深爪エリマキトカゲ
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◆ ゆくとしくるとし('13→'14)1
はや年末。

実家には昨日から戻っていて、昨日は高校の同窓会に出ていた。
卒業10周年ということで、理数科2クラス80人中41が出席していたそうだ。
みんなそれぞれの道へ進んで頑張っているようだ。
3年間お世話になった担任2人も来ていて、多少老けたが相変わらずだった。

戻ってくる場所はいつまでも変わらず、戻りたいと思った生徒のアジールとなるのだろう。

+*+*+*

一年を振り返る。
大きな出来事としては何があっただろうか。
自分から起こしたこと、としては何もないかもしれない。
それは別に構わない。

記憶に新しいのは、仕事ががらりと変わったこと。
今月始めのことだが、研究開発の現場から知財部門へ移った。
まだ正式な異動でない所が少し気になるが、余計な何かが起こるのなら起こった時に考えるしかないようなことしか起こらないことになっている。
だからひとまず現状に慣れることだけを考えればよくて、そしてそれが本来は大変だというのは仕事内容の変化が転職に匹敵するようなものだからだ。
研究開発にいた頃から知財の仕事の感じは同期から聞いていたし、自分の発明の出願もしていたのでその一端には触れていたが、まさか自分がその仕事をすることになるとは思っていなかった。
…とまで書くと嘘にはなるけれど。

18:26 一度筆を措く。

+*+*+*

なぜ嘘になるかといえば、入社時から「最初は研究開発で頑張るけれどもいずれは知財で頑張りたい」と人事課に伝えていたからだ。
今回の部署異動の話が浮上してきたその最初からそれを意識していたわけではない。
けれど、結果的に「自分が思い描いた通り」に事が動いたのだった。
自分はただ目の前に現れた流れに乗り続けただけなのだが、過去に自分が起こし、もはや静止したかに思われたが再び動き始めた流れに他人事のように乗れたところから、やはり過去の自分も他人なのだと再認識する思いである。
そして自分が乗った流れに対する価値判断(良い流れ、悪い流れ)は、その判断を下す時機によって変わるということも。
過去の出来事に対してもこれと同じことが言えて、では流れの微分が出来事かと単純に言えるかといえば分からない。
ここでの表現としては、一つの出来事に時間的変化がくっついたものが流れだというもので、微分という言葉を使うと話が整理されるよりは変にねじれる効果しかない気がする。
それはよくて。

今年はほんとうに何もなかった(気がする)ので、出来事で振り返るよりは今の自分の心境やら価値観を書いていった方が「ゆくくる」っぽくなってくるように思う。


まずは、上記の異動の件にも関係するのだけど、「自分に正直にならねば」と思っている。
我慢はいけない、と。
場に対する適応力をかつては自分で誇っていたが、もはやその誇りは捨て去らねばならない。
というより、その「適応力と呼んでいたもの」を今の自分が解釈すれば「集団の境界でもなんとかやっていく能力」なのだがその中の「なんとか」は決して「上手く」と言い換えることができない。
言い方を変えると、均質的な集団に所属していると楽だという人は多くて、そういう人にとっては集団の境界(価値観の異なる他の集団とのやりとりが行われる「前線」)に居るというだけで苦痛であることがあって、僕はその苦痛を時々は楽しみに変えることができるということだ。
調子が良ければその境界にいる間にお互いの集団の文化を混ぜ合わせて面白い化学反応を起こすことができるが、調子が良くなければ相手集団に対しては後ろ向きで所属集団に対しても融通が利かない「なんだか関わるのがめんどくさいキャラ」になってしまうので、異質な2要素による相乗効果は正も負もあるという良い例ですねこれは。
あるいはこのことが「極端が好き」ということかもしれない。
相乗効果が正にはたらこうが負にはたらこうが、一つの集団に安穏としている人には絶対に味わえない経験であることに変わりはない。
ただ、今年の話をすれば(おっとこれが本題だった)、この相乗効果が負にはたらき過ぎたのだった。
そして移った先は、かなり「閉じている」グループである。
ホント、どうなることやら…。  21:50

話を戻して、まず我慢した結果がこれで、今回は状況が好転したから良かったけれど、同時に自分の限界が分かってしまったのだから無理はできない。
まあ限界が分かったのは良いことでもあって、そして限界ゲージを不用意に溜めないようにしたいと思う。
前の所属グループに少なからず迷惑をかけたのだがそこはよくて(あれ?)、自分自身が不寛容になるし思考もネガティブになるしで、今思えばそのネガティブ思考も良い経験だと言えないこともないが、それよりも単純にもうイヤなのだ、しばらくは(あれ?)。
そう、自分の感覚に忠実にを、言葉だけでなく実践していきたいのだ。
「流れに乗る」という所作も、自分の感覚に従ってそうする場合と自分の感覚を殺してそうする場合がある。
自分が乗る流れを選びたいと言った時、「自分の感覚に従って乗れる流れ」に乗りたいと思う。
ある意味それは「子どものワガママを通す」ことなのだけど、大人の世渡り術をもって子どもの感覚を守りたい
、ということでもある。
だから、自分が白い目で見てきたはずの「世渡り上手君」に、自分からなろうとすればよいのだ。
…本当だろうか?


子どもの話が出たので、ちょっと別の話をする。
何年も前から、僕は自分の記憶力に自信が無くなっている。
受験生の頃から暗記物が嫌いで、世界史や現社など社会系の教科の点数が散々であった。
が、今はその比ではなくて、例えば日常生活での固有名詞が頭に入らない。
仕事でも多少そのきらいがあるし、普段の何気ない人との会話でも「ほらあれ、あの…」みたいな、イメージは浮かんでるけれど「あれ何て呼ぶんだっけ」みたいなことがたびたびある。
過去の一番酷かった例は院生だった頃年末に実家に帰っていて、「セーター」が出てこなかったことだ。
これはもう立派に「老人力」が発揮されていると言うしかなくて、しかしこの歳で「まあぼちぼちのヨイヨイで…」とか言って会社でまともに仕事ができるとも思えないのでもちろん改善の余地はある。
余地はあるがまだそれほど切迫はしてなくて、なので「なぜ自分は記憶系統で老人力が発揮されてしまうのか」の原因をこの場で解明しようと思う。

まず思い当たる節があって、それは「時代が記憶力を不要としている」という認識が僕にある。
グーグルだの知恵袋だの、クラウドストレージ(だっけ? クラウドコンピューティング?)という装置は膨大な情報量と迅速な検索性能を備えていて、検索すればすぐ分かることは暗記する必要はなく、ものの考え方とか経験知、勘などのまだコンピュータには担えない「情報化し切れない情報(ナマモノ)」をこそ人間の中に蓄積していくべきだという考え方だ。
(しかしこれを書きながらふと思ってしまったのだが、自分は検索サイトにあまり頼りたくないと思っていてその理由は「分からない単語が出てきたらすぐ検索とかばかりやってたら自分で考えなくなるから」というもっともなものなのだけど、時代にあった知性のあり方というのは「検索をしない」ことではなく「検索をうまく使いこなす」ことだと上の書き方からは読めてしまう。そして今自分で書いたこれに同意してしまう。矛盾しているのだが、面倒くさそうなのでとりあえず保留しておく。重要なトピックではあるけれどね)
この認識はまっすぐ「じゃああんまり暗記とかしなくていいよね」という思いに結び付く。
これは確かにあると思うのだけど、実はこれだけではない。
自分がものを覚えないをよしとする認識が別にあるのだ。

それは上で書いた、「自分の感覚を大事にしたい」という認識だ。
研究開発の現場では、その分野の知識をつけていくと仕事は捗るようになるが、現場の知識というのは原理的なものより従来技術の割合が大きいもので、その知識の多さは革新的な発想をしていく上で足枷になってしまうことがある。
人とのコミュニケーションでも同様で、個々の相手の性格や事情を知り、あるいは所属集団の慣習文化を知識として蓄えていくことは基本的に意思伝達を円滑にするが、そのことに慣れすぎると関係性が硬直化してくる。
このように知識が足枷になるのはある程度知識を習得してからのことなのだが、「知識が感覚を鈍らせる」という意識が自分の中で固定化しているために、基礎として必要な知識まで頭に入れたそばからこぼれ落ちているのではないか。

上では切迫していない問題だと書いたが、恐らく「ヨイヨイし始めたのがいつか」に思い至れば上記認識による「リミッターの解除」ができるのではないかと思う。
資格の勉強をすることにでもなったら考えようかな。
あるいは知財の仕事が本格的にスタートする(見習い期間を終える)までにしておいた方がよいのか。
まあそこはいいか。
必要が生じればするっとできるのかもしれないし。
できなければ「あれーでけへんわあははーのヨイヨイ、と…」でごまかせるかもしれない。
そうか、老人力とはこういう場面でこそ…
いやまだ僕は三十にもなってないぞ…
あんまり老人力なんて連呼すると…
いやでも「鉄は熱いうちに打て」と言うじゃないか…
用法が間違ってないか、というか正反対じゃないか…
そうか、鉄はガラスより軟らかいんだった…
というオチでいかがでしょうか…

いや、落ちたら終わってしまうので、続きはまた明日。
そういう流れになったので、ここから「ゆくくる」が始まります。
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by chee-choff | 2013-12-30 18:28 | 思考