深爪エリマキトカゲ
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2009年 01月 02日 ( 2 )
ゆくとしくるとし08→09 (2)
主にどのような本を読んできたか。

基本的に、脈絡なく様々なジャンルを読みあさってきた。

「考える余地のある本」という条件つきで。

たまに息抜きに読むようなものを除けば、

思考を促す、または考え方を提示する(問う)本がほとんどであった。

ここで書評はしたくないので触れるだけにとどめるが、

思考を促す本としては内田樹の諸著作、

考え方を提示する本としては『考える快楽』(グレイリング)、『人生論ノート』(三木清)が

強く印象に残っている。


なぜ「考えること」にこだわるのか。

 それは、物事を知る、知らないの違いで、いくらでも人生が変わるから。

 そして、自分が手にしたい幸せの形式について、

 「知らないことで手に入る(保たれる)幸せ」は許せないと思うから。

思いつくままに並べてみたが、どうも言葉足らずのようだ。

まだ、明確に表現するには未熟である。

ただ、自分の根底にある「変化」に対する願望と、

先に述べた一年半前の自分の無知(無思考)の自覚は、

「考えること」への執着に大きな影響を与えているように思える。


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昨年一年を通してのハイライトは何であったか。

一昨年の年末には確か院試の前後で人が変わってしまったと書いた気がするが、

そのような劇的な出来事は昨年は何もなかったように思う。

一昨年の変化の程を確かめるべく、サインカーブの下り坂を転げ続けていた一年。

(サインカーブはテンションの波あるいは社交度合・活発度の波の比喩と捉えて欲しい)

新聞記者を目指すことに決めた事も、その流れに沿った小さな出来事の一つに過ぎない。


年間を通して一人で思考することを好んだ自分は、

年間を通して「できれば近づかないでほしいオーラ」を放出していた。

たまに人恋しくなったこともあったが、冷ややかに言えばそれも

習慣に基づいた形式的な欲求であったようだ。

それはある友人と共に居る時、図らずも言動に顕れてしまった本音が物語る。

(私信 その節はすまなかった。貴殿は小生が気を許せる数少ない友人であることを

 どうか心に留めておいてもらいたい。その方面では自信のある小生にも増して、

 貴殿は人の本音を引き出す物腰の柔らかさを有していることに間違いはない。)


ここからは更に言葉足らずで、いささか乱暴な展開になることを容赦願いたい。

(ここで長時間筆が止まり、悩んだが、厳密に表現しようとするのは不可能だと判断した)

なお、その都度ことわってはいるが、以下、スペースの入る段は話が大筋から逸れている。


自分は、他人あっての自分だと思う。

自分だけを見つめて(思考により)満足することは不可能である。

(思考なき満足は全く成長につながらないとは言わないが、

 自己成長を認識するためには思考を要する)

自分のことに最も興味がある、それは確かだが、

それは他人を通してしか把握することができない。

自己の存在自体は絶対的でも、その認識は相対的である。

世界に自分一人しか人間(もとい生物)がいなければ、

彼は自分のことを考えるだろうか?

(その意味で絶対的な自己というものに、

どのような価値を見出すことができよう?

価値は差異の認識から生まれる。して、価値は相対的である)

他人は自分を映す鏡である、とはよく言われる。

ここで言う「他人」には、本を含めてもよい。

本を読み、他人の意見を咀嚼し、好悪の判断を下すなりして

相対的に自分の意見を打ち立てる。

自分と他人の意見を並列することで、自分を客観視することができる。

その意味で、本も他人に含める。

 少し逸れるが、

 他人(人)と他人(本)のここでの違いは、臨場感と、持ち得る思考時間。

  臨場感あふれる他人との触れ合いを学部では膨大に経験してきたが、

  その経験に対する思考時間がほぼ無きに等しかったために、

  ふと落ち着いて考えた在るべき自己と現実との間に深い溝を感じ、驚き、

  思考時間を十分に得た(あるいは思考のツールを十分に備えた)自分が

  以前(学部時代)と同様の状況に放り込まれた際に何を感じ取ることができるか、

  その差異(成果)を期待し、為の準備期間として今の独りの自分がある。

  今の自分に対する他人は、本が大勢を占めている。

  もちろん現実生活として、人とも本とも大量に付き合っていくのが理想であるが、

  ひねくれかつ不器用な自分は、極端(他人=人)に極端(他人=本)をぶつける発想に至った。

  これは一つの、被験者を自己とした、実験である。

  このような好き勝手な生活が許される状況に感謝したい。

  すなわち、我が両親に。

疑うべくもない自分への理解の欲求がある。

そして、他人の理解なしに自分の理解も進まない。

 先に述べた「自分を客観視すること」が、自分と関係はあるが少し違うもの(意見)や

 関係も想定できずかなり違うものに対し意味づけを行うにおいて、

 どれだけ実行できるかによって自分への理解の程度が決まる。

 主観的な見方は、自己理解の糧には成りうるが、あくまで素材である。

 それだけでは理解は進まない。

 (客観視は周りと比較する自己も把握するため、主観を含むと考える)

 (主観のみで生きる人間が成長・変化しない、とは言っていない。

 変化はするが、それを自分自身で認識できないと言っている。

 そのような人間は基本的に空想の産物と思われるが)

 主観を発揮すべきは、他人(自分を含めてよい)の意志を奮起(操作)する際である。

 感覚的な影響力では、客観より主観の方が強いと思われる。

 失礼、逸れるが言いたかったので言った。

ここまでを前提として本論へ進む(本論が何かとは問わないでもらいたいw)。

先に、「自分のことについて何も考えていないと思われた」と述べた。

これは、「大学生活で数え切れない程の人々と関わってきたが、

(実際あるかは別として)彼らから得たものについて何も語ることができず、

彼らを語ることすらできなかった」経験が、そう言わせた一因でもある。

何か良い経験をして、それを言葉で表せないからといって、その経験から

何も得るものがなかったと考えるのはあまりにネガティブであり、

そしてほとんど事実でない。

だが、当時の自分はその状態に愕然としたのであった。

(これについての分析は(1)の後半に書いた)

この驚きが、自分の想像する目指すべき将来を、明確にしたように思う。


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ここから、記者志望の理由などを語る…流れにあるが、

実はあまり乗り気でなかったり(笑)

当初の方向性を取り戻したい思いもあるし、どうしようかな。

…寝て起きたら何かしら考えがまとまってることを信じて、

今日はここまで。 ういー目が痛い。
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by chee-choff | 2009-01-02 23:37 | 思考
ゆくとしくるとし08→09 (1)
1日は非常にまったりと、本を読んでた。

してることは普段と変わらないのだけど、

時間の流れがとても遅く感じられ、

なんともスローな元旦を過ごすことができた。

そのおかげで書くのが2日になってしまった。。


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初詣はどうなったか。

…間に合いませんでした(笑)

家を出たのが新年20分前。

年が明けるまでに神社にたどり着くべく

行程の半分以上を走ったのだけど、到着したのは0:03。

何の感慨もなく新年を迎えた。


鳥居を抜けてしばらくは人はぽつぽつであったが、

拝殿の入り口で凄まじい人混みを目の当たりにし、

賽銭を投げる気力もなく休憩所へ向かう。

もともと祈る気はなかった。


寒風吹きすさぶ屋外では幸福の象徴であるかのような

湯気をほわほわ舞わせる出店の並びを遅い歩みで素通りし、

普段無機質に思われるはずの自販機の煌々とした明かりに引き寄せられ、

缶おしるこを一本。


うまい。


休憩所のベンチで人間観察をしながら体を休め、

一息ついたところで下山。

帰りは去年と同じく電灯のない山道を歩く。

一日前の天気予報では雪が降ると言っていたが、

そんな気配もなく空もほぼ快晴。

月明かりのみならず、星々の光も夜道を照らすかのよう。


時々すれ違う参拝客の会話。存在音。

笑い。衣擦れ。のろけ話。木の葉を踏む。回想。拍手。

それらを全て呑み込む、静寂。

生活音の無さに乾いた空気も相まって、圧倒的であった。

 普段、耳を澄まさねば聞こえぬ、感じられる、静寂。かよわきもの。

 だが、そのかよわきものは今宵、如何なる違いを経て其処に有る。

 無い。 如何なる静寂に、相違は。

 有る。 如何なる時所に、静寂は。


山道を抜けてからはふらふら寄り道をば。

中学の通学路を懐かしく通り、学校が見渡せる高台にて無心。

いい加減体の冷え具合が我慢ならない時点で、帰宅に一心。

25時過ぎ到着、風呂に入ってさっさと寝る。ぐぅ。


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昨年度の総括と、今年度の抱負を語りたい。

もとい、語りを通じて思考を整理したい。語りは二の次。

というわけで昨年末の駄文をお読みの方はご存じの通り、

この先極めて脈絡のない文章が展開される予定。

 (実は自分の中でこれを毎年恒例にしようと目論んでおり、

 その意味で昨年と文書(の展開)形式を揃えようかとも思ったが、

 見直してしまうと今の思考が引きずられそうな気もするので、

 あとで見返した末にどうするか判断しようと思う)


昨年はどんな年であったか。

行動で言えば「とことん本を読んだ一年」であった。

4月からまともに数え始めたのだけれど、

8ヶ月でざっと90冊弱。

高校時代に読んだ本が読書感想文のための数冊だけ、

という過去を見れば驚くべき数字。


しかしその数字を見ずとも、自分は変わったと思う。

この一年半で。

一年半前に何があったかは詳しく言うまいが、

本をむさぼり読むようになったのは当時ある出来事があり、

自分が高校時代と全く変わっていないことを実感したことがきっかけである。

と言ってもその時一番ショックを受けたのは自分が変化していないことではなく、

自分のことについて何も考えていなかったことであった。

もとい、自分のことについて何も考えていないと思われたことであった。


ひたすら周囲の環境に適応し、何でもそれなりにこなす。

それを付和雷同、迎合主義と言われようとも、

適応の方法、その捉え方に、主体性を混ぜ込んで選択してきたと信じていた。

そのスタンス自体には何ら不満はなかった。

しかし、それを言葉で表現するにあたり、何も言えなかった。

何だかよくわからないが自分はいいものを持っており、

実感もあって(少なくとも自分の中では)誇れたのであるが、

それを客観的に表す術がなかった。

言葉にできなくとも育つものは存在すると思っていたが、

 それを言葉にできれば、もっと育つのではないかという考えが頭をもたげてきた。


人はその成長の過程で、自分の行動、成果の足跡を残し、

それらを過去の自分に見立て現在の自分と比べることで成長を実感する。

学校ではその成長モデルが、児童・生徒にとって無自覚のうちに適用される。

通信簿、定期テスト、学園祭。

科目の評価点が良くなる、テストの成績が上がる、

ばらばらだったクラスが一つになる。

よくわからないけど言われるままに始め、

何だかこうすれば面白そうという興味のもとに主体性が生まれ、

教師に誉められる、仲間の笑顔が増える、達成感が生まれる。


ご多分に漏れず全く無自覚であった俺は、

その成長モデルに面白いほどバカ正直(素直)に取り込まれ、

達成感を生き甲斐と感じられるほどの人間になった。

その達成感は主にテストの点数を上げる行程により培われたが、

それだけが価値のあるものではなく、

そしてそれだけが自分の成長を確認できる術であると

勘違いすることなく達成感のレンジ(適用範囲)を拡げられたことは、

考えること自体に価値を見いだす現在の俺にとって幸いであった。

もっとも、両者は鶏と卵の関係にあると言った方が正確であるが。


少し話が逸れた。

この成長モデルは小・中・高校に特有のものであるが、

その中で「成長を客観的に認識する」点は生涯にわたり

重要ではないかと気付いたのだ。

(今の自分はむしろ成長→変化としたいが。)

数字として、言葉として示される成長・変化の大事な所はなにも、

それが目に見えて分かりやすい、実感しやすいという点だけにあるのではない。

その示される記号自体が、新たに思考を与えるのだ、と。

(ここで言う「新たな思考」というのは、

「今回はテストの点数悪かったから次は頑張ろう」ということではなく、

「このテストの点数(の良さ、悪さ)は何を意味するのだろうか、

 この点数が表し切れないものがあれば、それは何だろうか」

ということである)


さっきの話とつなげると…自分は見えないものの価値を見出したいと言っていた。

見えないものは言葉で表現し切れない、感覚でしか捉えられないもの、と考えた。

その見えないものを感じるには言葉(→記号、記号表現)に頼ってはいけない、と思っていた。

しかしそうではなかった(と今では思う)。

記号に頼りすぎて感覚がおろそかになるのはいけない。

(例えば、合理主義が行き過ぎ論理の整合性が目的になるのは本末転倒であり、

それは要素科学の限界と、生態学の可能性との対照に見て取れる)

が、その陥穽の存在を理解してさえいれば、

記号を使いこなすことで感覚がより研ぎ澄まされるのだ、と。


この辺の話はもちろん一年半前から考えていたことではないが、

当時の自分を分析するとこのような思考の流れが当時の出来事前後の

自分の哲学(ものの考え方)の変化を上手く表せているのではないかと思う。

そして一番言いたいのは、この記号(→言葉)の力を実感したのが、

「本を読むこと」であったことだ。


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実は今年の”ゆくとしくるとし”に書こうと思っている事を

箇条書きでまとめたものが手元にあるのだが、

初っ端から無視してぶっ飛んでいることに気付いた(笑)

やはり書きたいと思ったことがそのまま文章に表れるなんてことはあり得ず、

それは頭の中で浮かんでいることには言葉以外に画像その他も含まれ、

それらが自分の思っていた通りに把握されていない(これはもし

そうでなければ、言葉として外に出した時点でその言葉に本人は何も

疑問を抱かず、新たな発想が生まれることもないことを考えれば実感できる)と、

つまり「言葉は常に言い足りないか言い過ぎであ」り、

「文章は自分との対話であ」り、                 

「過去の自分は他人である」のだなぁと思う。           


というわけで書いてる本人も最終的に何が言いたいのか分からないまま、

筆先を次の記事に移すとします。

あーたのし☆
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by chee-choff | 2009-01-02 18:21 | 思考