深爪エリマキトカゲ
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◆ ゆくとしくるとし('14→'15)1
スタートが少し遅くなりましたが、今年も「ゆくくる」を書きます。
まずは年の暮れの話を少し…

会社の長期休暇は、いつもちょっとした事情で期間がずれることがあります。
今年は工場のラインの立ち下げ・立ち上げ予定の都合上、29日が年末最終出社日となりました。
日程がそんなぎりぎりなので、飛行機で実家に帰る人などは29日に有給をとって26日から休みにする人も多かったらしい。
きっとその影響で、納会の参加者がいつもより少ない気がしました。
それはそれだけで、他に変わったことはありませんでしたが…

僕は29日もちゃんと出て大掃除にも参加しました。
掃除時間が2時間もあって、しかし今年は事務室や会議室の掃除なので共有場所はすぐ終わり、自分の机まわりの掃除をずっとしていました。
知財に来て仕事が完全にデスクワークになったので、仕事で使った紙の整理が大変でした。
僕はディスプレイを長時間凝視する目の体力がないので、自分が文章を書く時以外はたいてい印刷して紙媒体で読みます。
その印刷した書類が、一年で3~4センチはあったでしょうか。
とっておく分といらない分をより分けてシュレッダーにかけるだけでけっこう時間がかかりました。
これがオフィスワーカか…という感じでした。

そういえば知財に異動した時から目の具合がぎりぎりで、ディスプレイが見れないとなれば仕事にならないのでどうなることかと心配したのですが、1年経ってみればなんとかやってこれたようです。
ぎりぎりでつらいと思っていた期間がある程度続けば、それが通常になってしまう、ということかもしれません。
肩こり(肩よりは首にきてますが)も悪化はどこかの段階で踏みとどまって、こりの感覚はとれませんが「このままでもしばらくは大丈夫かな」というくらいに安定してはいます。
この点は、こりの自覚が全く無くなればよいとは思っていなくて、何度も書いていますが、オフィスワーカの宿命てあり引き受けざるを得ない症状である一方で、自覚がなくなることは麻痺でしかないからです。
「麻痺してこそ一人前」というのが(この表現では語られませんが)常識でしょうが、その意味でなら僕は一人前になりたくはない
人は身体を動かしたくなるのが自然で、動かせば身体感覚は鋭敏になるし、動かして疲れた後の睡眠は純粋に回復として機能する。
脳と身体のバランスという時に、身体側で維持すべき最低限のウェイトはそこではないかと思います。
だから、身体を使っていなくて全身がだるい、あるいは局所的に使うことでこりや痛みがあるというのは僕は「引き受けるべき不調」だと認識しています

体調の話で思い出したのですが、風邪などの体調不良の「発症から回復までの過程」が、昔と比べて曖昧になったという感覚があります。
たとえば子どもであれば、風邪を引けばとたんに熱が上がり動けなくなって寝込むが、一晩寝ればあらスッキリ、といったように状況の切り替わりが早いしシンプルです。
僕の今の感覚は最近自覚したというわけでもないですが、たぶん社会人になって何年か経った後のことで、それは「いつの間にか風邪を引いた」「いつの間にか風邪が治った」と自覚が遅れてやってくる感じで、そして症状が軽いのか寝込むほどではなく(会社を休むほどでもなく、じっとしているより仕事をした方が治りが早いとすら思う)、症状の移り変わりも境目がなくゆっくりしていて、治った時の爽快感も特にない。
ただ、治った時には「なんとなく身体の全体が好調かなあ」と思うこともある。
まあ年相応の変化だとは思います。

もう少し体調の話を書こうと思いますが、昼食のようなので一旦中断。 13:12

+*+*+*

さっきは何を書こうとしたのか…
体調の話はまた思い出したら書くとして、思い出そうとして出てきた別の話を書きます。

たぶん「ミラーニューロン」の話です。
事務室の自分の席のそばにはよく喋る先輩がいるのですが、まあ本当によく喋るのですが、仕事が追いつめられていたり眠かったりすると静かな時もあります。
それで僕はその喋りに参加する気は全くないのですが、そして僕は外乱に弱いので僕自身の仕事効率も落ちるのですが(これはもう「そういうものだ」と思っています。その中身も考えてはいるのでまた後で書ければ…)、なんというのか、その人の喋りが耳に入ってくると、「お喋りをしたい」という僕自身の欲求が低下するようです

あまりにも静かな事務室でずっと仕事をしていると喋りたくなることはあります。
これは気詰まりというか、人はずっと黙っているよりは時には喋る方が自然だから(と書きながら自分には当てはまらないのではと思っていますが)と思います。
一方で、そばでなされる会話に自分との関連があったり混ざれそうな雰囲気があれば、これもまた喋りたくなるものだと思います。
また、そばでなされる会話が自分と全然関係のないものであっても、それが聞こえるうちに「自分も喋りたいなあ」と思えてきて、何かきっかけがあれば別の場所で知り合いと話に花が咲く、というこれは昔はそう思っていた気がするという話です。

僕が感じたのはこの3つの状況のどれとも違うなあというもので、もしかすると会話が耳に入るだけで僕自身も会話しているような感覚を得るのかなあとその場で想像したことがあるのですが、別の解釈もあって、ひどい話なんですがそばで聴いている会話があまりにつまらないと「会話ってのはつまらんなあ」と思ってしまい意欲が削がれる、ということかもしれません。(この文の前者がミラーニューロン的解釈ですね)
その「つまらない」の対象はこれを読んで最初に思われるような「会話の内容」ではなくて、むしろ形式というか機能の方です。
会話の内容がどれほどつまらなくても、複数の人が会話することの機能はちゃんと発揮されます。
たしか「交話的コミュニケーション」という言い方だった気がしますが、「こんにちは」「やあ、こんにちは」といった挨拶には内容もへったくれもなくて、でも挨拶すれば元気になります。
ただ、では挨拶すればなんでもいいのかと言われればそんなことはなくて、逆に気を滅入らせるような挨拶もあるわけで、たとえばこのような挨拶を僕は「つまらない」と思っています。
挨拶にしろ会話にしろ相手がいて始めて成り立つもので、そして会話はそうなんですが情報交換以前に「相手のことを見ている」ことが全てのコミュニケーションに本来は含まれています
「相手のことを見ないコミュニケーション」もそれはそれで「僕は君のことなんてはなにもかけない」といったニュアンスを相手に伝える意味で一つ繰り上がったコミュニケーション(メタ・コミュニケーション)になるのですが、これはそばで見ていてあまり気持ちの良いやりとりではありません。
るいは「お互いが独り言のように喋る」ような形式もあって、自分が知っている内容だけ、あるいは気が向いた時にだけ返事をするような言葉のやりとりは、それがお互いでその形式(でコミュニケーションを行うこと)を了承しているのだとしても、やはり第三者からすれば気味の悪いものに見える
そういう分析をしておかないと自分も染まってしまう、という危うさがあり、そばでその会話を聴いていて何も感じなくなるのはそれで仕事の効率が上がったとしても断固望むところではない、と思っている
だからあまりこの解釈に固着していてもよくなくて、要は今の状況に落ち着きたくないということですが…
あ、でもこの話はひとつの具体例の中の話であって、全体としては今の仕事と生活はとても落ち着いています。

いつの間にか話が重くなっていますが、この「全体として」の方を少し掘り下げたいですね。
小休止です。 15:37

+*+*+*

話ががらりと変わるようで実は続きなんですが、僕はほぼ毎晩夢を見ます。
夢の内容自体は様々で、内容にはここでは触れません、というか再現できるほど記憶に残ってもいないのですが、でも「沢山見たなあ」という経験の記憶は残っています。
夢を見る時と見ない時の違いは自分ではある程度分かっていて、たぶんその日に読む本に因っています。
そしてそれは本の内容というよりは「本の内容の様々さ」に因るのだと思います

夢を見る仕組みについて解釈はいろいろあるようですが、僕がなるほどなあと思うその一つは、「その日に起こった出来事を整理する」というものです
その日一日が整合的に、あるいは思った通りに過ぎたとすれば、夢を見ることはあまりない。
逆に、一日で色んなことが起こったり、予想もしなかったことが起こったり、出来事の間につながりが見出しにくい複数の出来事が起こったりすると、それらの文脈をつけるために夢を見ることがある。
単純に対比させればこのようになりますが、だからといってその日に起こった出来事に関する夢をその夜に見るわけではない。
寝入る前に考えていたことや想像した人が夢に出てきたこともありますが(これもその経験だけで、いまいち中身の方は記憶にない)、割合でいえばほとんどありません。
今は関わることがほとんど(全く)ないかつての知人が出てくる割合が多いようでもあるし、現に今関わりのある人(ほぼ会社の人しかいませんが)が夢に出てくることもある。
夢の内容自体に意味を持たせることはもう不可能と考えた方がよくて(何しろ覚えていないのだから…いや、朝起きた時に書き留めれば残すことも可能ですが、これはたぶん社会人である間はやらないと思います。なんとなく)、「なんだかよくわからんが夢を見ることで頭の中を整理しようとしている」という機能効果を最初に認めてそこから考えていく方が面白いような気がします。
一人でいる時に起こるのですが、考え事ではなくて、炊事や体操など、部屋で何かをしている時にふと昔の記憶の断片が一瞬だけ頭に浮かんでくることがよくあります
これが自分の見る夢と関係していないはずはなくて(確信)、でもやっぱりその内容を分析しようとは(今のところ)思っていなくて、むしろそういうことが起こるのはなぜかと考えていると、「過去の経験は(記憶がその明示的な一形態として)常に現在に繰り込まれている」ことの実感に繋がります
これは、「後悔するかどうかはその過去の出来事(行動)の内容よりは現在の状況にかかっている」という言い方もできます。
昔の自分の失態あるいは偉業が、後にその自己評価を変えることがあるのは当然で、それは「思い出すごとに変わる」と言っていい。
偉業を偉業のままで留めたいのはそう思う現在の自分の希望であって、それはとりもなおさず固着であり(自分のある一面の)変化の否定でもあります。
そうしないと切り抜けられない現在の状況がある場合もあるし、あるいはその変化の否定の姿勢によって周りの状況から取り残されてしまうこともある。
例えばそのどちらがいいか、というのは現在の自分が選ぶしかないわけです。
そして、自分が何か大きなことをしようとしている時に、「この経験が将来に苦難を前に切り抜ける力となってくれる」という思い(端的に「打算」ですねこれは)をもってするとすれば、それは「大きなこと」をやる前から結果に対する評価を決めてしまっている、ということになります(もちろんやってみてからそれが覆されることも大いにあります)。
僕が大学3回性の時に大阪から北海道(宗谷岬)までチャリ旅行をしていた間のモチベーションはまさにここにありました。
この意味では、チャリ旅の道中でもっと「今現在の経験」に目を向けていればよかったのかな、と正直に思います。
が、そういう「打算先行の経験」をひとつしてみて(当時はもちろんそんな意識はかけらもありませんでした)、それがもたらしたものも振り返ることができれば、最初は「偉業」と思っていたものが(機会を十分に生かせなかったという)「失敗」になり、その身に染みた失敗が次の成功を呼び込むかもしれない「良い経験」になる、という風にまあ意味付けがどんどん変わるわけです。

自分の中であれは良い、これは悪いという価値観は、確かにあります。
人に押しつけるほどのものでなくとも、行動の選択が考える以前になされる時には、その価値観が無意識に反映されるわけです。
それを「なぜ自分はこれを良い(悪い)と思うのか」と客観的な分析ができることは、ひとつ、自分が落ち着いている状態と考えることができる。
自分に余裕がなければ、自分が良いと思うもの(価値観)に対して「実は全然良いものではなかった」といった認識を呼び込むような思考に手を出すことはないからです

その意味で、今の自分は落ち着いていると言ってもいい。
いや、ここはそんなに掘り下げたい話ではないのですが…

あ、途中で見失った書きたいことを思い出しました。
毎日本を何冊か併読していて、これはいつの間にか整った時間割に則って進められています(一日の時間割としては、平日に2通りと、土曜と日曜とで計4通りですね)。
ある程度は会社生活を意識した本の選択になっています(たとえばSFは週末に読む、とか)が、それでも一日に読む3~5,6冊(もちろん「読み終える」ではありません。遅読なのでちびちびです)の間に単純な統一性はありません。
会社で起こったことよりは恐らく読んだ本の散漫さによって夢を見ていると上でも書きましたが、このことは読んだ本の話が自分の中である居場所をもったことを意味しています
その居場所というのが、自分が自由に出し入れして利用・活用できる情報ボックスではなく、何に使うのかよくわからんのでとりあえず放り込む「合い切り袋」なのです。
(「一切合切」という言い方をしますが、「合い切り」はたぶんこれの部分と同じ意味で、「ごちゃっと(混沌と)している」のですね)
「ムダな知識を詰め込む」というニュアンスではなくて、この表現はたぶん知識に一定の形を与えているはずで、そうではなく「合い切り袋に放り込まれるもの」は形をなす前のものです
(この文脈に従えば、頭の中における「形」というのはつまり決まった意味とか、ある基準に従って下された評価とか、と考えていい)
僕は併読する本の内容同士やそれらと自分の経験とが思いもしなかった形でリンクすることに非常に喜びを見出す人間なのですが、「合い切り袋に放り込まれたもの」はすべて、その喜びの可能性を秘めた断片でもあるわけです
こう考えると非常にロマンチックな話にも聴こえるし(僕だけ?)、あるいは「なにムダなことしてんだか」という話でもありますが、まあ大事なことといえば、両者はイコールだという点ですね。
何にせよ「自覚は暴走を抑制する」ものですが、この自覚もご多分に漏れず、ですね。


さて、「この一年を振り返る」という話になるかは分かりませんが、こんな感じでしばらくつらつら書いてみようと思います。

下の写真は実家にあった「フクロウ君ライトスタンド」です。
電池式で、頭を押せば身体全体が光ります。
光っても表情を変えないところがいいですね。
あたりまえですけど。

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by chee-choff | 2014-12-31 13:12 | 思考