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深爪エリマキトカゲ
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◆ 『心の起源』 木下清一郎
実家の父の本棚から,「心」という言葉に惹かれて手に取った.
 自分が心に関する本を好む一つの理由として,身近に感じられる話題であることが挙げられる.それはすなわち実際に過去にあった経験や,今まで読んできた本の内容から想像できる範囲におさめやすいという意味である.そのような自分の持つ趣向からすると,『心の起源』は少し難解な概念的なものが多くとっつきにくかった.著者の理論構築の過程にあった様々な分野の偉人紹介に心惹かれることが多かったが,それゆえか著書全体を俯瞰できるほど章ごとのつながりを保つことができなかったように思う.
 「心はどのように誕生したか」が主なテーマのひとつであった.物理世界,生物世界,心の世界と階層性を構成し,各階層を特徴づける原理の底の方に共通点があるとの視点から心の世界を特徴づけていく過程は理論が整理されていて納得できる部分も多かった.
 前述の通りこの本の全体を要約できるほど理解していないので,ここでは自分が興味を持った部分を取り上げ,それについて意見を述べ,それから何か想像できるものがあれば記そうと思う.



 生物世界は物質世界に含まれているが,(物質世界の)内にありつつも外(物質世界)を超える特徴を備えている.それは核酸という分子の持つ個性である.
地球上に物質しかなかった時代に地球上の原子・分子は太陽エネルギーを得たり相互作用による化学反応を起こして自他の物質を生成していったが,ある時核酸(RNA)という高分子が出現した.4種類の塩基からなる核酸は分子ごとに異なる塩基配列をしており,さらに自己複製による自己増殖機能も備えていた.これが生物世界の誕生であり,同じ物質で構成されながら異なる性質を持つという個性は物質世界には存在しなかった.これが内にありつつも外を越える特徴である.
 しかし,この超越には物質世界による限界が規定されている.それは物質世界における「エントロピー増大の法則」である.

 さて,本題の心の世界は,生物世界に含まれる.心の世界の発生は,統覚の出現によるとされている.統覚とは,不連続なものから連続的なものを創り出す,または経験できるものから経験できないものを創り出す能力であるとされる.例えば,判断の基準の堆積を論理となし,快・不快の感覚の堆積を感情となす.物事を経験するプロセスとして記憶と照合のループ構造を以前に示したが,単にそれらの実行だけでは経験できない(していない)ものを創り出すことはできない.そこで記憶・照合の際に抽象・捨象を行う.

 話が反れた.心の世界における統覚の機能は生物世界を超えたものであるが,生物-物質世界の関係と共通性を見出すならば,その超越部分を規定する生物世界の法則があっても不自然ではない.そしてそれは「自然淘汰の法則」であるとされる.遺伝子の存続を目的とし,生物同士の個性のせめぎ合いによる競争原理を,心の世界は超えることができないと著者は述べている.その意味で,心の世界における「意思の自由」は完全に自由ではない,と.

 しかしこれについて自分は思うのだが,意思の自由が自然淘汰則を超えるとは具体的にどのような状況なのだろうかと.生物の本能による生存行動の衝突により生物間で淘汰がなされることを自然淘汰則とするならば,心がその本能に反旗を翻して行動し,その結果として他の生物を淘汰することが「意思の自由が自然淘汰則を超える」と言えるのではないだろうか.しかし言葉面では言えるものの,実際に「自然淘汰則に反する行動」というものが取れるのか?今までの前提からすれば心を持つ者のみが可能となるが,そのことよりも自然淘汰則とは何か.生物進化の必然的過程は,心を持った人間が考え得るに人間が誕生した時点から必然ではなくなってしまったのではないか.それとも人間よりもさらに進化した生物によって人間が淘汰された未来が訪れるならば,その未来生物は人間の淘汰過程を生物進化の必然とみなすのだろうか.
 「意思の自由は自然淘汰則を超えない」という言説は,その反例を挙げることができないという点から肯定されるのかもしれないが,どうも実感に乏しい.しかし思うに,乏しいのは明らかに己の想像力の方である.


 …全く訳がわからないものを書いてしまった.どうか上の文章は真剣に読まないで頂きたい.内容について何か意見を述べたくて何やら喚いたが,これは現時点での知識なりが非常に乏しくて本書の内容すら再現できなかったことを衆目に晒すことで,更なる知的向上心の励みとするという誠に自分勝手な意図によるものであることをここに表しておく.

 最後に素人的な感想を言う.やはり異分野混合を扱う話はそれぞれの分野における基礎知識がないと何もわからない.そして基礎知識を獲得していてもそれらをつなぎ合わせるセンス(つなぎ合わせるのは著者だからそのコラボレーションを理解するセンスか)も必要である.学部4回で統合的な研究室にいたが,一年で得られたものがこの事実の実感だけというのも,あらためて納得してしまった.ぜひもう一度読むべき本として心に留めておく.
 ちと本自体の感想からずれたので帰ってきてみる.もちろん本書で「心は遺伝子に隷属するか」の答えが論理的に示されることはないのだが,そのそもそんな問題に答えなどありはしないのだ.又はいくらでもあるか,人によって違うのだろう.心の根本を問う主体が心であるといった自己言及問題は常に自己矛盾を抱える.理系の人は「ゲーテルの不完全性定理」を想像してもらうと分かりやすい.自己言及における自己矛盾については本書で数え切れないくらい述べられていた.(そしてその矛盾の解消手段として心の問題における公理を定義し,話を進めたのであった(数学でいえば自然数.その世界では全く揺るぎないものと定義されるもの).しかしその辺りから自分が話しについていけなくなったのか,公理を導入した効果を読み取ることができなかった.)自分を問うなどといった分かるはずもない問題にはしかしとても魅力がある.それは答えを見つけた時の全く未知なる境地が発する魅力ではない.思うに,答えは出ないが,考える過程で自分が生きていく上で糧になるものが得られる可能性が持つ魅力ではないかと.こんな問題に常にかまけるわけにはいかないが,たまにはいいんではないかと思った.



と、今日ベッドの上でノートPCにカタカタ打ったものをそのまま載せた。

こんな感じで書き溜めたものが十数個あるのだが、

(人に見せられるものがその中にどれだけあるかは未確認)

何かしら反響が得られればどんどん載せていこうと思う。


ご多分にもれずそれらも当然、

人に読んでもらうためには書いていないという迷惑千万なシロモノですが。。

あぁ今日はひっきぃな一日だった。
by chee-choff | 2008-04-23 19:55 | 読書