深爪エリマキトカゲ
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◆ ゆくとしくるとし('14→'15)3
今日は午後から兄夫婦が子どもを連れてやってきました。
上の長女は4歳で、正月に会うのはたぶん3度目ですが、長男は1歳半で今日初めて会いました。
活発で何よりまず口と全身が動く姪と違い、甥は全く言葉を発せず黙々と「作業」を行う子でした。
話でしか知りませんが、なんとなく甥に親近感を覚えたので、わんぱくな姪をかまいながらも甥にしぶとく構ってあげました(彼にその認識はたぶんないようですが)。
甥はマッサージチェアによじ登り、そばにあったボールを投げ落とします。僕はそれを拾い、彼に投げ返してあげます。彼はボールが(また?)彼のそばにあることを認識し、再びボールを投げ落とします。僕は投げ返します。…という、ひたすらこの往復が続きました。続けるうちに振る舞いにどう変化があらわれるかな、とずっと観察していたのですが、よくわかりませんでした。
この遊びに限らず、総じて甥は自分がやっていることが自分でもあまり分かっていないようで、まあ考えていないのでしょうが、何を考えているのかが傍目に全然分からない不思議な子でした。
まあ、想像力は豊かなのだろうな、と勝手に思っています

一方の姪はプライドが高いお転婆に磨きがかかったようで、疲れるのは疲れますが、こっちが何もしなければ構ってもらいに来るのはやはり嬉しいですね。
そして叔父という立場は子どもを叱らなくてよいので、子どもの…何と言えばいいのか、「手間のかからない部分」だけを味わえる気がします
だから叔父の振るまいは子育てとは別物だと考えるのがよいのでしょう…というこれは当たり前かもしれませんが。

+*+*+*

さて、「井戸コアラ」の方で書いた前振りを引き継ぐのを忘れていたので、少し書きたいと思います。
とはいえ、「謎な文脈」とある通り、何が言いたいのか分かりませんが…
たぶん、これからどう生きていきたいか、という話なのだと思います。
重いテーマですが、気持ちは軽く書くつもりです。

「重い」の意味は、不用意な言葉を使うとその言葉に「言葉にする前の漠然とした思い」がひきずられるということです。
だから大きなテーマを扱う時はあまり単純化しない方がよくて、まあイコールではないのですが「少ない言葉で表現できる」はわりと簡単に「それは単純である」と結び付いてしまうものです。
なので、重いテーマについて書く時はいろいろ留保をつけるというか、そのテーマの何を書くのか(中身の全容ではもちろんなくて、さわりとか、これから考えて行くべき入り口の言葉だとか、そのことについて考える時にいつも念頭にある言葉だとか)をはっきりさせて書いた方がよいように思います。
そうした方が、「自分の言葉に裏切られる」ことがない。
自分の言葉に裏切られる経験はそのまま、自分の言葉に対する信用を落とすことに繋がります
それは、言葉を連ねながら思考する僕のような人間にとっては、やってはならないことです
なんか自分でプレッシャーをかけている気分ですが…


社会人として問題発言でもありますが、簡単にいえば「集団とはあまり関わりたくない」のです
会社に所属することがそのまま集団と関わることなので、生活の基盤のところで既に絶望的な話である、といえばそうですが、ここはやはり掘り下げて書かねばなりません。
今年の「ゆくくる」の前半で書いた「不問の前提」という言葉がありますが、「集団とはあまり関わりたくない」を言い換えると「集団に”どっぷり”所属することによる不問の前提を立てたくない」ということです。
これは、海外で独り暮らし始めた時の「今までの経験や経歴が問われないゼロの自分」の感覚と共通点があるかもしれません。
(この話は最近読了した『やがて哀しき外国語』(村上春樹)に書いてあったのですが、今手元に本がないので抜粋はできません。思い出せば「井戸コアラ」の方にまた、その時考えるであろう話と一緒にのせようと思います)
身分の力というのか、まあ大企業なら威張れるとか学歴による先入観とかそういう総じて人と接する時にかかるバイアスを指すのですが、これを認めないあるいはこれが機能しない場所で生きたいということではなくて(そんな状態はサラリーマンにはありえなくて、だいいち「同じ会社の社員同士」という仲間意識も立派なバイアスです)、これに対する自覚をずっと持っていたい、と思っています
この自覚がない方が、バイアスが当たり前に機能する場面ではことがスムーズに運ぶことは容易に想像できるというか当たり前にありますが、僕はその可能性(というか効率の追求)を捨てるよ、ということです。
この自覚による会社での仕事の非効率を背負うということで、これが非効率に留まらず自分の立場を危うくするような状況もし訪れれば、躊躇無く会社を去りたいと思っています。
その状況の具体的なところは僕自身の振るまいからいくつか想像はつくし、もし想像もつかない文脈からそのような状況が訪れたとして、それがどれほど理不尽であっても、その「理不尽な理」が集団の論理であれば、それに関わりたくないと思う僕は反論をすることもないでしょう。

そして、「その後のこと」はその後になってから考える余裕をもっていたいと思っています

+*+*+*

「何かを否定せずに書く」のはなかなか難しいもので、うまくやらないと何を言っているのか分からない文章になります。
でも、それを当然だと思う気持ちは単に文責の放棄になるというわけではなく、まあそういう風に聞こえかねないニヒリスティックな話なのですが(つまり「それを言えばおしまいよ(あるいは何でもそうじゃないか)」という)、分かりにくく書かないと伝わらないこともあるのです。
その「分かりにくく書かないと伝わらないこと」を言い換えると、それは「万人に分かる(ことを目指す)ようには書かれていない」。
そして「分かる人にしか分からない文章」というのは、きっと宛先のある文章は本来すべてそのはずなのですが、「読む人(の中身・思考・価値観…)を限定する文章」であって、そして一番大事なところでそれは「読み手の自覚が問われる文章」である

宛先のある手紙は「この手紙は特定のあなたに向けて私が書きました」と明示してあるので、その手紙の読み手はその明示内容を了承するだけで「読み手としての自覚」を獲得します。
そうではなくて、読み手にとって宛先が書かれていない文章を読み手が「これは自分に対して書かれたものだ」と自覚するためには、どうしても、その文章の中身と自分自身との間で何かしらの照合が行われなければならない


僕は文章がうまくなりたいとは思っていますが、「”うまい文章”とは具体的に何を指すのか」と言われれば、それは上記のような文章であって、それはとりもなおさず僕が今まで読んできた本の中で、著者が僕自身を知っているはずもないし特定の誰に向けて書かれた本なのかも分かるはずがないのに「この本は僕に向けて書かれたものだ」と思わせてくれた文章です。

この点で、僕の中で「文章を読むこと」と「文章を書くこと」が繋がっているのかもしれません。

+*+*+*

相変わらずとりとめがないですが、「ゆくくる」はこのあたりで〆としたいと思います。
今のところ平和な(仕事・私生活を含めた)生活が維持できていて、しかし僕の中にも、そして会社の方にも「状況ががらりと変わる可能性の核」があるのを僕は感じています。
その可能性の実現(「核」の成長)を望むでなく望まぬでもなく、まあ受け身的になるのでしょうが、どう状況が動いても自分を貫けるように、今年を過ごしていけたらと思います。

今年も、どうぞよろしく。
chee-choff
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by chee-choff | 2015-01-01 23:33 | 思考