深爪エリマキトカゲ
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◆ ゆくとしくるとし('13→'14)3
昨日の話。

石清水八幡宮までの往復の間、ほとんど何も考えていなかった。
歩きながらずっと「鷹取の手」を試していた。

鷹取の手とは、タカが獲物を掴む時のように五本の指を内側に曲げた状態のもので、甲野善紀の体術動画を見て知った。
うろ覚えな説明によると、親指と小指を手のひら側に曲げると残りの3本は自然状態では開いてしまうのだけど、そこをその3本も内側に折り込むことで手のひらに葛藤が発生し、手のひらだけでなく腕全体が動員される、とか、両手ともそれをやって立っていると重心が下がるとかするらしい。
(爆笑問題と一緒に出ていた番組の動画では、緊張した時に鷹取の手をやると気を落ち着けることができると言っていた)
手のひらのもともと窪んでいる所をもっと窪ませるようにするといいとも言っていたか。
普通のグーの状態と違う点は指が手のひらに握り込まれるのではないこと。
それとたぶん、グーというのは折り込まれ方が親指と残り4本の2方向しかないけれど、鷹取の手は各々の指が手のひらの中心に向かって折り畳まれるイメージで、動画での甲野先生の鷹取の手を見た時に印象に残ったのは人差し指と小指がほぼ垂直になっていた点(グーなら両者はほぼ平行だ)で、これは最初はけっこう難しい。

で、歩きながら鷹取の手をやったりやらなかったりしていたのだけど、鷹取の手をしながら腕を振って歩くと体の左右のふらつきがなくなったように感じた。
歩行において左右に揺れる動きは進行に関係ないので無駄であり、鷹取の手によって歩行時に使う身体の部分が広がったためにふらつきがなくなった、のだろうか。
特に調べたわけではないので想像だけど。
あとは暗闇で歩いていても落ち着いていられたような気もする。
今年は少し雨も降ったくらいに雲が多く山道は暗かったのだった。
あとちょっとだけいつもと違う道を歩いたのだけど、(以下ローカルな話)レクセン側から登っていって八幡宮の最初の駐車場の奥に、入り口に白熱球がぶら下がっているけれどその向こうは真っ暗になっている道があって、お参りの帰りにふらりとその道に入ってしまったのだけど(自分の前に大声で喋る若者の集団がいたので自然と足が逸れてしまった)、そこが、多分白熱球の明かりで瞳孔が一旦開いたからなのもあるけど本当に真っ暗というか真っ黒で、まあよくそんな所を…と思うことなく進む僕の両手は鷹取だったというだけの話です。
家を出てから帰るまでずっと試していたので2時間くらいやったのだけど、最後まで手のひら全体が強ばっている感じが抜けなくて、上で葛藤と書いたのはこの強ばりのことなのかあるいは慣れると力むことなくできるようになるのかは分からない。
しかし効果が明らかにあるように感じたので(目を瞑って歩いた時も鷹取の方がまっすぐ歩けた気がした)、今後は普段の散歩(というか手ぶらで歩くときはいつも)に取り入れよう。

ゆくくる2で「修行」と書いていたのはこのことで、そしてやっている間はほとんど何も考えていなかったというのも本当で、すると身体に意識を集中させている時にも頭は空っぽになれるということで、武道をやるということは前記事で書いた「自然状態になること」と繋がっている気がする。
…この点はスポーツも同じか。
体を動かさないとこんな当たり前なことを忘れてしまうのね。

+*+*+*

今日もたんと時間があったはずなのに、まず起きたのが昼で、午後は増田聡氏(内田樹氏のブログで知った。ツイッターでの名言率が凄い人。何者なんでしょ)の再掲ツイート祭に参加(というか勝手にリツイートしまくってるだけです)し、夕食を食べたかと思えば宮部みゆき原作ドラマと相棒を見てしまい気が付けば日が変わっていた。
まあ、これが実家での時間の流れ方なんでしょうね。
生産性から遠く離れることが正しい。
それでいいんです。
いいんですけど、過ごすうちに書かねばならぬトピックがむくむく立ち上がってきたのでちょっと頑張ることにした。

今年の抱負なのだけど、それにとどまらず自分の(書物における)興味の発祥に触れる話でもあって、これを文章化することは自分にとってとても大きなことではないかという予感がある。
どういう書き方になるかは書いてみないと分からないので思うまま書いてみる。
まあ最初からそうなんですけど。


まず、自分は「反知性主義」と闘わねばならない。
そう思った理由は実は、その主義を信条とした(なんて自覚は勿論本人にはない)個人との長期にわたるやりとりの蓄積にあり、その蓄積が開始されたのは僕が内田氏著作として初めて出会った『下流志向』を読んでショックを受けたより以前にあったのだった。
『下流志向』を読んだショックとは「このような知性のあり方があるのか!」という驚きのことだとずっと思っていたけれど、実はその内田氏的知性によって展開された内容の一部に僕にとって身に沁みる切実さがあったことの方が大きかった。
そして、そうと知らないまま、僕はどんどん本を読むようになった。
単に内田氏の知性に感動したのなら内田本ばかりを読んでいたはずだが、そうはならなかった。
なぜならば、内田本によって僕はある種の知性に目覚めたのであり、つまりそれ以前の僕に知性なんてものはなかった。
なかったというよりは、知性が身体化(という表現でいいのか分からないが)されていなかった。
もっと言えば、以前の僕には身体の奥深くに反知性主義が埋め込まれていた。
なんということだろう。

ある振る舞いを自分がいいと思うか悪いと思うかに関係なく、その振る舞いを続けていると身体化する。
そして、自分自身がその振る舞いを行うだけでなく、自分のそばにいる人間がその振る舞いを行っていて、そして自分はそのそばにいる人間の振る舞いを良しとしなくとも、その振る舞いは自分の中で身体化してしまう。
だから反面教師の対象になるのは、その「教師」だけでなく、教師のそばにずっとおり、ある振る舞いを受け継いでしまった「自分」でもある。
身体化された自分の一部分を嫌うというのは、論理によってその正当性(論理的に正しい、に限らず実際に有効であるとか、あらゆる意味での正当性)が示され自分もそれに十分納得できたとしても、非常に苦しく、その一部分を矯正することには非常な困難が伴う。
僕はそれと知らず、それをやっていた。
何を隠そう、それに気付いたのが帰省した今であり、今思えばそれはそうでしかありえなかった展開であり、そしてこれはとてつもなく根の深い問題なのである。

今日はここまで。
うーん、思いのほか重いなあ…。 24:52


昨日の続き。

僕は、人が自然に振る舞えば、言っている内容が理解できなくとも気持ち(自分は相手のことをどう思っているか、というような)は伝わるものだと思っている。
相手に好意を持っているか、またはできれば避けたいと思っているか、という印象は、いくら話す内容で取り繕おうとも自然と目線や身振りで相手に伝わってしまうものだと。
それは、言葉では嘘はつけても身体では嘘がつけないからだ。
けれど、話はそう単純ではない。
本当の嘘つき、見破るのがとても難しい嘘つきというのは、自分がつく嘘を自分の中で本当にしてしまっているものだ。
自分が喋る嘘が本当だと思っていれば、それを人に話すことに後ろめたさなんて生じないし、みんなが知るにはいいことだと思えば笑顔で流暢に話すことも可能だろう。
玄人の詐欺師であれば、そのように振る舞えるように自ら訓練するだろう。
しかし、意図せずしてそうなってしまう人もいる。
僕が言おうとしているのは、平気で嘘をつく人ではなく(ある意味これより上位概念にあたるのだが)、自分の喋る言葉とそれに伴う身振りが乖離している人のことだ。

人はある集団の中で育てば、その集団の慣習を獲得する。
言語や習慣や、みんなが行動を共にする時やコミュニケーションをする時に行う身振りなど。
「喋る時は相手に『自分に話し掛けている』と分かるように話し掛ける(相手の目を見る、など)」
「相手がなにかに集中している時は慎重に話し掛ける」
例えば身振りとはこのようなものだ。
集団に属する個人はふつう、意識せずともこのようなルールを身体で覚える。
しかし、小さい頃から偏った育てられ方をしたり、支障無く成長したとしても歳をとってから強烈な外的因子があった場合、身振りが身体化されなかったり、あるいは解除されたりする。
「身体性が希薄になっている」という問題は現代社会で日常的に見られており、今の若者にとっては前者(身体性が身につかなかった(なんかトートロジーっぽいな))、子どもや孫を持つ世代にとっては後者(身体性が失われてしまった)に当てはまる。
原因のひとつはテクノロジーの進化、生活から苦痛を取り除き快楽を追求し続けてきた結果にあるだろうけど、今話そうとしているのは問題の「解決」ではなく、その前段階である「把握」である。
例えばの話、自分から進んでバカになろうとして、その努力が実りバカになりきった人間は自分をバカだと認識することができない。
知性にも身体性にも当てはまると思うけれど、感覚を鈍らせるような変化に対して主体は自覚することができない。
主体的であろうとする限りにおいて。

…話を戻すと、身体性が希薄になっているという問題は根が深くて、それは度が進むと「希薄なる身体性」という人間特有の別の安定状態に達するのだ。
人間特有と言ったのは、意識を持たない動物は身体性が希薄になるなんてことはなくて(それはまっすぐに個体の死を意味する)、しかし人間も動物なのだから、例えばテクノロジーが未開の地で身体性が損なわれた人間もすぐに死んでしまう。
だから、身体性の喪失も生存環境への適応の一形態で、人工物に囲まれた都市の人間の生活は森や海における動物の生活ど同列に自然と呼ぶことはできないが、地球上に生を受けた生物が(その生物にとって)予め形成されていた秩序環境に適応するという「生の在り方」としてはどちらも同じ自然である。

…また話を戻すと、僕が書きたいと思っているのは「希薄なる身体性という安定状態」とどう対峙していくか、ということだろうか。
ここで前出の増田氏の印象深いツイートを連想したので抜粋してみる。 12:49

>>
増田聡 ‏@smasuda 12月23日
【再掲】「自分にとって不快なことを常時ゆうてくれる人をどれだけ丁寧に扱うことができるか」はいきのびる上では結構キモやとおもてるねんけど同意してくれる人は少ないというか皆無
増田聡 ‏@smasuda 12月23日
【再掲】あと「丁寧に扱う」と「無力化する」と「否定する」の使い分けもいきのびる上では結構キモよな。そういうことを教えてるつもりやねんけどな…(主に呑み屋で)。吾人の教育能力の欠如ばかりを感じます。明日からもがんばろうバンガロー

>>

氏の話を勝手に自分に引き付けるのだけど、僕はこの3つの使い分けにある「無力化する」ことができるようにならねばいけない。
これはもちろん相手をやりこめるという意味ではなく、相手の放つ「乖離性オーラ」(訳わからん命名ですが)を自分にとって無力化するということだ。
喋るにしろ行動を共にするにしろ、なにかと相手に合わせてしまう僕は自分のその性質を矯正しなくてよいと考えた(今のところ)。
それが僕の感覚(ここでは身体性、あるいは「相手をしっかり見る」という意味。わかりにくいな)を鈍らせないならばそうするべきだと考えた。
そしてそのような自分にとって、言葉と身体性が乖離した人間は脅威なのだ。

相手はある法則に従って言葉を発している。
それは理解できるが、その言葉への応答が相手に届かない。
その「ある法則」とは「世界は自分中心にある」というもので、自分の周りで起こっていることの全てが自分の都合の良い文脈で解釈される。
それはとうてい論理とは呼べない。
しかし、その法則を全面に押し出して生きる人間は通常の論理を理解していないわけではない。
相手の言葉の中から自分に都合の悪い情報を正確に聞き流し、あるいは精度良く聞き間違え、残った情報を自分の都合良く解釈したうえで相手に言葉を返す。
一連の流れが無意識と呼べるほど当人にとって違和感なく行われている(このことが上で言った脅威で、相手たる自分にとって、この上なく不気味でおぞましく、自分も乖離せずには正気でこの場にいられないという恐怖をもたらす)ために、この自らの言語システムに自覚がないようにも見えるが、たぶん自覚はあって、それは自分を難なく否定する言葉遣いにあらわれているはずなのだけど、その(ちょっと我に返れば立ち上がってくるはずの)自覚をメリメリと押し潰しているのが「忙しい毎日の生活」という何にも勝る実際(現実、と呼んでもよいが僕の現実には多分に幻想が含まれるので僕の語彙ではない)なのだ。
この法則が乖離の維持を担っており、もちろんあらゆる所で破綻している。
しかし破綻しているのにも理由があり、まず破綻していても主観的には幸福に暮らせるからであり、逆に言えば破綻を繕えば幸福以外のものが見えてきてしまうからである。 13:15

集団には閉鎖性と解放性の両方があって、どちらも集団の維持には必須の性質でありながら、両者のバランスは集団のおかれた状況によって様々な形をとる。
集団が小さいほど閉鎖性が強くなりがちであるが、それに対し外部との接触なしに生きられなくもあるため解放性が必要である。
この「必須」とか「必要」は何に対するかといえば、現代ほど軽んじられている時代もないと思うけれど、もちろん「集団の維持」である。
集団の維持は長期的な視野を持たねばできないが、短期的な収益が大事とばかり株式会社的な考え方をしていては、維持するべき集団として人類が発想されることはまずない。
人類が衰亡することなんて誰も望んでいなくとも、人がシステムを自律させ、システムが主観的には人を必要としなくなった時(それは人がそう設計するからなのだが)、人類という集団が衰亡を望んでいるということになるのである。

話は戻って。
他の集団と接触しなくとも維持できるようになった集団は、どんどん閉鎖性を強めていく。
そのような閉鎖的な集団に、かつて所属していたが今は外の集団で生きている者が戻ってくると、時に懐かしさを上回る嫌悪感が引き起こされる。
懐かしさとは過去の自分であり、それすなわち現在の自分の一部であるから、懐かしさを構成する内容(過去の出来事)の良し悪しに関わらず良いものである。
逆に言えば懐かしさを否定すると現在の自分の一部も同時に否定される。
だから、同じ場所から懐かしさと嫌悪感が同時発生する場合、問答無用でその主体は苦しみを味わうことになる。
その対処法として、上の増田氏のいう「丁寧に扱う」「無力化する」「否定する」が挙げられる。
(もちろんこれだけではない。僕なら真っ先に「逃げる」を挙げるだろう)
この文脈に沿わせれば、「否定する」とは自分の過去を切り捨てることだろう。
今自分のいる集団で新たな身体性を獲得していれば、難なくできるのかもしれない。
ただこれはかつての集団に戻ってきた際ではなく、そこから現在の所属へ戻る時に影響を引きずらないための手段だといえる。
リアルタイムでかつての集団と共にいる場合の対処法が残りの2つだろう。
「丁寧に扱う」というのは、その場で無用な被害を広げないということだ。
現在の所属の価値観を持つ自分と、かつての集団の価値観が対立する場合、わざわざそれを表面化させる意味はない。
「丁寧に扱う」という動作がその自分自身に許せる限り、この手段は効果を持つ。
それが許せない、あるいは耐えられない場合に、「無力化する」ことが必要となる。
相手の影響が自分を悪化させないことを第一に振る舞う。
あるいは、そのような事態になる前段階での話だけれど、相手の影響を受けないくらいに自分が強くなっておく。

さて、どうも話がぐるぐるしている。
(というか、自分はまだ「無力化」は無理だと言いたかっただけかもしれない)
たぶんゆくくる2で書いた「正直になる」をモットーに書いているのだが、そうはいってもあまり直截に書ける内容でもないからだ。
少し的を絞ったほうがよいかもしれない。
というより、一番始めに戻るのがいいか。
そしてアプローチを少し変えよう。


「お互いに気を許せる関係」というのがある。
わりと親しい友達とか、恋人とか、その辺の関係のことだ。
その「気を許した状態」というのは、あまり相手に気を遣うことなく振る舞っても相手にそれが受け入れられている状態だと思っている。
気遣いがあまりなくとも相手に悪く思われなければ、その相手とは「波長が合う」と言ったりするだろう。
余計な気遣いのない振る舞いを「自然に振る舞う」と言ったりする。
そして今の僕の話になるのだが、僕は自分がある相手に対して「自然に振る舞う」時、それを気持ち悪いと感じることがある。
細かく言えば、相手との親密度は逐一変わるのでそれに応じて自分の振る舞いがだんだん自然になっていくのだけど、その自然になっていく過程では特に何も感じなくても、ある一線を超えると自分の自然さに違和感を覚えるのだ。
それは「自分が自然ではない」のではなく、「自分の自然は相手の自然と違う」という違和感である。
この違和感は単純に、他人との距離が縮まって相手のことが分かってきたからその人とは「波長が合わない」ことが分かったというだけかもしれない。
かもしれないのだが、これはまだ観念段階に留まっているのかもしれないのだが、…。
言い方が難しいけれど、例えば今の自分の自然状態と波長が合う人と出会ったとして、その時もちろん「波長の合う人と一緒に過ごす快適さ」はあるのだろうけれど、同時にどうしようもない違和感がついてまわることになるという予感がある。
分かりやすく言えば、僕は自分のことが好きだけれど、誰かと一緒に暮らすとなった時、自分の中の自分の嫌いな部分があぶり出されてくるだろうという予感だ。
そんなの当たり前じゃないか、という気もする。
他人と一緒に暮らすとは、今まで見えていなかった自分とも向き合ってなんとか呑み込みながら生きていくことなのだろう。
しかし思うに、そういう「逞しく生きていく」(ネガティブな言い方では「世間擦れ」だろうか)道筋はいくつかあって、その中にどうしても選びたくない道があるのだ。
…結局は「鈍感になりたくない」という結論に至ってしまったが、
何を考えようとしていたのだろう? 17:56
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by chee-choff | 2014-01-02 12:50 | 思考