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深爪エリマキトカゲ
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◆ 『消費社会批判』 堤清二
落ちたのをいいことにこんなものを投下してみる(笑)


3/27 読了.

 勝手に増幅されられた欲望に従うのはイヤだなぁと最近のマスメディアや消費活動に対して疑念を抱いていたのだけれど,タイトルを見てそれに応えてくれそうな気がしたので実家から持って帰った.書かれたのは95年で今からなんと14年前.僕は小学校4年くらいかな.まぁそんな時代に書かれた内容で今読んでおっと思える記述がちらほらとあったのでそこらを抜粋しておこうと思う.各論では光る所があったが,総論ではうーん…という印象を持った.提言のレベルなので読者に問題意識を持ってもらえたらそれで満足だったのかもしれない.
 上記の「おっ」は,常々僕自身が漠然と思っていることをうまく言葉に表せているなぁという箇所が多い.その意味で目新しいものはあまりないのだが,裏を返せば自分のとても身近な現象とつながった表現がなされていることを実感できる可能性が高いとも言えるのである.






p.78
 この問題を考えるとき,人間主体としての消費者像が明確にされる必要がありそうである.いうまでも無く,消費社会と呼ばれたりもする発達した産業社会は,人間のすべての行為を,ひいては人間そのものを,単に労働力としてばかりではなく,多様な種類の商品として顕在化する.そうした社会的環境の中にあって消費生活を営む人間は,常に自己解体の危険に曝されているということができる.このような時代にあっては,明確な自我を形成している人間ほど,社会とのあいだに緊張した関係を持たざるを得ない.…今日の広告表現のいくつかに垣間見えるのは,消費そのものを自己目的化することで,困難な主体の問題から逃避するよう誘いかける姿勢であり,聞こえてくるのはオデュッセウスが耳に蝋(?)を詰めて聞くまいとしたセイレーンの甘い歌声である.

p.109
 環境問題を情緒的なレベルにとどめるなら,今日の消費社会はこの問題をも「新しいファッション」の位置にすばやくおき直し,「環境にやさしい」というキャッチフレーズで大量に無駄な商品を製造し,やがて「もう古い」という認定の下に,更に消費を刺激する新しいテーマを探し始めるだろう.その時,人間のための環境擁護という,本来産業社会批判である問題提起は,消費社会の一つの意匠に転落する

p.114
大量生産方式によって,「もののあはれ」(アウラ)が消滅し,機能性,実用性が王座を占める社会こそ,消費社会の基本的性格ということになろう.現代にあって芸術的生産物も「平等」を振りかざした複製への要求を拒むことはできないように思われる.ベンヤミンも現代社会では「平等にいたる感覚が非常に発達していて,ひとびとは一回限りのものからでさえ(例えば舞台芸術)コピーによって同質のものを引き出そうとする」と指摘している.しかし,人間はアウラを求めないではいられない生物である.それが“芸術作品”から得られないとき,人間はしばしば安手のカリスマにとらえられる.洋の東西を問わず新興宗教が群発することのひとつの社会的条件は,アウラが表の舞台から姿を消したからであろう

p.117-118
 模造・疑似現象がそれ自体で流通しうるという市民権を獲得したことによって,使用価値としての商品の“真偽”は二の次になる.

p.125-127
 ファッションとモードという言葉はわが国では同じように使われているが,ロラン・バルトが分析してみせてくれたように,モードは主として服飾の流行期間を意味し,社会の制度としては一年単位で発表されて通用する流行であるのに対し,ファッションはより広く,社会的な傾向全般を指す.またその範囲は今日ではインテリア,自動車,食生活の傾向など,消費者が市場で購入する製品の全てを含む生活様式を意味している. …
 確かに消費社会が成立し,個人を演出する必要が大きくなるにつれて(演出以外に個人を他の個人から区別する方法がなくなったのかもしれない),服飾などの生活における比重は高くなった.それは,ある場合は性的な禁忌の解除であり,また別の場合は擬似的ライフスタイルの呈示であったりするのだが,このことは反面,個人個人が原子化(アトム化)される度合いが進むにつれて,逆に圧迫された個性化願望がファッションに向かって噴出しているとも言える一面がありそうである.それでいて,今日におけるファッションはまぎれもなく体制のコードである.このような存在の二重性の中にファッションをおいて考察すれば,そこにいくつかの今日的な特徴を見出すことが可能である. …
 むしろ,今日におけるファッション化の根本的な問題点は,社会的,思想的な問題点をもファッションとしてしかとらえようとしない消費社会の軽薄化,浮遊化を促進する役割を果たしてしまっているという次元に存在しているように思われる.

p.207-208
…市場における種々の機能を持った商品の充足度が高まると,マーケティングは人間の欲望を無理に刺戟してでも市場を拡大する方向へと働きかけるようになった.そのために,市場に投げ込まれる商品の範囲は拡大され,商品の陳腐化を早めるためのイメージ戦略が考察された.通常「消費社会」という名で想起されるのは,このような没思想的マーケティングによって演出された消費過剰市場が支配する社会なのである.しかし,このような努力が逆に人々に「消費とは何か,何だったのか」を考える契機を与えた.
by chee-choff | 2009-04-14 14:19 | 読書