体レベルだけでなく
   心レベルでも担保しようという壮大なこじつけ。)
   (今誤入力で「粗大」って出てシンクロさにワロタw)

忍耐が弱まる。
自分の精神力の限界を自分で認めてしまうことになる。

やっぱり逃げなんじゃないかなぁ…
>それは間違いないw

いくらへっぽこ修論とはいえ、研究中よりも
自由時間を自分でとっている今が一番プレッシャーに
あてられているので、多分今をやり過ごせれば
発表練習も公聴会も意外とすらっといけそうな気がする。
>修論のためになにがしかの作業をしている時は
 感じるプレッシャーとしてはマシだったということ。
 どれだけ「焼け石に水」的作業であっても「水かけ」に
 集中していたら周り見えなくてあぁ安心と。
 これも立派な逃避やなw

想像力のある人間は自分の想像に負けそうになるという
リスクも抱えているという経験を今まさにしている訳だ。
これは今まで思いもしなかっただけに良い経験だろう。
「行動力が弱まる」以外にも想像力豊富人間の短所が
あると分かったのは一つの収穫。
>これはホントにいい収穫だったと今でも思う。
 ある階層の想像に負けるというのはその一つ上の
 階層の想像(下の階層の想像の枠組みを疑う等)が
 できていないわけで「豊富な想像力」というには
 中途半端であったと。
 「構造主義」の考え方をある程度自分のものにすれば
 「思考の階層の跳躍」も割と苦もなくできるので、
 「自分の想像力に負ける」なんてことはそうそう
 起きないのではないかなぁ…とコレハ机上空論気味発言。
  「身体性」と「構造主義」って相性悪いんでは
  ないかなぁとここでふと思う。
  たぶんこれは「無時間モデル」で考えれば真。
  枠組みを捉えて納得して、それを自分の身体に
  落とし込むプロセスまでを考慮できるならば偽。
  …そんな事可能なのか?
  具体例書かないと胡散臭いなぁ。。

そしてこんなへっぽこ状態は今しか味わえないだろうし
味わっとけばまた別の知見が到来せんとも限らない。

現状維持やね。

で、やっぱ悩んでるテーマなだけに考え出すと
書けることもたくさんあるのね。

というわけで…

敢えて考えたことに、一片の悔いなし。
>これは絶対嘘だw
 「筆の勢い」あるいは「筆が滑った」というやつだな。

2010/01/17 18:02
◆2010/07/20 23:18


+*+*+*+*


昔の自分にツッコミを入れるという点で少しノリがおかしくなっているが

そこはご愛嬌.

で,新たに「ink now」タグを作成.

 大学院時代の苦悩
  ↓
 院苦悩
  ↓
 ink now

というダジャレですね.

まぁ「今書いてます」くらいで手を打とうか(「パン!」).

「苦悩」と言いつつも文章にもし楽しさが見出されたとすれば,

それはこの文章執筆自体が苦悩ではなくして,

研究を(進めたくても)進められない苦悩をなんとか昇華させようという

気概の産物の一つとしての楽しみと捉えてもらいたい.

…そういえばよく考えるようになってから「昇華」という言葉を

よく使うようになった.

もともとは化学用語で個体が液体を経ずにいきなり気体になることを指すのだけれど,

その元の意味通り,大きなエネルギーを要するわけですね.

 (確か教科書の用例が「失恋を勉学に昇華する」とかそんなんで,

 その言葉を知った当初はあまり良い印象を持たなかったわけだが)

つまりは例えば「思考の跳躍」そのものが昇華なのではなくして,

「思考の跳躍に大きなエネルギーを使うこと」が昇華であると.

突飛な思考に慣れてしまうとそれは昇華の役割を成さなくなる,と.


…オチを見失ったが今日はここまで.

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by chee-choff | 2010-07-22 21:02 | ink now
独り言の効用から / 妙ちくりん
十分打鍵シリーズ3.

2009/11/28 18:21
PC用語のメタファーで表現してみる。
○テンポラリーメモリーとしての口
…僕自身は家計簿で暗算する時によく使う。
 頭の中だけで計算するよりも、
 数を唱えながら計算する方が
 数字の記憶度合いが大きくなる。
 これは身体(=口)で覚えるからだろう。
○脳とは異なる出力形式
…独り言、の意味ではこちらの方が適当だろう。
 頭の中でぐるぐる考えているとする。
 思考の流れが滞った時に、
 ふとその流れの最後にきたキーワードを口にすると、
 別の展望が閃くことがある。
 これは口だけ特権というわけではなく、
 歩行を始めとする動作、視界(何に注目しているか)、
 視野(目の向き、黒目の位置とでも言おうか)、
 手の動き、書いたり打ったりする動作など、
 身体の動き全般について同じことが言える。
 これは前に「脳の出番・身体の出番」で触れた、
 (脳とは別に)身体の各部位の独自の経験が
 その部位の使用の際に呼び起こされるからだろう。
 「全身を使って考える」とはこのことなのだと思う。

これ多分5分で書いたんじゃないかな.
あんま考えた形跡がない..


+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*


大学院在籍時に全く研究にやる気が見出せなかった自分は,

ひたすら本を読んでよく分からない思考を弄んでいた.

そのやる気の無さは(越してきて研究室の頽廃ぶりに気付くまでを除いて)

ほぼ1年と10ヶ月続いたのであって,

自身の本業の頽廃もすこぶる度が過ぎて修論提出直前に携帯をへし折り四国遍路に発つ寸前まで至ったが,

幸いにして神々しいほどのグッドマンぶりをその2年の間発揮し続けてくれた同僚のおかげで

常道を逸せずに済み途方もない迷惑をかけながら修論提出まで面倒を見てもらった.

そのおかげで何事もなかったかのように院卒として日々研究に励んでいるが,

「残された傷跡」もやはりあるにはある(昔より余計に変人になったとかw).

日々の仕事が落ち着いてきたというわけではないけど,

当時を客観的に見られるくらいは落ち着いてきたかなという気はしていて,

まぁ今までさんざん変態思考ぶりを披瀝してきてその意味でも慣れてしまったので,

当時の苦悩を晒して今の思考材料にしてみようかな,と思う.


というのは単なるこじつけであって,

本音のところは「その同僚の助けがあってこそ今の自分がある」ことを再認識するため.

それは今の社会的地位に居られることにあらためて感謝するというだけでなく,

どれだけ妙ちくりんであってもあの破滅的な時期を乗り越えた今の自分に対して

無条件での肯定感をも呼び起こす(これが後の災厄を招く可能性はまた別の話).

…それは言い過ぎか(笑)

まぁ,ゴウ氏には感謝感謝,ということで,

次から

「大学院時代の妙ちくりんな苦悩に妙ちくりんなツッコミを入れるなどする」

シリーズが始まります.

乞うご期待.
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by chee-choff | 2010-07-18 22:07 | ink now