深爪エリマキトカゲ
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◆ 『考える快楽』 A.C.グレイリング 
前の記事でも少し触れた本だが,

最近読んだ哲学書の中でも特に面白いなと思ったので

紹介する機会を今まで窺っていた.

テスト等が一段落したのでここで頑張ってみる.



本書の内容はいたって単純.

哲学書によくある,テーマ(大抵1語)とその意味について語る形式.

だが単純であるが簡単ではない.

というか,簡単とか難しいとかいった度合いで表現するのは不適切かもしれない.



というのも,読んで理解すれば終わり,の類の本ではない.

取り上げられたテーマについて自分の思うところと,

著者の考えとを照らし合わせて初めてこの本の良さが分かる.

「あ,考えるって面白いな」と.



知的好奇心溢れる人は全てのテーマを読めばよいが,

そうでもない人は自分の興味をそそるテーマだけでも熟読することをオススメする.

実際僕はそのような読み方をし,特に気になった箇所で何か自分で言えそうだと

思った部分を抜粋し,自分の言葉と共に記したのが今回の記事.



量がかなりあり,本書が3章立てということで

1章ごとに記事を分けて上げることにした.

偶然か,1章ごとに「これはぜひ読んで欲しい!」と思うテーマが1つずつ含まれるので,

特に興味がなくてもそのテーマだけは読んで(つか熟読して)もらいたい.



以下で用いる記号の意味に触れておく.

○はテーマを,……はそのテーマ内の本書抜粋箇所を表す.

そして>>は抜粋箇所に対する僕の解釈,意見,感想などの部分.

気が向けば目を通して頂けるとありがたい.



それでは早速.




考える快楽 グレイリング先生の哲学講義   A.C.グレイリング 栗木さつき 訳

  「ものごとの意味は,
   それ自体に内在するのではなく,
   ものごとにたいするわれわれの姿勢のなかにある」
                      アントワーヌ・サン=テグジュペリ

哲学の典型である「~とは何か」という疑問を色々なものにぶつけ,コメントされたもの.

三木清『人生論』とほぼ同じ体裁をとるが,あちらよりもかなり表現が噛み砕かれており,

実感もできてわかりやすい.

著者も述べている通り,事柄の意味について正確な答えを提供するものではなく,

意味を見いだす著者なりの思考の道筋を提示することが本書の目的であるそうだ.

つまり,テグジュペリの言う通り,物事の意味は人それぞれなのである.



  第一章 美徳と愚考

寛容,慈悲,妥協,…と他にも色々あったが,以下の5つを取り上げた.

・勇気 Courage
◎死 Death     
・忍耐強さ Perseverance
・用心深さ Prudence
・裏切り Betrayal

死は,ぜひ読んでもらいたい.



○勇気 Courage

……悲嘆,病,失望,苦痛,苦悶,貧困,喪失,恐怖,頭痛などはどれも避けられないものとして,毎日,無数の人々によって経験されている.だからこそ,日常生活は先頭や冒険よりも多大なる勇気を奮い起こさせ,エヴェレストへの登頂などむしろたやすく思えるほどの忍耐力や勇気を必要とする.登山や深海へのダイビングは自己充足の活動であり,一定の時間が過ぎ,万事順調にいけば終わりを迎えて以前の状態に戻るのにたいし,日常生活で悲嘆や失望に直面する場合は…終わりが決められていない,これまでとは異なる新たな経験であり,この先どうなるかわからないという深い感覚がともなう.…そのうえ勇気とは,恐れている人間にしか感じられないものだ.たとえ敵の胸壁を跳び越えていくときにも,ラグビーでタックルするときにも恐れを知らぬ人間がいたとしても,その人間は勇敢なわけではない.

>>勇敢と無謀は違うということだ.


○死 Death

……主観的に見れば,死んでいる状態は,まだ生まれていない状態や,夢を見ていない睡眠と区別がつかない.だから,おそれるに足るものではない.恐ろしく見えるものの実体は,死ぬという将来への見通しに過ぎない.そもそも,死んでいく行為は,生きるという行為に含まれる.というのも,それは生きているものだけが為す行為であり,食べる,歩く,幸せを感じる,気分が悪くなるといった行為のほとんどがそうであるように,心地よく感じる場合もあれば,不快に感じる場合もあるからだ.だが,死んでいる状態を,私たちは自分で経験できない.経験するのは,ただ他人を喪うことだけであり,それは悲嘆という経験だ.したがって,自分自身の死は,私たち個人の経験の一部ではない.死は生の一部であるが,私たちが経験できるのはただ生のみである.つまり主観的に考えれば,私たちは不死なのである.

>>「死ぬ」ことが「食べる」や「歩く」といった行為と同列に扱うことに新鮮さを覚えた.確かに死に顔には苦痛なものから幸福なものまである.死ぬこと自体が怖いのではない,とは言われなくても分かっていることかもしれない.では何が怖いのか,それは次に触れられる.

……自然主義の見地からいえば,死んでいる状態は生まれていない状態とまったくおなじであり,死にまつわるものが死そのものを,善なるものや邪悪なものにすることはない.そうさせるのは,死がわたしたちから運び去るものによる.死が,耐え難く,いつ果てるともない痛みをとりのぞくのなら,それは善きものとなる.死が,機会,希望,愛する人との絆を奪い去るなら,それは悪しきものとなる.なかには,自分の死は決して悪いものにはならない,死んでしまえば失われたものがなんであるかがもう分からないのだから,と主張する人間もいる.これから失うのだという見通しがつらいのであり,失うという事実は害悪ではない.ここでもまた,死は生きている人間のみにとっての問題である.つまり,それを考えないようにすれば,死は避けることのできる問題となる.

>>このように整理されるとすっきりする.「これから失うのだという見通し」を考えないことなど実際は不可能であろうが,これらが明確に述べられているだけでも,少なくとも死期の近い自分に潜む漠然とした恐怖は解消されるだろう.恐怖はあれどそれをはっきり認識できている状態,その状態を「悟り」と言うのかもしれない.

……自然の衰退と復活というどこにでも見られる周期は,死というあわれむべきおそろしいものに直面していた黎明期の人類にとって,希望の源だったに違いない.だから,そこから宗教や神話にまつわる復活の物語があふれだした.復活祭(イースター)が春の祝祭であるのは偶然ではない. こうして考えてくれば,なぜ死後の生という信仰があるのかがよくわかるはずだ──だからこそ死をおそれ,死によって正義がおこなわれるだろうと期待することも.なぜ死をおそれるかについては説明するまでもないが,なぜ究極の正義を求めるかは,食物連鎖の高い位置に居心地よくのさばっている人間にはよくわからないだろう.歴史を振り返れば,生存すること自体が過酷な労働でありつづけてきたことを,私たちの大半が忘れてしまっている.…死後の生への希望は,実際のところ,この世と言う事実に関する悲しい熟考であり,非難である.…そして,多くの人の人生が死者をうらやむようなものであるのなら,人類社会はそれ自体が大きな失敗を犯していることがよくわかるだろう.

>>黎明期の人類は自然と同等であった.その人々にとって「死後の生」は当然の営みであった.その意味で,現代の人間には「死後の生という信仰」はそぐわないとも言える.そのような信仰の推進は時代を逆行する,とも.その信仰による恩恵は恐らくあるのだろうが,それを求めるにおいて大事なことを忘れてはいけない.それは下線にあるように,「命の重み」が黎明期と現代では異なることだ.今では人の死は大事だが,それが当然・必然である時代もあった.宗教は古くからの教えに従うものであるから,異宗教者と意見交換する際は,このあたりの「自分が持つ常識」の存在を意識しておくべきである.


○忍耐強さ Perseverance

……忍耐強くあるための秘訣は,“学習曲線”を理解することにある.それは上昇する曲線を描いたグラフで,しばらくするとやや下降するが,ふたたび上昇が続き,上昇,下降,そしてまた上昇する曲線が,ページのいちばん上までつづいていく.それは,人々がなにか新しいことを習得しようとする際の標準的な進歩の軌跡をあらわしている.最初は,すべてがとんとん拍子に運ぶ.だが,急に後退がはじまり,進歩したはずのぶんまで逆戻りしたかのうように見える.この時点で,大半の人があきらめてしまう.だが,そこであきらめずに忍耐強くがんばれば,すべて下り坂の次には,高みへの上昇がつづくことがわかり,グラフ全体を見れば,曲線が上へと上がっていることがわかる.まさに,ラテン語の金言“艱難を経て星へ”が真実だとわかるはずだ.

>>分かっていても,なかなか実行できないもの.最初の上昇の後の下降の時点で,「この作業(仕事)は自分には合っていないのだ」と思ってしまうと,作業を続けることが馬鹿らしくなる.もちろんそうとも限らないし,実際そうである可能性もある.それであっても,なかなか進歩しない,効率よくこなせないことが長く続いたからといって,それまでの全ての経験が無駄になるわけではない.忍耐強さを補強する考え方として,「長期的に考える」「様々な事柄から良いことを見出す」ことなどが挙げられる.もちろん,日常の中でそれらを実践できるだけの心の余裕,さらにはそれを引き出すための前提条件であることの多い時間の余裕があってのことだが.


○用心深さ Prudence

……思慮深く,先見の明をもって生きよとは,アリストテレスがすすめるところの生き方だ.アリストテレスは,理性が支配する人生こそよきものであるとした.彼の理想は,フロニシス(実践知)のある人生であり,どんな状況においても“中庸”を求めた.たとえば勇気とは,臆病と軽率の中間であり,気前の良さとは,けちと浪費の中間であった.プラトゥスが描いた「ひとつの穴だけに人生をゆだねるようなまねはしない」賢い小ネズミのように,アリストテレス哲学の学徒は用心深さの権化である.…衝動的な行為が必ずしも軽率というわけではないのと同様に,ごくふつうに思慮深く生きていくことが必ずしも感情と本能を信頼しないものであるとはかぎらない.大胆に生きようとすればするほど,より慎重な用心深さ(プルーデンス)が求められる.なぜなら,愛情や知識といったものが得られる可能性をより高めることが,未知を切り開いていくからだ.

>>“中庸”(メソテース)は,哲学用語の中で自分が最も好きな言葉の一つだ.(地元ネタになるが)高校の倫理の授業でM野先生が手に気を溜めながらおっしゃっていた中で,今でもするりと取り出せるのは唯一この言葉だけである.政治的立場で言えばハト派,だろうか.二元的な問題での対立において答えを出さないのかと言われるかもしれないが,(反則的な言い訳をすると)それは程度の問題である.分かりやすいことが好まれる世界では,二元論でカタがつけられてしまう問題が非常に多い.が,問題の単純明快さとその解決により享受される利益は必ずしも比例しない.「この問題設定の何かがおかしい」と思わずとも,自然に第三(あるいは第四,…)の選択肢を想定する心構え,それが僕なりのメソテースの教えだと考えている.


○裏切り Betrayal

……信頼が先に存在しなければ,裏切りは存在しえない.国や友人や配偶者を裏切ったと誰かが非難されるとき,その非難には,前提として大きな仮定がある.それぞれの場合において,それがどんなものであれ,個人は義務─国民,友人,恋人であることに本来そなわっている義務─を負っているという仮定である.…貞節は本来,自発的に差し出されるものであり,権利として他人から要求されるものではない.すなわち,貞節という贈り物が与えられなかったり,引っ込められたりしたような場合には,そこに裏切りという考え方はあてはまらないのである.

>>こう言われると,安易に裏切りという言葉を使うことがはばかられる.自分が信頼をおいていない者の行為を裏切りと宣言した場合,それは本人にとっては「信頼の安売り」であり,相手にその無頼が伝わっていたとすれば「勘違いも甚だし」である.裏切りの言葉の重さを感じつつ,その言葉が認識される事態に出くわした時,はじめて相手との信頼関係が築かれていたことに気付き嬉しくなる.しかし悲しいことに,その嬉しさは気付いた信頼関係が壊された事実を目の当たりにして,一瞬にして消失するのである.
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by chee-choff | 2008-08-12 17:07 | 読書