深爪エリマキトカゲ
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カテゴリ:ウチダ氏( 36 )
「なんとでもいえる」のよしあし
ウチダ氏は自分の書いた『ためらいの倫理学』について
「同業者から見れば禁じ手」と自分で昔ブログにコメントしていたが,
たしかにその話の展開方法は万能包丁であれ諸刃なのだと思った.

のはウチダ氏ブログが最近あげた追手門大学の講演録を読んだからなのだが(長いですよ),
この途中のある箇所を読んで久しぶりに,初めてウチダ氏著作を読んだ時の印象を思い出した.
それはたしか学部生の頃実家で見つけた『おじさん的思考』で,
なんか構造(←と今でこそ言えるのだが)を語る語り口が今までになく独特やなあと,
でも「気分屋」というか記事の当たり外れが大きくて,
"ズバッと本質ひと突き"と"ごりごりの牽強付会"の差が極端だなと思って,
話に「強度ある実感」が伴うか「ひたすら置いてけぼり」を感じるかの差は
同じ構造について語っていても「はいり」の掴み如何に依っているのだと気付いた.

ウチダ氏はよく「当たり前」「常識」という言葉を使うが,
それは「古き(?)良き(??)日本の価値観」に照らし合わせて大体その通りだと思うのだが,
同じようにその言葉を使って語り始められた時,
読み手のこちらがその「当たり前」に全く実感が伴わなければどうなるか?
いくらその先で面白い話が展開されても「うーん?」と入り込めずにわだかまりを抱えたまま
読み終えることになる.
(書き手と読み手が同一人物でない以上当然起こることではある,
 ウチダ氏は「自分が読んでみたいと思ったことを書く」のだからなおさら)

きっと大学人としての枷がとれて言いたいことをそれなりにそのまま言えるようになって,
つまりウチダ氏はいつも「その場の勢いであることないことしゃべる」人なので
その「勢いの殺し方が緩んだ」ことで当たり外れが大きくなったのだと思う.

氏の著作はほとんど面白く読んでいるし,その頭の回り方や身体との折り合いの付け方(お伺いの立て方)も
間違いなく尊敬しているし「私淑」してるとここに何度も書いているけれど,
当たり前だけどだからといって氏の言うことを無思考(あるいは無感覚)で全て真に受けることはなくて,
「うさんくさけりゃ(←身体反応)まずはまゆつば(←脳の試行錯誤)」も氏の教えるところであるので,
変だと思ったら素直に自分の感覚を信じてその変を形にしておく.
もちろん自分の早とちりもある(てか殆どそれだろう)ので今後ひっくり返ることも大いにありうる.

というわかりにくいこれはメモです.
具体的にどこがどの辺,というと…
上のリンクの文章の中に「松本内閣参与のオフレコ発言」についての話があって,
そこで「『最後の言葉はオフレコだよ』と松本氏の指す言葉は実は『頑張れよ』なのである」
という「まくら」から独裁者の不可解な振る舞いの実効性について語られていくのだけれど,
この話は僕は新聞で読んだだけでその前後の発言の詳細だとか状況は詳しくは知らないのだけど,
「それはへんじゃないか?」と素直に思った.
「最後の言葉」の前には「意味のある」が省略されていると思うのが普通だろう.
独裁者が戦略として不可解な振る舞いをすることそのものは理解できるのだが,
その例として松本氏の発言はどうもしっくりこない.

…書き出してみるとあまり面白くないな.
途中から頭で書いちゃったかしら?

+*+*+*

「諸刃」とは「愛情の対蹠点は無反応」のこと,だろうか.
無反応を恐れていては愛情は得られない.
(と書いてから気付いてしまったことは書かない.「千里の径庭」ですね)

あれ,諸刃って,矛盾の体現(ありうべきひとつの形)では?
つまり片刃は脳の産物なわけだ.

+*+*+*

最近ベースラインにハマっています.
という「これ」は布石.
およそ一月後に回収予定.
ふふふ

【original】 ナイトスプレッド 【雪歌ユフ】
【original】 月の歌 【雪歌ユフ】

tom atomさん素敵☆
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by chee-choff | 2012-04-13 22:26 | ウチダ氏
それを言うことで何を「言わなかった」か?
心に留める.

>>
ある種類の計算のためにしか知性の行使が許されないという場合、それは「計算をしている」のではなく、「計算することを強いられている」のである。
(>強いられていることを自覚できない状態が「抑圧」である,と)

つねにより有利な交換比率を求めるものは、自分の手持ち資源の価値ができるだけ過大評価されることを願う。過大評価のカーブは、市場に差し出す自分の手持ち資源の価値がゼロであるときにその最高点に達する
つまり、ひたすら有利な交換を願うものは、その論理的必然として、やがて自分の手持ちの資源の価値がゼロであることを願うようになるのである。
(>「交換比率」とは変化量であって,そしてある意味「相対値」でもあるわけですね)
『赤毛同盟』と愚鈍の生成について(内田樹の研究室 2012年03月22日)
>>

+*+*+*

ウチダ氏は朝日新聞の「仕事力」(日曜の求人欄の上部にあるコラム)の取材を受けたらしい.
氏は朝日の紙面論議委員みたいなものをやっていることもあり,
読むのを止めた(確か毎日に代えられたはず)のに(から?)これまで何度も投稿文章が載っている.
(確かつい最近は沖縄の米軍基地問題について書いていた)
普段からウチダ氏の文章を読む身としては朝日の「エッジの削り方」が凄いというか
「これが紙面の力か」とある種感心するのだけれど
(でも上の米軍基地問題の投稿はほとんど「いつもの感じ」が出ていた),
こうやって比較のために取材時の発言を書いといてもらえると
「新聞社の言いたいこと言いたくないこと」が良く分かっていいと思う.

単一のマスメディアに浸かり続けると「書かれていること」について良く考えるようになっても
「書かれなかったこと」についてはその存在すら想像されなくなる.
公正中立とのたまうマスコミにも当然「視点」はあるわけで,
マスコミの視点は常に相対化させてから内容に触れないと大変なことになる.
(というかもう「なっている」のか)
では複数のメディアに触れていればいいかと言えば,まだ不完全ではあって,
それで相対化できるのは「個々のメディアの癖」だけで,
「マスメディアが共通に持つ癖(=価値観)」に目を届かせるのは難しい.

つまり「検閲済みの記事」と「生ものである取材内容」の比較によって
個々のメディア(今回は朝日新聞)の癖を「その価値観も含めて」すかし見ることができる,
ということで上のリンク先のウチダ氏ブログを読んだあなたは「仕事力」も必見です.
たしか今は村木厚子氏(郵便不正事件(曖昧)で冤罪に遭った人)の何回目かで,
一人につき4回分だから次だとしても4月だと思います.
楽しみ☆
なのはもちろんコラムの内容そのものでなく「何がはしょられたか」が明示されるのが,です.


なんだかまともなことを書いてるな…
やはりリアルタイムで読んでいる文章によって自分の書く文(の内容と文体)が決まるらしい.
まあたまにはいいか.
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by chee-choff | 2012-03-25 00:50 | ウチダ氏
「バカンス」の語源は「空虚」らしい.
日本を遠く離れて「くっちゃね」していてもこういう思考に及ぶところが,
もはや業なのだろうと思う.
静かに耳を傾ける.
体の向きも変えるか…
いや,相手はごろごろしているのだけれどもね.

なるほど,と思われる場所をいくつか抜粋(はもう少し先にあります.以下はフライング記事).

集団に属さない人間でも「内面化」することは可能だと思う.
と言ってそれだけでは足りないのはもちろんだけれど,
集団の中で立ち振る舞うだけで得られるものでもないはずだ.
その場にいてもいなくても,想像力が必要なのは変わらない.
そしておさえるべきは「原理」.
原理主義が悪とみなされがちで,その余波か原理そのものも軽視されることが多いが,
それは科学的思考を否定するようなものだ.
(「科学的に証明されないものは存在しない」というのは科学原理主義.)
文系理系に関係なく,思考する,言葉を扱う人間として最低限必要なこと.
(それは情緒や感覚を否定するものではない.身体を勘定に入れ忘れて議論することは
 科学原理主義の兄弟である)
それは自分で組み立てなくても最初から用意されていて,使うだけでよいように見えるが,
みてくれに追従していては内面化から遠く離れていく.
つまり内面化とは「ありものを自分オリジナルのものにする」ことだと思う.
そのオリジナルと呼んだものが他人にはありふれて見えるかどうかはどうでもよくて,
そういう視点(これを失くすとそれはそれで問題だが)とは異質な視点を獲得することである.

いつからかウチダ氏ブログに「親密圏」の話題が多くなっている.
日常生活(というか対人関係)がそちらにシフトしているのもあるだろうけれど,
ある危機感をもって,無意識にかつ意図的に,有効な生存戦略として採用しているからだろう.
ウチダ氏のいう「危機」が到来するしないに関わらず,
「危機」の到来を常に予感する人が少数でも存在するコミュニティが「長続きする」のだと思う.
あるいはそのような人がいなくなったコミュニティに「危機」が招来するのか.

きっとウチダ氏は肩肘はって危機をアナウンスしているわけではないと思う.
「バリ島すちゃらか日記」のノリそのまま,「どーでもいいけんね」が本音だろう.
それが本音で,本音と一緒にコミュニティの存続の必要条件がぽろぽろと口からこぼれ落ちる,
これも一つの「内面化」の境地だと思う.
ウチダ氏が幸福そうに見えることは,きっといいことなのだと思う.
…「日本にとって」と書こうとして,これは書けんなと思ってしまったのだけど..

もう落とす気もなくダラダラ書いちゃったけど,
メインは抜粋です.今後何度も読み返すであろう自分のために.

>>

(…)
匿名であることによって得られた発言の自由は、それがどのような個人によって担保されているかが公開されていないことによって、信頼性を損なわれる。
この「言論の自由と信頼性のゼロサム関係」について、匿名の発信者はあまりに楽観的だと私は思う。
私自身は、匿名で発信された情報は基本的に信用しない。
たぶん、同じようなプリンシプルを持っている人は多いと思う。
私が情報の信頼性の判定基準にしているのは、発信者の「生身の人間としての、ほんとうらしさ」であって、「コンテンツのほんとうらしさ」ではないからである。
(←これは『日本版ナショナル・ストーリー・プロジェクト』の主旨でもある)
「生身の人間としてのほんとうらしさ」は本人に会って、その声を聞いてみないとわからない。
(…)
私にもいろいろな質問をネット経由でしてくる人がいる。
答える場合もあるし、答えない場合もある。
「これまで本に繰り返し書いてきたこと」を質問してきた場合には答えない。
調べる手間を惜しむ人に、その時間を節約させてあげる義理はこちらにはない。
私が必ず回答するのは、「その人に、いずれこちらからも質問する可能性がある人」である。
よほど博愛的な気分になっているときを除くと、私が質問に答えるのは、「これから先も互恵的な情報のやりとりがあることが高い確度で予想される場合」に限られる。
その数の上限が150人くらいではないかと思うのであるが、この数は「生身の人間の生物としてのキャパシティ」ということを勘定に入れないと出てこない
(←可能性はなんでもかんでも追及するものではない,と.
 ワシダ氏が著書で抜粋していた「可能が可能のままであった頃…」というフレーズを思い出す)
(…)
論理的に考えれば誰でもわかることだが、自己利益よりも、帰属する集団の公共的な利益を優先的に配慮するという習慣を深く内面化させた人間たちでかたちづくる共生体がもっとも危機耐性が高い。
個人的にどれほど強健であっても、「自分さえよければそれでいい」と思っている人間たちの集団は脆い。疑心暗鬼を生じ、わずかのきっかけで崩壊する。
だから、「危機に備える」というのは、貯金することでも、他人を蹴落として生き延びるエゴイズムを養うことでもなく、「自己利益よりも公共的な利益を優先させることの必要性を理解できる程度に知的であること」である。
いま「 」で括った部分を一言に言い換えると、「倫理的」となる。
(…)

バリ島すちゃらか日記
>>

そうそう,タイトルだけど,そいえば「vacant」って「空き」だ.
 Sit down in a vacant seat.
シス単より.懐かしいね.
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by chee-choff | 2012-02-23 22:33 | ウチダ氏
ぶりっ子の法則(違
今日から会社は冬休みです.

+*+*+*

ウチダ氏ブログから再び(前は2年前).
自分用の抜粋なのでちと長め.

>>
ジャングルの中には「とりあえずその用途や実用性がわからないもの」がそれこそ無数にあったはずである。
どうして「今はその用途や意義が知れぬ」無数のオブジェの中から、とりわけ「それ」が彼の関心を惹きつけたのか。
私は彼がそうやって拾い上げた「モノ」はそれからあとのある時点で、必ず彼にとって死活的に重要な役割を果たし、「ああ、これをあのとき拾っておいてよかった」と嘆息をつく、という場面があったのだろうと思う。
そういう経験の繰り返しを通じてしか、「とりあえずその用途や実用性がわからないもの」の用途と実用性を先駆的に察知する能力は涵養されないであろう。
「どうふるまってよいか」を指示するマニュアルがない状況でも、「どうふるまえばいいか」を先駆的に知ることはできる
(…)
私たちの時代の子どもたちが学ぶ力を失っているのは、彼らの「先駆的に知る力」が破壊され尽くしたからである。
「学び」は、それを学ぶことの意味や実用性について何も知らない状態で、それにもかかわらず「これを学ぶことが、いずれ私が生き延びる上で死活的に重要な役割を果たすことがあるだろう」と先駆的に確信することから始まる
学び始める前の段階で、学び終えたときに得られる知識や技術やそれがもたらす利得についての一覧的な情報開示を要求する子どもたち(「それを勉強すると、どんないいことがあるんですか?」と訊く「賢い消費者」的な子どもたち)は、「先駆的な知」というものがあることを知らない。
彼らは「計画に基づいて」学ぶことを求めている。
自分が実現すべき目的のために有用な知識や情報だけを獲得し、それとは関係のないものには見向きもしない。
おそらく本人はきわめて効率の良い、費用対効果の高い学び方をしていると思っているのだろう。
だが、あらかじめ下絵を描いた計画に基づいて学ぼうとするものは、「先駆的に知る」力を自分自身の手で殺していることに気づいていない。
先駆的に知る力」とはまさしく「生きる力」のことである。それを殺すことは緩慢な自殺に他ならない
2009年08月18日 ブリコルールの心得
>>

「用途の明確な道具」に溢れた現代では,迂回しないと「ありもの」として見えない.
それは意図的であらざるを得ないが,その姿勢はそもそも「ブリコルール」に反しないのか?
という自分向けの疑問きっかけ投稿.
(これはぱっと思いついただけで,他にも沢山あるはず)
「ゆくくる」でゆっくり考えてみようと思います.

キーワードはやはり「ブリコルール」.
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by chee-choff | 2011-12-27 21:28 | ウチダ氏
「分かっちゃいるけど、分からない」/細胞の再配置
風邪を引いている間にブログを書かなかったのは書く気が起きなかったからなのだが,
なぜ書く気が起きなかったかといえば「自分を保つのに精一杯だった」かもしれない.

と思いついた時に読んでいた文章を抜粋.

>>
世の中の多くのひとが勘違いしていることの一つは、ものを書くというのが「自分の中にあって、いまだ言葉にならない思いを言葉にすること」だと考えていることである。

これは小学校の国語の時間に刷り込まれた嘘である。

ものを書くというのは、「自分以外の何かにペンを仮託する」ということである。

「ミューズ」でも「ダイモン」でも「霊感」でも「エクリチュール」でも「大文字の他者」でも、好きに呼んでもらって構わないのであるが、どちらにせよ私の中で語っているのは「自分以外の何か」である。

書くとは、畢竟するところ降霊術である

ただ、その「霊」にも位格というものがあって、バカにはバカの霊が、半可通には野狐の霊が、イナバの白兎の頭上には大黒さまが降霊するのである。
11月11日(2001年 内田樹ブログ「夜霧よ今夜もクロコダイル」
>>

 アクセス数の少なかった頃のウチダ氏ブログは実に奔放というか,
 気楽さ全開だから読んでいてかなり面白い.
 ここでも「降霊術」とあるし,少し後には「研究室に"除霊します"の看板をさげようか」などと書いていて,
 大学の同僚もさぞ苦笑しながら読んでいただろうなと想像できる.
 今のブログは「演説もの」記事に限定されていて,それでも奔放に見えないこともないが(喩え話とかね),
 昔に比べるともうガチガチなのが分かる.
 立場上しょうがないとは思う.
 しかしこの頃は記事にタイトルすらなく本当に備忘録的なブログのはずなのに,
 内容の「肉の付きよう」が半端ないことにはいつも溜め息をつかざるを得ない.

話がずれた.
何か文章を書こうとする時,自分を意識し過ぎていては書けないのだ.
そういう文章の書き方もあるのだろうけれど,それはきっと
「筆(指)が勝手に動く」ような書き方ではない.
何かが「降りてくる」前にはやはり確固とした自分が必要なのだけど,
それは「降りてきたものに自分の一部分を間借りさせる」だけの余裕がある,という意味ではないか.

文章を読むことについてウチダ氏はこんなことを言っている.

>>
本を読むことのむずかしさは、ある程度「分かったつもり」で読まないとそもそも話にならないということと、「分かったつもり」で読むと、自分のフレームワークではとらえきれない深い部分を見落としてしまうということのバランスを取ることである。

分かっちゃいるけど、分からない」という理解のあり方を伝えるのはほんとうにむずかしい。
11月19日(同上)
>>

きっとこれは書く時も同じなのかな,と思う.
「何か分からないけれど面白そう」という予感があってぐちゃぐちゃ考え始める時に,
その「面白そう」が出てくるまでの発想や理路については分かっていなければならない.
考え始めのぐちゃぐちゃがそのまま続いていいのならば(と言いつつそんな状態想像できないが),
思考の入り口を曖昧にしたままでも構わないのだろうけれど,
「ぐちゃぐちゃ考え始める」ことの目的が「何か分からないけれど面白そうなことを解明する」ことならば,
やはり入り口の理路をある程度整然としておかなければいけないと思う.
それは理路の整備でなくとも,「なぜその予感が生まれたか」という思念の遡行でもいい.

「分からない」が未知への興味を刺激し,学びを起動させるのだけど,
その刺激を感知できるだけの「分かる」を持ち合わせていなければ何も起こらない.

この「分かる」と「分からない」の良いバランスを保つのに大事なのは,
「マナー」だと氏は言う.

…詳しくは11月19日の記事を読んでみて下さい.
この手の話はウチダ氏の十八番というか,ブログで何度も言及されてきたのだけど,
そしてその都度微妙に違った表現が可能である(それは思考が日常に即しているということ)氏の蓄積が
ブログに雑多に(それはもう本当に雑多に)放り込まれているのだけれど,
年度から言ってこの記事の表現はわりと原型に近いのかな,と勝手に想像してみる.
あくまで氏のブログの書き始めをスタートとした場合なんですが.

+*+*+*

まだ風邪治ってないけど,完治に近い.

今回の風邪はもしや「身体の各種細胞の再配置」かもしれないと思えて来た.
それはいつもの「さっさと治す気満々モード」で水をガバガバ飲んでるにも関わらず
風邪が長引いていることによるのと,
どうも「身体の熱のもち方」と「節々の痛み方」がいつもと違う.

風邪の時に節々が痛むのは日頃から酷使する箇所においてであって,
立ち読みが週課の自分はたいてい足にくるのだけど,
その「くる感じ」がいつもより内側な気がする.
そしてそれがいつもの「だるい」というより「重い」というか「鈍い」というか.
あと「熱のもち方」というのは…んーよくわからん.

まあ治ったらある程度はっきりするかな.
あるいは「もう少しかかるかもしれない」という予感も少し.
ま,仕事と読書がそこそこできれば文句はなんもないっす.
その許容範囲内でなら,どうぞご自由に(→身体各部の皆さん).
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by chee-choff | 2011-11-15 00:12 | ウチダ氏
ウチダ本25冊目くらい
ウチダ本書評を一冊追加しました.
ウチダ氏について書くとどうも筆致がぐるぐるしてしまって
(なんだかそれが推奨されているようで),しかも勢いに任せるものだから
すんごいテキトーなことを言ってる可能性がいつもちらちらしていて微不安.

あでも,
 微不安(びふあん) → びーふぁん(be fun)
だから楽しいってことでいいのか(何が)


街場の現代思想
  • 内田樹
  • 文藝春秋
  • 600円
Amazonで購入
書評


+*+*+*

今日は駅前に出るバスを1分差で逃したので駅まで歩き,
「転んでもタダでは起きない」というか「転んだら転がって進む」
(前者の格言だと「起きた後は同じように進む」という暗黙の了解があって,
 いやそうでなく転んだら進み方を変えればいいのだ,
 それでこそ一次繰り上げての臨機応変だ)とか変なことを考えながら
いつもと違う道を歩いたらなんだかカントリーな風景を見つけて(今度写真撮ります),
帰りも通ろうってことで夜に来た道を戻るつもりが「同じ道を通りたくない症候群」が
発症して(これはいつものこと)だいたいの方角のみを頼りにふらふら歩いたもんだから
行きに60分,帰りに90分の徒歩に立ち読みの180分を加えて
 足 が 棒 の よ う だ .
まあ,足ってもともと棒状だしね(意味不明)
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by chee-choff | 2011-09-19 00:14 | ウチダ氏
非接触式理路探知機
>>
私はもともと、その人が奉じている社会理論と、その人の人間的クオリティのあいだにはあまり関係がない、という考え方をしている
(…)
ある種の政治的立場をとることと、個人の知的・倫理的資質のあいだには切り離せないリンケージがある、というのが現在、左翼右翼を問わず、言論を事とする人たちの間で支配的なイデオロギーである。
私はそういうふうに思っていない。
だから、どんな政治的事件についても、てきとうに、その場で思いついたことをだらだら書く。
私があれこれ発言するのは、べつにその意見にこだわりがあるからではない。(私は持説を撤回すること風のごとく疾い。)
ある意見を言うのはキャッチボールのようなもので、それを受けとめて、他の人たちがどんなボールを返してくるか知りたいだけである。
明日は明日の風と共に去りぬ 4月21日
>>

これには僕は深く同意する.
ある立場を採用するにも,その理路は無数にある.
上っ面の付き合いならばここまで気を遣う必要はないが,
同じ立場だというだけで相手を丸ごと信用するよりも,
立場は違えど同じような考え方をする人を信用する方が「よく当たる」と思う.

そのあたりは膝をつき合わせて語ればイヤでも判明するところではあるが
(その機会到来を享受するに吝かではない),
「なんとか普段の振る舞いの中からそこんとこを推察できないだろうか」
というのがここ最近の悩み事.
 積極的にならないのはならないだけの理由があって,
 その理由がadvantageに進化しないとも限らない,
 というのは別の話.
もちろん面白がって悩んでいるのだが,
「石橋を叩いて渡る」の喩えを使えば,
「石橋を叩き過ぎて破壊しちゃって渡れない」ではなく,
「石橋を叩いて強度を確認して去る」でもなく,
「石橋を叩かないでも強度を見抜く」がニアピン賞.
その後渡るかどうかは,その時のお楽しみ.

現状を言えば,
渡る前に叩いた方がいい橋が無数に架かってはいるが,
実は川の水は全て干上がっていて「もと」水底を歩いても対岸に行けちゃう,
という感じ.
謎かけのようで…

「島国であって島国でない日本」の話か.
いや,それはウソだ(笑)

7.4追
「渡りゃあいいってもんじゃない」.
これは少なくとも正解.

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by chee-choff | 2011-06-26 13:50 | ウチダ氏
忍玉では不破雷蔵が好きだった
>>
私たちの国の最大の強みは「付和雷同」という国民性格である。
「一億一丸となる」という点において、これほど凝集力のある国民国家は他に見出しがたい。
けれどもそれは同時に最大の弱みでもある。
生物学的多様性を確保できないからである。
みんなが同じ方向を向いて進む先に断崖があれば、全員ぱたぱたと墜落死する。
そのとき、さしたる理由もなく、「オレはそっちに行きたくないね」と別行動をとる個体が一定数いれば、集団は全滅を回避できる。
生物学的多様性というのは「そういうこと」である。
2011年04月04日 リスクヘッジについて(内田樹の研究室)
>>

この「さしたる理由もなく」には色々な理由があって,
その理由のバラエティがそのまま多様性の表現となる.
僕もこの一構成員になるべく日々ふわふわしているが,
僕の持つ「理由」は「マジャリティから外れるため」.
同語反復極まるところだがこれで閉じるわけではなく,
「外れる」際の理由を後から問うリカバリーシステム.
たまに思いつかなくて「しまった…」と思ったとして,
でもそれは自分の構成システムが至らないせいである.
という認識はこのシステムの恒常化により馴致される.
後付けの理由をいちいち公開する理由があるとすれば,
生物学的多様性への貢献と考えることも可能だろうか.
変な理屈であればあるほど共感者は増えない一方だが,
あまりに一般性を持たせると大勢に吸収されてしまう.
その両者の絶妙なところを狙っているのかもしれない.
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by chee-choff | 2011-04-05 23:10 | ウチダ氏
『知に働けば蔵が建つ』内田樹
毎度のウチダ本.
多分ブログのコンピ本で,何度も読んだ記憶のあるテーマもあったが,
それでも毎回「そうなのか!」と膝を打ってしまうところを見ると,
何度読んでも納得だけしてその先がなかったようだ.
「その先」とは日常でその知見が生かされることであり,
具体的には例えばある出来事からウチダ氏の言葉が思い起こされる経験.
(ぜんぜん具体的じゃないね)

と書いて自分で癪に触ったのかその経験を思い出したので一つ記しておく.
ただし読み終えて時間をおいてのことではなく,
読んでいる最中に当該テーマが念頭にあってのことではあるが.
>>
(…)だとすると,合気道に限らず,すべての武術の形稽古というのは,この単独で存立する「構造」が未知のファクターや負荷(つまり相手からの加撃や妨害)が加わったことで,いったん解離し,その新たなファクターを組み込んだかたちで自己組織化し,「構造」をヴァージョン・アップする無窮のプロセスというふうに理解することができるのではないか.
そう考えたのである.
となると,このような稽古のねらいは「不壊の構造」を維持することではなく,むしろ「未知なるファクター」を迎え入れたときに,瞬間的に「それを含んだ新しい構造」を再構築する「柔軟性」と「開放性」の感覚を研ぎ澄ますことにあるのではないか.
p.161 「愛する力」
>>
バスの中で本書のこの部分を読んでいる時に,唐突に「あ,これか」と思い至った.
というのは,発進・停止による慣性の制御,道路状態をタイヤ・車体を経由して乗客に伝えるバスでは当然ガタゴトと揺れるわけだけれど,僕は家でコタツにくるまって,あるいはカフェのソファでくつろぎながら本を読むのとを同じようにバスの座席でも読書をする.
なぜそんなことができるのか.
それは体を鉄のように固くして,バスの揺れに身体全体が同調しているからではない.
バスと寸分違わず僕の頭も本を持つ手も揺れるとすれば確かに相対的には視界はブレない.
しかしそれだと頭が気持ち悪い(視界における本以外の対象は全て揺れているのだ).
そうではなく,身体の節々で揺れを吸収し,頭部および手先が(主に鉛直方向の)速度を持たないようにしているのである.
これは別に改めて言うほどでもない話だけれど,ここで言いたかったのは,バスの中でもいつもの静止状態と同様に読書をする体勢が,上の抜粋箇所でいう「未知なるファクター(…)を含んだ新しい構造」が再構築された結果のものなのだ,ということ.
(バスの揺れは「未知」ではない,という指摘もありましょうが…)

とまあ僕はこうして日常とウチダ氏の話がつながった時にビリビリくるのだけれど,
こういう経験を何度かすると氏の文章が病み付きになったりもする.
が,それはいいとして,こういう経験を通じて「なにを言っているのか分からない話」に対する感受性が研ぎ澄まされるようにも思う.
本を読んでいる間はあまりピンと来ないが何となく理路は理解しておいて,普段の生活で突然「あ,あれはこのことを言っていたのか」という気付きの経験は,自然と「一見ピンと来ない話」を頭の片隅に溜めておける力を養うのではないか.
(氏は「頭の片隅」のことをPCの「デスクトップ」という絶妙な比喩で表していた)
そしてその「研ぎ澄まされた感受性」の対象はウチダ氏の文章にとどまらず,読書における知的姿勢の構築に寄与する.
孔子の「述べて作らず」を要所で引く氏はその意味で,知の世界の入り口で手招きしてくれる「アマチュア現代思想家」なのだ.
(「アマチュア」は氏の自称.その意味は下の抜粋のどこかにある…はず)

抜粋だけで終わらそうと思って書き始めたら,
なんだかいろいろ書いてしまった.
ここまで書いた部分は書評サイトに載せてもよさげな気がする.
…というわけで本来の目的を達成すべく,
以下は抜粋のみ.
「読んでる間は理解したけど…」の先を目指して,
日頃から読み返すために.


と言って下に抜粋しているうちに不安になってきたので,
”私は「つねに誰かを激怒させること」をめざしてこれらの文章を書いているのである.”
という氏のあとがきの一文を最初に抜粋しておく.
そして僕が本書から抜粋箇所を選別した基準は「構造主義的視点の好例」というだけで,
他意はありません.


>>
「そのこと」が何のことだかわからないにもかかわらず,「そのこと」が引き金となって,一つのお話を思い出す.
これが人間知性の機能の仕方である.
知性がお話を一つ語るとき,知性はどのような前件がその話を呼び出すことになったのかを言うことができない.そればかりか,その話がどんな風に終わるのかも言うことができない.最後まで話せば,結末がどうなるかはわかる.でも,結末にたどりつく前に,結末だけを取り出して話すことはできない.
話」の前件を知らず,「話」の結末をまだ言うことができない.そのような過渡的な仕方で私たちは「お話を一つ思い出す」のである
p.13-14 「はじめに──知性と時間」

知性の仕事には時間がかかる.時間がかかるということは,不動の自己同一性を維持したままでは知性の仕事はできないということである
私が何かを知るというのは,私が知性的には「知らないときの私」とは別人になることによってである.少し別人になることで達することのできる知的境位があり,大いに別人にならなければ達することのできない境位もある.
(…)
今の私に理解出来ないことは未来永劫理解出来ないと断言することは,すでにして未来の私についての予断を含んでいる.未来の私について「……できない」と断言することは,私自身の中の他者性にたいする陵辱でなくてなんであろう.私自身がこれからどうなるかわからないという私自身の未知性への敬意を持たぬものが他者の未知性に対して節度のあるアプローチができるものだろうか?
p.21-23 同上

苅谷さん[苅谷剛彦]は「下りたものを自己満足・自己肯定へと誘うメカニズム」がなぜ生まれたのかについては説明を自制しているが,私はこれは大衆社会の特性から説明できると思う.
大衆社会では,この自己満足・自己肯定の度合いは自分と同じようにふるまう人間の数と正比例するからである.
「多数派の偏見」が常識とみなされ,「多数派の憶断」が真理とみなされるのが大衆社会である.ということは,学びから脱落する人間が増えれば増えるほど,学びから脱落する人間は自分が「真理」を実現しているという確信を深めることができる.学ばないこと,あるいは労働しないことが「正解」であることを証明するためには,学ばない人間,労働しない人間の数を増やすことが大衆社会に置いてはもっともただしい戦略となる.
p.72-73 「貴族と大衆」

共同性を否定しようとする人々は,その「共同性を否定するふるまい」を他ならぬ「否定のふるまい」として認知してもらうために「共同性」を要請する
「おれはひとりだ.誰もおれのことばを理解しない」と独語する人間は,それでもなお日本語の文法に則り,日本語の語彙を用い,日本語で音韻として聴取可能な文節音を発しなければならない.そうしないと「誰もおれのことばを理解しない」という彼の独白が誰にも理解されないおそれがあるからである.
p.108 「身体という逆説」

コストダウンというのは,素材が同一であり,デザインが同一である商品を大量に作成することで達成される.
これは自明のことである.
しかるに日本の消費者はファッション雑誌熟読のおかげで,わずかなデザインやコーディネイトの差異のうちにきわだった違いを感知できるたいへんに差異コンシャスネスの高い人々である.
それゆえ,メーカー側としては,「細部をほんのちょっと変える」だけで「まったく別の商品」を作り出すことができる.つまり,メーカーさんは生産ラインの九九%を同じにしたまま,最後の一%を変えるだけで「流行遅れ」の商品を「流行の先端をゆく」商品に書き換えることだってできるのである
p.118-119 「モードの構造」

私たちは自分の身体の動きを言語的に文節しない限り,身体運用モードを意識的に統御することができない.
これはほんとうの話である.
(…)
意味とは畢竟「差異」である
「キネステジー[内蔵運動感覚]」という語を知らなかったときには非主題的であった身体的シグナルのうちのいくつかが,この語を耳にしたときに「それって,もしかして『これ』のこと?」という文型でなんらかの「輪郭」を持つようになったとしたら,この「輪郭」の生成はほかならぬ記号の効果である.
身体の文節は記号的な文節である.
p.152-153 「シリウスを見よ」

私たちは経験的に「他人のふりをして語る」ときの方が「自分の正味の本音だけを選択的に語る」場合よりも口がくるくるよく回るということを知っている.
それは言い換えれば,「他人のふりをして語る」ことの方が「語る」という行為の本質にはかなっている,ということをおそらくは意味している.
「語る」と「騙る」は同音異義ではなく,たぶん同音同義なのである.
p.288 「他者のことばを語るもの」

私は前に「プロの物書き」と自称する方からの批判に答えて「私は『プロの物書き』ではない」と申し上げたことがある.
私は「アマチュアの物書き」である.
批評性というのは「批評」が知的商品として市場価値を持つ場所においてしか成り立たないものではないと私は思う.
そのような場の成り立ちかたそのものを問う批評性を確保しようとするなら,人は批評以外の「たすきの道」を確保しておかなくてはならない

p.295 「加藤典洋さんに答える」

「こう書くと怒るのは誰か?」
誰であれ,多少とも公共性に配慮してものを書く人は必ずこの問いを自分に向ける.
ほとんどの人は「誰も怒らせないような文章」を書くためにそう問うているのであるが,私はそうではない.「こう書くと怒るのは誰か?」というのは,私にとって回避すべき危険を察知するためではなく,私を含むこの世界の言語編制のありかたを解明するたいせつな仕事を開始するための問いなのである
p.312-313 文庫版のためのあとがき
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by chee-choff | 2011-04-02 15:39 | ウチダ氏
身体を割る@ティッシュ投げ
鼻をかんだティッシュが今右手にあるがゴミ箱はコタツから遠い…


2011/01/12 20:26
腕を振り被ってティッシュを放すまでの間に
手にかかるティッシュを介した空気抵抗を読むことで、
放す瞬間の強さを決定する。

これに気付いたのは、今日のある一投が
いつもより「ひらひら」していたから。
そしてその「ひらひら」に呼応して、
腕の振りがいつもと変わったことを意識した。

「ただひたすら本を読む生活」をしていても、
「細かい腕の振り」に気付くことができる。
文章により喚起された想像を構成する脳の動きが、
実際に身体を同様に動かした時に活性化する
脳の動きと一致する部分があると言える経験ではないか。
つまり、「ミラーニューロン活性」結実の成果である。

んな、大袈裟な。
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by chee-choff | 2011-01-23 17:44 | ウチダ氏