深爪エリマキトカゲ
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◆ ゆくとしくるとし('14→'15)2
忘れていましたが、「ゆくくる」記事を書く間はずっと不始末さんのこの曲を聴いています。
毎年お世話になっています。
この時期にだけ聴こうと決めて数年経ち、もうすっかり、「この曲を聴けば気分は年末」が定着しました。

【初音ミクインスト】ちいさい音ダイアル

+*+*+*

今年は、一年が経つのがとても早かったように思います。
一年が、とても短調に、あるいは平和に過ぎていきました。
短調の意味は、一年を通してほぼ習慣通りのことをしていた、ということ。
その習慣は、自分で試行錯誤して組み立てたものです

平日は会社から帰ったら夕食を食べて読書して、ブログを書いたり書かなかったりして、シャワーを浴びて寝る。
土曜は朝か昼前に出てブックオフまで歩き、数時間立ち読みしてから「日高屋」でニラレバ炒め定食を食べ、ベローチェで本を読み、歩いて帰路のフードワン(というスーパー)で一週間分の食糧その他を買い込み、帰宅して夕食を食べ、マンガあるいは本を読み、たまにブログを書き、寝る。
日曜は一日中マンガあるいは本を読み、たまにブログを書き、合間に棒を振るかステップを踏むかをし、シャワーを浴びて寝る。
シャワーの前には天狗下駄を履いて剣を振り、ステップを踏み、あるいは丹田に意識を集中させて直立不動の姿勢を維持します。
大枠はこのようなものですが、この大枠も今年の間に少しずつ形を変えながらいつの間にか安定しました。
そして細かいところでは、変化が続いていたり、一定の変化を含めての習慣に定着させたりしています。

たとえば、朝食のグラノーラにトッピングするジャムときな粉の種類は、ひとつを使い切る周期が長いので銘柄をいろいろ変えていて、まだ一種類に定着はしていない。
これはウィスキーも同じです(ウィスキーは読書時の「気付け薬」として毎晩ちびちび飲みますが、2,3月に一本ペースです)。
また、土日の夕食は何かしら肉を食べるという習慣については、「2日で使い切るパック肉」という縛りで土曜の買い物時にいろいろ選んでいました(味のついた牛肉、ラム肉、なにかのステーキ、カツレツ風味のなにか、鶏のつみれ等々)が、これは「カツレツ風カレー風味の鶏肉」にほぼ定着しました。
一方の平日の夕食は「肉と魚を交互に食べる」というルールを設けて、それに沿って買い物をするのですが、買い物が週に一度なのでこちらは日持ちするものが選ばれることになり、肉は(昔はウィンナーも買っていたのですが)個包装で3つ入りの「チーズ入りハンバーグ」が定着し、魚はいわし等の煮付けかなにかの干物かじゃこあたりをぐるぐるしています。

これらの習慣は、明確な効果を期待して決めたわけではありません。
習慣をつくろうとしたときに、その場の勢いや偶然起こった出来事(たとえば「その食べ物をスーパーで眺めていて何かが閃いた(連想された)」など)によって始められたものです。
そしてその偶然性(偶然というぐらいだから中身ではなく、その形式として)は僕自身が意図したもので、偶然が偶然のまま活かされるのはその内容には因らない、という経験を身体に刻み込むという目的をもっていました

もちろん、内容を全く意識しない選択はありえないのですが、それでも何かしら長期的に未知な方向性を含んだままで選択をするので、失敗はありえます。
僕自身はこの失敗の経験はあって、それは一昨年のある時期に一日二食(朝・晩)で晩にたらふく食う生活が肝機能の低下をもたらした(健康診断で「なんたらGPT(GBT?)」の数値が高く出て備考欄に注意書きがなされた)というものです。
これは食生活だけが悪かったわけでもないですが(去年の暮れに異動する前の部署ではけっこう苦労した)、自分で考えて設定した食習慣には違いなくて、そしてそれは1年か2年か続けてみて自分には合わなかったという結果が当時の身体的不調にも出ていて(その頃は自覚はなし)、それを健康診断の結果で裏付けられたのでした。
これは、今思えばですが、よい経験だったと思っています。
「自分で変な習慣をつくらなければよかった」とは思わなくて、自分で決めたことが引き起こした結果なのだから引き受けるしかなかった、と思います

この失敗があったから、去年の暮れから始めた生活習慣(主に食習慣)の改善が今度はマシな方向に進んだ(現時点では、ですが特筆するほどの不調はありません)ともいえますが、「よい経験」という意味の第一はこれではありません。
その第一とは、結果がどうあれ、「自分が決めたことの結果を自分の身に引き受ける」という経験ができたことにあります

生活習慣と健康の関係について考える時にいつも思い起こすのが、日光浴の話です。
何年も前に読んだ本で出典が思い出せませんが、その本によれば、昔の日本(戦後すぐくらい?)では日焼けは健康の証として推奨され、学校でも「健康優良児コンテスト」みたいなものでいつもこんがり焼けた子どもが選ばれていたらしい。
そういえば一昔前(これはそんな前ではなくて、たぶん80~90年代でしょうか?)の飲み屋に貼られたアイドルの水着のポスターなんかが真っ黒に日焼けした人(そして片手にはビールジョッキ)だったりするのも「日焼け=健康」志向のあらわれのような気がします。
日焼けサロンが流行った時代もあるようですが、それらは単なる流行として認識されていますが、今は日光の浴び過ぎは皮膚に良くないというのが常識になっています。
オゾン層が薄くなったとかはよく分かりませんが、これは昔は健康だと思われていた習慣が実は(やり過ぎは)体に毒だった、という話の一例になるかと思います。
(ここまで書いてうっすら記憶が…西部邁の自伝か何かに書いてあったかもしれません。『サンチョ・キホーテの旅』かな…?)
科学が進歩する以上はそんなことは(スパンは長いですが)日常的にあるはずで、このようなある選択がある結果をもたらすまでにとても長い時間がかかることに対しては誰かに責任をとってもらうことができない。
できなければ、その結果はもう自分の身が引き受けるしかないわけです。
僕はこの日光浴の話を読んだ時にこのようなことを考えて、「その結果を”自分の身に降りかかった不幸(災厄)”と考えて後々まで引きずるのはイヤだな」と思いました。
つまり、自分の身に起きたことはちゃんと自分のこととして引き受けられるようにしたい、と思ったのです。
これは自分が選択した行動についてだけではなく、誰かから強制されたのだとしても同じことです

強制される、という言い方はある限定状況の中で成立するもので、それはどんな状況であっても「強制の外」に出てしまえば強制でなくなるということです。
所属する会社が社則で社員を厳しく律する場合は、社則という強制はその社員が社員である限りにおいてしか機能しません。
たとえば家族を養う社員がその会社に所属することを「不問の前提」とすることはよくありますが、彼にとってはその前提を問おうと思わない限りは社則が絶対的な強制になるわけです
強制されることは平時にはむしろ推進力となるので、「不問の前提」は社員が余計な疑問を持たずに会社のために働き、また会社員としての自分と家族の一員としての自分を安定的に両立させることができます。
僕は、いや今の僕はということですが、この「不問の前提」を立てる気はありません。

話が変な方向に逸れました。
僕が習慣を自分で作るのは上でも書きましたが、少し言い方を変えれば「どんな習慣でも自分なりの文脈を見出して引き受けられるようにする」ためかもしれません。
受け身の人間がその特性を活かすための一つの方策です

もちろん僕の「受け身」は、「受ける前に逃げる」ことも選択肢に含まれます。
何にせよ、降りかかる出来事に対する意識以前の初動があり(それは(瞬時に思い至らないほどの)長期的には知りませんが、短期的には身体の望むところではあるはずです)、その初動を意味付けできる知的体力は身につけて(あるいは維持して)おきたい思いはあります
この「意味付け」は決して肯定には限られません。

晩ご飯食べます。 
今外は雨のようですが、今年ははちまんさん登れるかなぁ… 18:53

+*+*+*

紅白見ていてふと思ったんですが、今のJ-POP(特に若い女性グループの)はほとんどK-POPのノリなんじゃないかと。
歌も化粧も。
で、K-POPというのは現代的な和洋折衷(顔はアジアでスタイルは欧米、という)なのかな、と。
折衷できているかは知りませんけど。
あと、細々とした感想を…
・水樹奈々とTMRの組み合わせは去年も見たような
・郷ひろみはもう声出てないですね。舞台を恥ずかしがったらどうしようもない
・徳永英明は声が太くなったような…声変わり?(笑)

ああそういえば、これは橋本治が広告時評の連載(つまり『ああでもなくこうでもなく』シリーズ)で書いていたことですが、テレビが楽屋オチに手を出し始めたらもうプロではない、ということはたとえば「失笑なしに紅白を見れない」ところに現れるのだなと思いました。
舞台裏がちらりと見えて微笑ましいのは学芸会までで、テレビのそれは最初だけ「これはそうなってたか」という仕掛けに対する驚きやら意外性が楽しめるものの飽きてしまうともう正気では眺めていられない代物になる。
さっきの話ではないですが、「テレビは茶の間(リビング)で家族で(あるいは一人で)食事中に見るもの」みたいなのが不問の前提になっていると、正気でいるという選択肢がなくなります。
狂気は時々には必要でしょうが、「常に狂っている」のは、まあそれが正常になるしかないという意味で狂気の沙汰ですよね。
縮小していく社会の中で経済成長を目指すというのも「バブルの再来を望む狂気」なのかなと思いますが、これは別の話ですね。


さて、話を戻しますが…どこに戻ればいいかは不明ですね。
雨は止んだようなので石清水八幡宮には今年もなんとか登れそうです(寒さからして降るなら雪だと思うんですけどね)。
さて。

今年はあまり書くことがないような気がします。
これは生活が落ち着いたことと関係していて、僕は昔から昇華で成果を出すタイプなのです。
どういうことかといえば、ちょっと前に別のブログで引用した保坂和志氏のエッセイに「僕は軋轢を墓碑銘としよう」というタイトルの一節があります
そのエッセイでは保坂氏が小説家になる経緯のようなものが少し書かれていて、詳細はちょっと忘れましたが(出典は『魚は海の中で眠れるが、鳥は空の中では眠れない』…ちょっとタイトル違うかもですが、こんな感じの本です)、自分に降りかかってきた数々の軋轢が今の小説家の(あるいは思考の)スタイルを形作った、という話がありました。
これを読んだ時に「僕も同感だなー」と思ったのは、僕が身を捨てて(と書くとオーバですが、つまり自分のことを考えずに)何かに取り組む時はいつも、「乗り越えるべき壁がある時」だったからです
受験勉強が典型的にそうですし、文化祭の時の文化委員だって、音楽フェスの実行委員長だって状況でいえば同じです。
役割が与えられて、厳格な使命と多少の手段の自由が与えられて、僕自身にそれらを与えた主体は(僕自身の力では如何ともし難い)「権威」のようなものです。
受験勉強については実は自分自身の問題であって、自分の考え(たとえば将来像)次第で手を抜くことも止めることもできたはずですが、たぶん「受験戦争」という表現そのままに(自分のためではなく権威のために)一兵卒として闘っていたのでしょう

本当に自分だけのためにあんなに頑張れるはずがない、と今の僕なら思います。
睡眠時間を削って栄養ドリンクやビタミン剤で身体を「駆動」させていたわけですから。
受験勉強というのは、マジメにやればやるほど、中学生(あるいは高校生)の「自然な(成長の?)方向性」をねじ曲げる作用があると思います。
その意味では、勝利した者は変わってしまった自分に泣き、敗北した者はその敗北に泣く、「誰も得をしない勝負」でもある。
唯一の勝利者は「勝負に勝ち、なおかつ自分が変わったことに気付かない者」で、彼はそのことに気付くか、どこかで負けるまで「終わらない受験戦争」を闘い続ける、という…
図式化してもしょうがないですね。

話を戻しまして。
つまり、僕は(自分でいうのもなんですが)「おお!」と感心するようなことをたまにポンと書くことがあって、それはいつかといえば「会社や生活で苦労があった時」なのですね。
異常時にハイな状態で書いた文章を平時に読めば自分でも他人事のように読めるし、「ホントに自分が書いたのか?」とすら思うこともある。
そんなことができるのはきっと「昇華症」(また命名してしまいましたが、前に書いた「ついで症」と似たところがあります)だからで、ある意味貧乏性の応用なのですが、「転んでもタダでは起きない」ですね。
というか、より正確には「転んだらタダでは起きない」でしょうか

転んだらその後の展開も合わせた収支は必ずプラスになるが、転ばなければマイナスがないかわりにプラスもないという。
しかしこれは自分から打算的に転ぶと転びっ放しになったりもするので、利便性は薄いというかコンビニエンスに欠けるというか。
まあこういう性質の人間は「思い通りにいかないこと」をすんなり受け入れられたりもするのですが、そうすると「思い通りにいくのが当たり前」の社会(例えば会社でやる仕事なんてのは予定通りにやるのが普通なわけです)の中では浮いてしまうことになる。
その性質を自覚し続ける限り、社会の中で浮き続ける。
あるいは沈み続ける

話が別の所にいきますが、「まわりから浮く」が悪目立ちの表現として使われますが、川や海のメタファで「浮きも沈みもしない」のはどういう状況なんだろうとふと思いました。
「出る杭は打たれる」とも言いますが、「出ない杭」というのは「既に打たれて頭が地面に埋まっている杭」ということで、まあモグラでもなければ息苦しくてかなわないですよね。
地位や順位の変動が頻繁なことを「浮き沈みが激しい」と言った気がしますが、これはやはり水に浮かんでいるもののメタファのはずで、(浮かんでいる媒体の水に)「波がある」と一緒です。
そうか、浮き沈みがしない状態というのは波がない状態であって…あれ、でもやっぱり通常状態が「浮いている」ことになりませんかね?
まあきっと、「水に浮かんでいることが不安定」という考え方ではなくて、「水に浮かぶのは当たり前だが、(波があったりして)上下にぐらぐら揺れるのはみっともない」という考え方なのでしょうね。
しかし位置が安定しているとはいえ、なぜ水に浮いた状態をデフォルトと考えるのか…少しでも潜っていれば息はできないし、顔を水面から出して口や鼻でスーハーやるのも何だか品がない。
…もしかしてメタファの元は忍者なのでは。
あの「水遁(すいとん)の術」ってあるじゃないですか。
あれは隠れてるわけで、「窓際社員」的な…。

話を戻しまして。
つまり、生活が平穏無事だと僕の指も鈍るというわけですね。
それはありがたいことでもあって、そしてなんだかつまらないことでもある。
「物事にはなべて表と裏がある」を地で行く、ということでしょうか。
まあそんな時はあまり自分のことを考えずに本をひたすら読めばいいのだと思います

あはは、なんか今年の分、終わっちゃいそうですね。 22:13

+*+*+*

空が見えていて雨は降らなそうですが、風が強い…そして寒い。
まあ、登りますよ、雨じゃなければ(雪でも登ります)。
というわけで、今から準備です。
今年は年が変わるまでに門につけるかも…
あ、でも「和歩」で歩くようになってからスピードは落ちたからなんともいえんな。
(和歩はまあ自主開発の「ナンバ歩き」みたいなものです)

というわけで(どういうわけで?)、皆様よいお年を。 23:07
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by chee-choff | 2014-12-31 18:54 | 思考