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深爪エリマキトカゲ
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◆ 大切にしたいものは何?
『大切にしたいものは何?』(鶴見俊輔と中学生たち)を読みました。

わたしの哲学の流儀は、自分で問題をつくって自分で答えをだすということなんです。哲学は自問自答するものだと思うんですね。今日、だした問題と答えをおぼえていて、また、次の機会にもう1回答えをだす。そうしながら、一生がすぎていく。そういう考え方なんですね。(…)自分で問題をつくる。そして、自分で答えをだす。どのくらい答えをだすか。どうも答えが決まらない場合は、その問題をもちこす。この、もちこす、ということがとても大切だと思うんです。もちこす、ということが習慣になり、癖になることを望みます。わたしは、そうしています。 p.11-12
 たとえば、「どうして自分は生きているのかな」。こういう問いが、「親問題」[もともと、自分がとりくんでいる基の問題のこと、自分がくらしているとでてくる問題のこと]なんです。すると、「そんなことを考えると気がめいるから、今夜はマンガでも読んで寝ようか」ということを考えるでしょう。これは、「親問題」から派生してでてくる「子問題」なんです。「なぜ生きているのか」。こうした「親問題」というのは、だいたい解決することができないんですが、その問いは、ふとしたときに、何回もあらわれてくるんですね。 p.12-13


「なぜ生きているのか」

この問いに対して、今は納得のいく答えを持っているし、「その答えはその都度変わっていくものだ」と思っている。
でも、今持っているその答えが、自分を冷静にする、心を平らかにすることはあっても、生きる意欲の推進力となるかといえば、そうとも言い切れない。
納得すればよいというものではない。
変化したい時に妙に落ち着いていると、そういう冷静な自分に呆れてしまう。
腹が立つというのではない、冷静なのだから、「自分はこういう人間なんだよなあ」という、諦めの混ざった呆れ。

また、自分の中で哲学的に重要な事柄について言葉にすることは、その文字にした言葉が自分を縛るかもしれない、という恐れを感じてもいる。
感覚や感情、あるいは考えていることでも、言葉にすることで、言葉になった以外のものは削げ落ち、捨てられる。
それが単純にもったいないという気持ち、それから、いま急いで言葉にせずに熟成されるのを待っていれば、いずれはちゃんとした、つまり言葉にする前の感覚に沿った言葉にできるかもしれない、という気持ちもある。
逆に言えば、急いで言葉にして、それが口から出任せで本来思っていたことと違っていて、それでも「自分はこう考えていたんだ」と納得してしまう、つまり言葉にする前と後とで自分の気持ちや考えが別のものになってしまう、という、これが上に書いた恐れのこと。

一方で変化したい気持ちがあって、その他方で気持ちや考えが別のものになる、変化することを恐れる気持ちがある。
変化したいという気持ちは、口先だけのものなのか?
あるいは、もう少し複雑に考えれば、「変化することは大切だ」という考えを肯定することで自分は時機に応じて変化していると見せかけているだけで、実は変わりたくないと思っているのか?

「変化することは大切だが、僕の変化は受動的に訪れるものだ」と今の自分は思っている。
どういう行動が受動的で、どういう行動が積極的なのか、その違いがこの考えにおいて重要な点で、きっかけがあって何かを始めるという流れが自分には合っている、一方で、何かやりたいことが最初にあるという状況を自分は想定できない。
厳密に考えれば「何かやりたいことが最初にある状況」はあり得なくて、人がそう思っている場合は、その人がそれをやりたいと思うきっかけに気付いていないか忘れているか、だと思う。
でも、そのことを主体的に行動すると呼ぶとして、きっと、主体的に行動することで生まれる心の躍動は、きっかけがあるかどうかに過度にこだわるよりは大きい。
きっかけは後から気づくものでもあるけれど、運命を感じるみたいに、それが一つのいい形なのかもしれない。



「大切にしたいものは何か?」

この問いは、自分にとってとても重い。
そう問うたことがあったかと過去を振り返ると、少なくとも思い出せないという意味で、社会人になってから数年経つまでは、一度もなかった。
それが、問う必要がなかったからだとすれば、幸せなことかもしれない。

でも、苦しいことがあってこそ楽しいことを心から楽しめるように、不幸あっての幸福だとすれば、それは幸福でも不幸でもないことだ。
苦しみを、不幸を、その因子を先回りで除去する賢い生き方は、楽しみを、幸福を引き立てない。
僕はそのような先回りの、先読みの生き方を上手く学び、それが生きていくことだと留保なしで実行し続けてきたような気がする。
そして、社会人になって数年後に、それは面白くないんじゃないかという考えを得て、その考えを維持したままさらに数年過ごし、今に至るのでないか。


今の自分が思っている「大切にしたいもの」は、自分の身体、身体感覚、感受性だ。
必ずしも健康の維持と同じではない。

一つの見方として、自分は空っぽだと思っている。
自分がやりたいことが、よく分からない。
何かをしていれば、誰かと一緒にいれば、それら周りの人ものの影響を受けて自分がその場でやりたいことが見える。
それがその場だけのことでなく、長い間持続することもある。
でも持続するのは、自分に影響を与えた人ものが、自分から離れていても影響を与え続けているからだ。
その影響がなくなれば、自分がやりたいことはなくなる。
つい最近まで、自分に影響を与える人ものが常に自分の周りにいたから、自分が空っぽだと思うことはなかった。
そしてそれらの人ものがいなくなって、自分が空っぽだと気づいた。
このことについては、気づいてしまったことを、なかったことにしたくない。

他人がいてこそ生きる意味がある、生きる意欲がわいてくると思っている。

上に書いた、自分がやりたいこととして、全くないわけではない。
本を読みたいし、今こうしているように、いろんなことをゆっくり考えたい。

この、今自分がやりたいことは、直接的に他人とは結びつかない。
本は人が書いたもので、その本を読むことで書いた人と言葉を介して繋がる、これも他人との結びつきに違いはないが、間接的である。
自分一人で、自分のことや、社会のことを考える、この考えることも、考える内容は他人との関わりについてのことだが、考える行為自体は具体的な他人と結びつかない。

他人との直接的な結びつき、挨拶や会話をはじめとするコミュニケーション、他人と行動を共にすることなど、は今の自分も望ましいことだと思っている。
でも、今自分がやりたいことの中に、それらは含まれていない。
ずっと一人でいたいと思っているわけでもない。
しばらく一人でいたいのか聞かれれば、いや、どちらでもよいと答える。


ただ、自分の感受性を鈍らせる人と一緒にいたくない。
正確に言うと、個人の感受性を鈍らせることで集団の目的が遂行される場にいたくない。
そういう場には自然とそういう人が集まってくるからだ。
そして、会社とはそういう場所なのだという諦めが、自分の経験から今の自分に刻まれている。
そんなの会社によって色々あるだろう、と頭では分かっていても。

そういう場からいったん距離をおきたい。
そして、そうでない場、自分がいたいと思える場、身体の感度を高めて周囲と相互作用することで仕事が進んだり関係が円滑になる場を選びたい。
そういう場をちゃんと選べるように身体の感度を高めておきたい。
これが、今自分がなりたい状態と近い将来にやりたいことで、今自分がやっていること、今やりたいこととこれがちゃんと繋がっているかどうか。
それをしっかり考えて、今を過ごしたい。

+*+*+*

今は神奈川で有休消化をしており、「やりたくないことをやらない」を念頭に気ままに過ごしているが、人は安きに流れるという格言の通り、少しずつ自堕落の度が増しているように思う。
神奈川にいる間は、その気ままの気持ち次第で自堕落がどう食い止められるか、そして改善できるかを見るに留めようと思っている。
来月始めに京都に移ってからは、自分を律せられるような生活を組みたい。

by chee-choff | 2016-09-18 18:17 | 思考