深爪エリマキトカゲ
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◆ ゆくとしくるとし08→09 (1)
1日は非常にまったりと、本を読んでた。

してることは普段と変わらないのだけど、

時間の流れがとても遅く感じられ、

なんともスローな元旦を過ごすことができた。

そのおかげで書くのが2日になってしまった。。


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初詣はどうなったか。

…間に合いませんでした(笑)

家を出たのが新年20分前。

年が明けるまでに神社にたどり着くべく

行程の半分以上を走ったのだけど、到着したのは0:03。

何の感慨もなく新年を迎えた。


鳥居を抜けてしばらくは人はぽつぽつであったが、

拝殿の入り口で凄まじい人混みを目の当たりにし、

賽銭を投げる気力もなく休憩所へ向かう。

もともと祈る気はなかった。


寒風吹きすさぶ屋外では幸福の象徴であるかのような

湯気をほわほわ舞わせる出店の並びを遅い歩みで素通りし、

普段無機質に思われるはずの自販機の煌々とした明かりに引き寄せられ、

缶おしるこを一本。


うまい。


休憩所のベンチで人間観察をしながら体を休め、

一息ついたところで下山。

帰りは去年と同じく電灯のない山道を歩く。

一日前の天気予報では雪が降ると言っていたが、

そんな気配もなく空もほぼ快晴。

月明かりのみならず、星々の光も夜道を照らすかのよう。


時々すれ違う参拝客の会話。存在音。

笑い。衣擦れ。のろけ話。木の葉を踏む。回想。拍手。

それらを全て呑み込む、静寂。

生活音の無さに乾いた空気も相まって、圧倒的であった。

 普段、耳を澄まさねば聞こえぬ、感じられる、静寂。かよわきもの。

 だが、そのかよわきものは今宵、如何なる違いを経て其処に有る。

 無い。 如何なる静寂に、相違は。

 有る。 如何なる時所に、静寂は。


山道を抜けてからはふらふら寄り道をば。

中学の通学路を懐かしく通り、学校が見渡せる高台にて無心。

いい加減体の冷え具合が我慢ならない時点で、帰宅に一心。

25時過ぎ到着、風呂に入ってさっさと寝る。ぐぅ。


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昨年度の総括と、今年度の抱負を語りたい。

もとい、語りを通じて思考を整理したい。語りは二の次。

というわけで昨年末の駄文をお読みの方はご存じの通り、

この先極めて脈絡のない文章が展開される予定。

 (実は自分の中でこれを毎年恒例にしようと目論んでおり、

 その意味で昨年と文書(の展開)形式を揃えようかとも思ったが、

 見直してしまうと今の思考が引きずられそうな気もするので、

 あとで見返した末にどうするか判断しようと思う)


昨年はどんな年であったか。

行動で言えば「とことん本を読んだ一年」であった。

4月からまともに数え始めたのだけれど、

8ヶ月でざっと90冊弱。

高校時代に読んだ本が読書感想文のための数冊だけ、

という過去を見れば驚くべき数字。


しかしその数字を見ずとも、自分は変わったと思う。

この一年半で。

一年半前に何があったかは詳しく言うまいが、

本をむさぼり読むようになったのは当時ある出来事があり、

自分が高校時代と全く変わっていないことを実感したことがきっかけである。

と言ってもその時一番ショックを受けたのは自分が変化していないことではなく、

自分のことについて何も考えていなかったことであった。

もとい、自分のことについて何も考えていないと思われたことであった。


ひたすら周囲の環境に適応し、何でもそれなりにこなす。

それを付和雷同、迎合主義と言われようとも、

適応の方法、その捉え方に、主体性を混ぜ込んで選択してきたと信じていた。

そのスタンス自体には何ら不満はなかった。

しかし、それを言葉で表現するにあたり、何も言えなかった。

何だかよくわからないが自分はいいものを持っており、

実感もあって(少なくとも自分の中では)誇れたのであるが、

それを客観的に表す術がなかった。

言葉にできなくとも育つものは存在すると思っていたが、

 それを言葉にできれば、もっと育つのではないかという考えが頭をもたげてきた。


人はその成長の過程で、自分の行動、成果の足跡を残し、

それらを過去の自分に見立て現在の自分と比べることで成長を実感する。

学校ではその成長モデルが、児童・生徒にとって無自覚のうちに適用される。

通信簿、定期テスト、学園祭。

科目の評価点が良くなる、テストの成績が上がる、

ばらばらだったクラスが一つになる。

よくわからないけど言われるままに始め、

何だかこうすれば面白そうという興味のもとに主体性が生まれ、

教師に誉められる、仲間の笑顔が増える、達成感が生まれる。


ご多分に漏れず全く無自覚であった俺は、

その成長モデルに面白いほどバカ正直(素直)に取り込まれ、

達成感を生き甲斐と感じられるほどの人間になった。

その達成感は主にテストの点数を上げる行程により培われたが、

それだけが価値のあるものではなく、

そしてそれだけが自分の成長を確認できる術であると

勘違いすることなく達成感のレンジ(適用範囲)を拡げられたことは、

考えること自体に価値を見いだす現在の俺にとって幸いであった。

もっとも、両者は鶏と卵の関係にあると言った方が正確であるが。


少し話が逸れた。

この成長モデルは小・中・高校に特有のものであるが、

その中で「成長を客観的に認識する」点は生涯にわたり

重要ではないかと気付いたのだ。

(今の自分はむしろ成長→変化としたいが。)

数字として、言葉として示される成長・変化の大事な所はなにも、

それが目に見えて分かりやすい、実感しやすいという点だけにあるのではない。

その示される記号自体が、新たに思考を与えるのだ、と。

(ここで言う「新たな思考」というのは、

「今回はテストの点数悪かったから次は頑張ろう」ということではなく、

「このテストの点数(の良さ、悪さ)は何を意味するのだろうか、

 この点数が表し切れないものがあれば、それは何だろうか」

ということである)


さっきの話とつなげると…自分は見えないものの価値を見出したいと言っていた。

見えないものは言葉で表現し切れない、感覚でしか捉えられないもの、と考えた。

その見えないものを感じるには言葉(→記号、記号表現)に頼ってはいけない、と思っていた。

しかしそうではなかった(と今では思う)。

記号に頼りすぎて感覚がおろそかになるのはいけない。

(例えば、合理主義が行き過ぎ論理の整合性が目的になるのは本末転倒であり、

それは要素科学の限界と、生態学の可能性との対照に見て取れる)

が、その陥穽の存在を理解してさえいれば、

記号を使いこなすことで感覚がより研ぎ澄まされるのだ、と。


この辺の話はもちろん一年半前から考えていたことではないが、

当時の自分を分析するとこのような思考の流れが当時の出来事前後の

自分の哲学(ものの考え方)の変化を上手く表せているのではないかと思う。

そして一番言いたいのは、この記号(→言葉)の力を実感したのが、

「本を読むこと」であったことだ。


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実は今年の”ゆくとしくるとし”に書こうと思っている事を

箇条書きでまとめたものが手元にあるのだが、

初っ端から無視してぶっ飛んでいることに気付いた(笑)

やはり書きたいと思ったことがそのまま文章に表れるなんてことはあり得ず、

それは頭の中で浮かんでいることには言葉以外に画像その他も含まれ、

それらが自分の思っていた通りに把握されていない(これはもし

そうでなければ、言葉として外に出した時点でその言葉に本人は何も

疑問を抱かず、新たな発想が生まれることもないことを考えれば実感できる)と、

つまり「言葉は常に言い足りないか言い過ぎであ」り、

「文章は自分との対話であ」り、                 

「過去の自分は他人である」のだなぁと思う。           


というわけで書いてる本人も最終的に何が言いたいのか分からないまま、

筆先を次の記事に移すとします。

あーたのし☆
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by chee-choff | 2009-01-02 18:21 | 思考