深爪エリマキトカゲ
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◆ ゆくとしくるとし08→09 (2)
主にどのような本を読んできたか。

基本的に、脈絡なく様々なジャンルを読みあさってきた。

「考える余地のある本」という条件つきで。

たまに息抜きに読むようなものを除けば、

思考を促す、または考え方を提示する(問う)本がほとんどであった。

ここで書評はしたくないので触れるだけにとどめるが、

思考を促す本としては内田樹の諸著作、

考え方を提示する本としては『考える快楽』(グレイリング)、『人生論ノート』(三木清)が

強く印象に残っている。


なぜ「考えること」にこだわるのか。

 それは、物事を知る、知らないの違いで、いくらでも人生が変わるから。

 そして、自分が手にしたい幸せの形式について、

 「知らないことで手に入る(保たれる)幸せ」は許せないと思うから。

思いつくままに並べてみたが、どうも言葉足らずのようだ。

まだ、明確に表現するには未熟である。

ただ、自分の根底にある「変化」に対する願望と、

先に述べた一年半前の自分の無知(無思考)の自覚は、

「考えること」への執着に大きな影響を与えているように思える。


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昨年一年を通してのハイライトは何であったか。

一昨年の年末には確か院試の前後で人が変わってしまったと書いた気がするが、

そのような劇的な出来事は昨年は何もなかったように思う。

一昨年の変化の程を確かめるべく、サインカーブの下り坂を転げ続けていた一年。

(サインカーブはテンションの波あるいは社交度合・活発度の波の比喩と捉えて欲しい)

新聞記者を目指すことに決めた事も、その流れに沿った小さな出来事の一つに過ぎない。


年間を通して一人で思考することを好んだ自分は、

年間を通して「できれば近づかないでほしいオーラ」を放出していた。

たまに人恋しくなったこともあったが、冷ややかに言えばそれも

習慣に基づいた形式的な欲求であったようだ。

それはある友人と共に居る時、図らずも言動に顕れてしまった本音が物語る。

(私信 その節はすまなかった。貴殿は小生が気を許せる数少ない友人であることを

 どうか心に留めておいてもらいたい。その方面では自信のある小生にも増して、

 貴殿は人の本音を引き出す物腰の柔らかさを有していることに間違いはない。)


ここからは更に言葉足らずで、いささか乱暴な展開になることを容赦願いたい。

(ここで長時間筆が止まり、悩んだが、厳密に表現しようとするのは不可能だと判断した)

なお、その都度ことわってはいるが、以下、スペースの入る段は話が大筋から逸れている。


自分は、他人あっての自分だと思う。

自分だけを見つめて(思考により)満足することは不可能である。

(思考なき満足は全く成長につながらないとは言わないが、

 自己成長を認識するためには思考を要する)

自分のことに最も興味がある、それは確かだが、

それは他人を通してしか把握することができない。

自己の存在自体は絶対的でも、その認識は相対的である。

世界に自分一人しか人間(もとい生物)がいなければ、

彼は自分のことを考えるだろうか?

(その意味で絶対的な自己というものに、

どのような価値を見出すことができよう?

価値は差異の認識から生まれる。して、価値は相対的である)

他人は自分を映す鏡である、とはよく言われる。

ここで言う「他人」には、本を含めてもよい。

本を読み、他人の意見を咀嚼し、好悪の判断を下すなりして

相対的に自分の意見を打ち立てる。

自分と他人の意見を並列することで、自分を客観視することができる。

その意味で、本も他人に含める。

 少し逸れるが、

 他人(人)と他人(本)のここでの違いは、臨場感と、持ち得る思考時間。

  臨場感あふれる他人との触れ合いを学部では膨大に経験してきたが、

  その経験に対する思考時間がほぼ無きに等しかったために、

  ふと落ち着いて考えた在るべき自己と現実との間に深い溝を感じ、驚き、

  思考時間を十分に得た(あるいは思考のツールを十分に備えた)自分が

  以前(学部時代)と同様の状況に放り込まれた際に何を感じ取ることができるか、

  その差異(成果)を期待し、為の準備期間として今の独りの自分がある。

  今の自分に対する他人は、本が大勢を占めている。

  もちろん現実生活として、人とも本とも大量に付き合っていくのが理想であるが、

  ひねくれかつ不器用な自分は、極端(他人=人)に極端(他人=本)をぶつける発想に至った。

  これは一つの、被験者を自己とした、実験である。

  このような好き勝手な生活が許される状況に感謝したい。

  すなわち、我が両親に。

疑うべくもない自分への理解の欲求がある。

そして、他人の理解なしに自分の理解も進まない。

 先に述べた「自分を客観視すること」が、自分と関係はあるが少し違うもの(意見)や

 関係も想定できずかなり違うものに対し意味づけを行うにおいて、

 どれだけ実行できるかによって自分への理解の程度が決まる。

 主観的な見方は、自己理解の糧には成りうるが、あくまで素材である。

 それだけでは理解は進まない。

 (客観視は周りと比較する自己も把握するため、主観を含むと考える)

 (主観のみで生きる人間が成長・変化しない、とは言っていない。

 変化はするが、それを自分自身で認識できないと言っている。

 そのような人間は基本的に空想の産物と思われるが)

 主観を発揮すべきは、他人(自分を含めてよい)の意志を奮起(操作)する際である。

 感覚的な影響力では、客観より主観の方が強いと思われる。

 失礼、逸れるが言いたかったので言った。

ここまでを前提として本論へ進む(本論が何かとは問わないでもらいたいw)。

先に、「自分のことについて何も考えていないと思われた」と述べた。

これは、「大学生活で数え切れない程の人々と関わってきたが、

(実際あるかは別として)彼らから得たものについて何も語ることができず、

彼らを語ることすらできなかった」経験が、そう言わせた一因でもある。

何か良い経験をして、それを言葉で表せないからといって、その経験から

何も得るものがなかったと考えるのはあまりにネガティブであり、

そしてほとんど事実でない。

だが、当時の自分はその状態に愕然としたのであった。

(これについての分析は(1)の後半に書いた)

この驚きが、自分の想像する目指すべき将来を、明確にしたように思う。


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ここから、記者志望の理由などを語る…流れにあるが、

実はあまり乗り気でなかったり(笑)

当初の方向性を取り戻したい思いもあるし、どうしようかな。

…寝て起きたら何かしら考えがまとまってることを信じて、

今日はここまで。 ういー目が痛い。
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by chee-choff | 2009-01-02 23:37 | 思考