深爪エリマキトカゲ
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◆ OUTO
ローマ字で書くと何か情けないなw

outという単語があるからいけないのだ。

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ごぶさたです。

研究に就活に忙しい日々です。

そして悩んでもいます。

暇はないが、

何か考えが、

まずい方向に、

流れていきそうな、

気がしたので、

息抜きがてら、

キー坊(=キーボード)と、

戯れることにしました。

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常に考えてはいる。

が、日頃の考えは妥協たっぷり。

思考の道筋を辿っていて、

先に進まなかったり、

先が面白くなさそうだったら、

止めるか逸れるかしてしまう。

弄んでよい内容についても、

そうでないものについても。


今はそうでないものを妥協無くして考えるべき時期。

それらは「仕事」「将来」「幸せ」「生きがい」など。

さて、考えるか。


ルールをいくつか課そうと思う。

1.読点を使わない(区切りは句点のみ)

これは止めることにした。書き始めてすぐに、あまりに読みにくいことが判明した。
2.改行をしない
3.言葉の表現で詰まらない(内容が浮かべば細微は気にせず書く)

これらのルールにより、内容によっては

サルトルの『嘔吐』みたいな文章になると予想される。

(僕自身はあれは読もうとしたが途中で挫折した)

敢えて人に読ませる文章ではないということだ。

もっとも、最近の自分のブログはそのコンセプトを忠実に守っていたりもするのだが。。


本題に入る前に、最近読んだ本の著者を並べてみる。

その人が書く文章は、もっぱら昨今読んだ本に影響されること多々あるはず。

片手で数えられるほどの好奇な読者と、

後の自分自身のために記しておく。

…仲正昌樹、ジル・ドゥルーズ(クレア・コールブルック)、内田樹、森博嗣。


(考えの及ぶままに書き記しただけなので、

読んだところでいつも以上に得られるものは何もないです。

そしていつも以上に整っておらず、切りが悪いです。

僕以外の人が読めばストレス倍増間違いなしです。

それでもよければ、) どうぞ。






始めよう。懸案事項は何であったか。そう、まずは「仕事」だ。今僕はM1で、就職活動をしている。来年の春には卒業し、社会人になるためだ。なぜか?それは問うまでもない。生きていくためだ。さて、就職活動は世の中にある仕事には何があるかを知り、自分に合ったものを見つけ、それに向かって目指すための社会勉強であり、入社試験、採用試験を幾度となく受け、内定をもらい、いくつかもらえたならば一つを除き他の全てを蹴り、来年から働くべき会社を決めるに至るまでのプロセスを含む。それら一連の流れを概観するにしろ要素ごとに掘り下げるにしろ、第一に考えるのは「どの会社に行くか」、そしてそのもととなる「どの会社に行きたいか」、それを決定するために考えるべきは「自分は何がしたいか」。やっとたどり着いた。恐らくこの手の話を考えるにあたり最初に発する一言が、今ここに現前した。さて、僕は何がしたいのか。何がしたいのだろうか。僕は。今の僕は。ここで「今の」と言った。敢えて強調するならば、「何がしたいかは自分自身、その時々で異なる」と思う。長いスパンで考えれば誰にも納得できるが、さて今日明日の話となるとどうだろう。「自分は何を仕事としたいのか」を一度は考え抜いた人ならば真っ先に否定するだろう。そのような目移りをするうちはまだ考えが浅いのだと。考えが浅いと色々な仕事に目移りする、これは僕も否定しない。他人の芝は青く(漢字合ってたかな?碧く?)見えるというが、生き生きと仕事に励む人を見れば、その彼の仕事を見る目にもある程度の羨望が含まれてくるだろう。しかし、目移りする人間全てがそうではない。今の僕は考え抜いた末に「ある程度どんな仕事でもよい」と思っている。仕事なら何でも、となると言い過ぎで、まず単純作業は遠慮願いたい。それから肉体労働が主なものも。主に頭脳労働で、自分の裁量を挟む余地のあるものであれば何でもよい。と思っている。この思いに至った経緯は検証して損はないと思われるので考えてみる。去年の夏にインターンシップをやっていた頃はほとんど迷いなく新聞記者を志望していた。理由は、本音に限れば、色々な人に会える、色々な場所に行ける、それによって考えるきっかけをもらえる、同時に妄想の糧も得られる(これは注釈が必要だ。注釈の注釈は面倒なので分かりにくいのは承知で書くが、僕が今の僕のようなひねくれた人間になったきっかけの一つとして森見登美彦『太陽の塔』という本がある。京都を舞台としたヘタレ大学生の妄想ラブコメディであるが、その登場人物の飾磨氏を僕は読んだ当初から崇拝しており、対外的な表現としてまずいと思った後から尊敬の念を抱くにとどめて今に至る。もちろん僕自身のチョイスだが、その彼の名言に「我々の日常の九〇パーセントは、頭の中で起こっている」というものがある。割合の大小に議論の余地はあるが、脳内世界を軽んじることなく、むしろメインに据える人生観に僕は感動したものだ。その言葉を胸にしまうことをきっかけとして、僕は現実にあるものだけでなく、頭の中で想像できるものにも価値をおくようになった。それはすなわち妄想なわけだが、妄想を弄ぶためにはその素材がなくてはならない。妄想の源泉はどこにあるか?それは言うまでもなく、自分の生身の体が存在する、現世である。いくら妄想とはいえ、無から有は作り出せない。妄想は自由奔放にできるわけだから、素材の質はどうあれ、量は多ければ多いほどよい。その素材を得るためには、記者はもってこいの職業なのだ)。その思いはさほど変わっておらず、記者として仕事ができるならば万々歳ではある。それならば何がまずいのだ、一体何が不満なのかと思われるような書きぶりだが、それを引き続き記す。去年の夏から思いがどう変わったかというと、ついさっきも言った通り、「ある程度何でもよ」くなったのだ。言い換えれば、別に新聞記者でなくとも良い、と。そう思ったのは、他の仕事の話を詳しく聞いたのと、趣味にしている哲学的思考が頭をもたげてきたことが理由に挙げられる。哲学的思考とは何か。ここでは僕自身の哲学(の定義)を語らせてもらうが、僕は哲学とは「ものごとの意味を問う」ことだと思っている。「意味」は色々と分ける(捉える?)ことができて、例えば「存在意義」「起源」「効果」など。あといくつか並べても意味がかぶる部分が多々あると思われるが、とりあえず「意味」の表現はいくらでもあるとは言えそうだ。一方「ものごと」の方は、これはあらゆるものを指す。コミュニケーション上や仕事上必要なことだけでなく、人々の中で常識となっていて普段問う必要のないことも、辞書に意味が載っていて、改めて考えなければ不自由が起こるということはないことも問いの対象となる。問う理由も様々であり、その時の自分の思考には必要な問いであったり、単に言葉や論理を弄ぶためであったり、論理的思考能力を鍛えるためであったり、日常生活に新たな洞察を導入するためであったりする。さて、その哲学を僕は「幸せ」に適用することにした。幸せとは何か、何をどうすれば幸せが得られるのか、そもそも幸せを得る必要はあるのか、幸せなどなくても居心地(生き心地)のいい状態もありえるのではないか。後半に行くにつれ言葉の曖昧になってくる(誤用とすらとれる)が、これは気にしてはいけない。(僕自身の)哲学で重要なことは、言葉の既存の意味にとらわれないことだ(人が何か考えを言葉にする時、考えは形を変える。言葉は物事を公に表せる便利なツールだが、その変換プロセスは等価的には行われない。なぜかというと…以前、今年の最初のブログに確か書いたが、まぁそれは経験的に分かるとだけ言っておく)。自分の考え、頭の中にあるものそのものを大事にしようと思うならば、過度に言葉にとらわれてはいけない。表現するために言葉は使わざるを得ないが、既存の意味に縛られることなく、それとなしに言葉を連ねてみる。何か書いていることの論理性がおかしいな、語の用法が間違ってるな、とはその時点で判断がつくが、すぐに修正してはいけない。その前に、そのおかしさ、間違いの意味を問うのだ。何気なく書いた一つの単語、これを別の意味に解釈するとさらに自分の考えに近くなるな…などと考えるのである。これは、哲学を行う作業の一つだ。さて、話を元に戻そう。幸せについて考える所であった。どうすれば幸せが得られるのか。仕事の話とつなげるならば、「自分の好きな仕事ができれば幸せだろう」となる。
…方向性がずれていることに気付いた。既存の「幸せ」の概念を今の僕は嫌っていて、それはすなわち自分が行う行為によって幸せの有無もしくは度合いが決まるのではなく、行為を自分自身がどうとらえるかで得られる幸せの量が決まるのではないかと思っているのだ。そう考えると行為そのもの、ここでは「仕事内容」」は以前に比べ相対的に軽んじられることになる。「頭脳労働がいい」というのはここで「相対的に」という表現にとどめている所と対応している。もちろん自分が最もしたいと思う仕事ができるに越したことはないが、それが過ぎると「その仕事でなければ自分は幸せになれな」くなってしまうかもしれない。単にこう言うだけならばただの臆病であると言えるかもしれない。しかし今自分が思っているのはそれだけではない。仕事が選べるという選択可能性に与する限りそれは「行為を自分自身がどう捉えるかで幸せの度合いを決める姿勢」における妥協なのではないかと思うのだ(ちなみに「仕事は何でもいい」というのは「仕事の選択可能性を最大限生かすために努力すること」を放棄するという妥協だ)。今自分が悩んでいるのは、これは今ここに書き記して気付いたと思われることだが、仕事の選択に自分の哲学を適用してのことなのではないか。自分の将来を考えての選択ではなく、今の自分のスタンスに合った考え方で仕事を選択しようとしているのではないか。今の自分が思うところではなく、その「思うところ」を自らの哲学で疑い、それと同じ哲学によって仕事の選択を決定しようとしている、もとい仕事の選択を放棄しようとしているのではないか。 これは少し違うのではないか。今の自分の哲学が発揮できる状況を全く考えていない。発揮できている状況がどのような恩恵を受けているか、そしてこの先同様に自らの哲学を自信をもって生活に適用していくためにどのような生活環境を整えなければならないか、どのような仕事に精を出せばよいかを考えていないのではないか。将来のことを考えていない、今の自分を基準にして全てを決定しようとしているのではないか。そう思われた。おお、これはよい収穫だ。ESを書きたい衝動を抑えて筆(キーボードのことだが)を取った甲斐があるというものだ。 今の自分の思考で全てを解決(納得)しようと思わないこと。未来を切り開くために進むうえで、思考だけではいけない。行動も必要だ。思考を深める前の行動も。今の自分の思考は現状維持、現状肯定の嫌いがある。仕事の決定はどう転んでも、現状維持ではない。進むのだ、未来へ。とりあえず。


…すんません、なんか一部解決できた(少なくとも心の一部に安堵が訪れた)ので、

中途半端すぎますがここで切ります。

どうも失礼しました m(_ _)m




p.s.

ぽ氏が「ブログで公開するからには読む人のためになるものを」と書いたのを見て、

自分がなぜこのような文章を公開するのか、改めて考えてみた。

もちろん人様に見せてはいけないような想像を絶する価値観であったり、

垣間見ただけで目が腐るようなドス腹黒い部分は書いてないつもりだが、

それでもかなり際どい部分を露呈させている可能性も考えている。

これでヒかれたらそれはそれでしゃあないなとも思っている。

それでもこんなことを公に書くのは、

素の自分を自分に興味のある(と想定される)人間に知ってもらいたいという欲求、

素を内に溜め込むでなくたまには放出して客観的に眺めたいという意思によるものだと思う。

この「客観的」とは、単に自分のPC内のワードで同じ文章を書いて客観的に眺めるのとは

また違う意味であると思っている。


「素の自分」なるものの存在を今の自分は全否定しているが、

言葉(自分自身の語彙)の限界から妥協してこう表現した。

この辺の話はもう少し深めたいね。

就活が終わったらまた本をむさぼり読もう。
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by chee-choff | 2009-02-28 23:09 | 思考