深爪エリマキトカゲ
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◆ ゆくとしくるとし('12→'13)4
続かなかった(ぴしゃり)
この「ぴしゃり」は座敷の襖を(正座して一礼の後、両手で)閉める音ですね。
いらない解説。

先に謝辞をば。
今「年末年始」も良き音楽に和みながらこの文章を書き進めることができました。
まず、毎年ホントにお世話になっているneko氏のピアノ演奏による「撫子ロック」。
→ [pop'n music15]<撫子ロック>-凛として咲く花の如く-をピアノで弾いてみた
そして昨年読んだ『ジョン・レノン対火星人』に絶妙な雰囲気を与えてくれた不始末氏の第一作。
今の僕の「静謐のイメージ」そのままです。八幡さんに行ってる間もずっと頭の中を流れていた。
→ 【初音ミクインスト】ちいさい音ダイアル
そしてそして、この年末に偶然出会ったスズナリ氏カバーの「秘境系カフェインJazz」。
動画コメントを拝借した「秘境」の、僕のイメージは『水惑星年代記』(大石まさる)だろうか。
「大地には床暖房がある」。いいなぁ。
→ ふわふわハサミ (カバー)
みなさま、ありがとうございます。

+*+*+*

さて、シメにとりかかろう。
と言いたいところだが、書きたいと思っていたことをいくつか思い出したので最初に列挙しておく。

①物理時間と生理時間
②「多様性の話」の続きというか枝葉
③「感受性を下げない」ために

ひとつめ、これは先月読み終えた『毒にも薬にもなる話』(養老孟司)にあった話。
物理時間tとは時計の刻む時間のこと。
生理時間Tは体感時計のことで、「思ったより時間経ってるなあ」という時の「思った」の部分。
経済動向の指標(というか目盛か)にも科学実験にも当然のように使われる物理時間は、誰しもが客観的な指標として共有可能であるためにそうなっている。
その目的そのものを疑う必要はないし、その客観的な指標はその使用を前提としないと現代社会がまわらないほど重要な要素である。
養老氏が指摘していたのは「客観化可能でない分野にまで物理時間を適用してもよいのか」という点だ。
「経済の動きは脳の動き」という言い方もしていたかと思うが、つまりお金の動きは人の思惑によって動くということで、お金の流れを支配する時間はtではなくTだろう、と。
数学的な表現では生理時間はT(x,y,...,t,...)と様々な変数の関数であって、もちろん物理時間も含んでいる。
時間はあらゆる関数の変数であり時間そのものが関数であるべきではない、という性質は物理時間のものだ。
その感覚からすれば生理時間などという関数を式に組み込む意味なぞありゃしない、と思うのはまあ自然な思考で、なにしろ「客観的でない時間」と銘打って生理時間を導入しているのだからそれは当然なのだ。
だから数式を簡便にするための概念でなくて(だから敢えて関数式で書くのは本質ではなく雰囲気だけの話)、「ものを具体的に捉えるための抽象概念」として生理時間はある、と考えてよいと思う。
「何かに夢中になっていたらいつの間にか長い時間が経過していた」
この時間感覚が生理時間で、それを物理時間に換算するのではなく(しかし当の言明に実はもう換算というか比較が含まれていたりするのだが)、この感覚を軸に「生理時間を生きる」コツを掴んでいけるのではないか。
(逆に「物理時間を生きる」例には、腹は減っていないが12時だから昼飯を食べるといったことが挙げられよう)
とはいえ会社はもちろんのこと街中での社会的生活を律するのが物理時間であるから、日常的にそれを実践することはまず不可能である。
(ラオスやミャンマーで虫取りに励んでいる時の養老先生なら可能かもしれないが)
だから抽象から入らざるを得ないというか、まあ「そういう話もある」と念頭においといて、要所で生活の方向を微修正する安全弁(?)にでもなればいいかな、というのが正味の僕の感覚。

ふたつめは、2つ前の記事で展開した多様性の話の派生的話題。
と、上に列挙したときは内容が頭にあったのだが、はて。
…思い出した、「多様性を守ることを第一に考える選択」のメタファーを思いついたのだった。
それはすなわち「R&D」です。
研究開発、だけど技術に限らず発明というのは一般的な感覚として「万に一つが当たればオッケー」である。
研究開発を主とする企業が、自社で扱う分野を本命テーマだけに絞ることは自殺行為である。
というのも「どれが当たるか分からない」からこその革新的技術なのだからして。
もちろんこれは通常というか平時の経営指針であって、「選択と集中」の局面は別に必ずある。
で、これをメタファーと言っているのは、自分の人生…は言い過ぎかもしれないが、ある一時期の生活指針をこの平時R&Dの1テーマになぞらえてみてはどうかということだ。
(「人生は実験だ」というのと通ずるところがあるな、これ)
当たればめっけもん、外れりゃまぁしゃあないか。
で、生活指針を1テーマになぞらえつつもその生活をやりくりする個人の視点は「R&D企業経営者」なのである。
視野を常に広く保っておく、健全な経営状態を続けるために、本命テーマのまわりには数多くの博打的な、ある意味遊び半分の、またある意味使い捨ての小テーマが独自の活動を営んでいる。
そして健全な経営状態と言った通り、「一発当ててガバっと儲ける」ではない経営方針のR&D企業の主なのである、僕らは。

みっつめは、「感受性を下げない生き方」の具体例をいくつか書いておこうと思った…のか?
あまり自信ないけど過去の自分には聞けない(もはや他人の領域やし)のでとりあえずそれを書こう。
ざっくり言って、まず「脳の活動領域」と「身体の活動領域」をきちんと見分けること。
前者を言い直すと「脳の活動によって場が制御されている生活領域」で、後者は脳を身体に変えればよし。
会社は前者。
近所の散歩は後者。
満員電車は前者。
読書は前者(と、定義上はそうなるはずだけどきっとこれは考え始めると難しい。後回し)。
人と喋る時は、どちらも混ざっているのだけど、人によってあるいは場によって両者のバランスが変わる。
このバランスの見極めはまあ当然難しくて、見誤ってどちらに振れても相手の不快感と場の違和感を引き起こす。
そしてもっとややこしいことを言うと「全ての人に対して見極めたバランス通りに喋る(やりとりをする)必要はない」のも大事なことで、前に認知的KYと遂行的KYの違いについて書いたことがあったけど、ここでの話は「遂行的KYでいこうじゃないか」ということで、これまたざっくり言えば「好きでもない人に好かれてもしょうがないでしょう」という。
だから大切なのは認識で、「分かっててやる(=行動する)」こと。

それはもちろん結果が予測できる行動しかとらないのではなくて、もちろん予測が外れても構わなくて、自分の人に対する振る舞いにきちんと意思をもっておくということ。
(「自然な何気ない振る舞い」ができなくなる? と書きながらふと思ったがそれは多分違う話。後でできれば…)
その意思を持った振る舞いとフィードバックの経験を通じて、自分の感覚を信頼できるようになると思う。
そうか、何気ない振る舞いというのは、それをあまり意識せずにできている状態、なのではないかな。
「誠実な態度」という時、それが「相手のことをよく考えていること」そのものでなく「相手のことをよく考えており、それがうまく表面からは隠れていること」を指していることと同じ。
相手のことをよく考えているそのことを前面に出すとどうしても相手は「こいつ押し付けがましいな」という思いを抱かずにはいられない。
これは実際そう思う人がどれだけ自分の周りにいるかという話(を考えることは実際的に意味があるにしても)ではなく、原理的な話をしているのであって(←あ、そうなんだ)、コミュニケーションにおいて言葉のやりとりが情報のやりとりとイコールになっていない限りにおいて当然起こりうる事態なのだ。
人と人との面と向かっての言葉のやりとりは、その言葉の意味だけでなく「言葉を発する身振りの意味」も同時にやりとりしている。
僕は後者の抜け落ちた会話が健全でないという認識でいて、その認識が健全であるかはともかく(これをアナクロだと指摘することもできよう)、このような認識を共有できる人(を見極める判断はもちろんこんな堅苦しい話を面と向かってやる必要は全くなくて(というかその必要性を感じてしまう感覚こそが一種の「言葉を発する身振りの意味」が抜け落ちている状態と言えるのだが)、当のコミュニケーションを通じて言語を介さずに感得できるものだ)とは最低でも誠実なやりとりを通じて仲良くなりたいと思う。
で、ちょっと戻って上の「もっとややこしいこと」の続きなのだが、遂行的KYというのは周り(というか僕が距離をおいておきたい方々)からはKYに見えてしまうもので、所属する集団によっては簡単に孤立することができる。
だから「孤立してあたりまえ」という認識がそこには必要となる。
誠実に対応したいと思える人間を限定しておきながらその彼らを探そうともしないのだから。
まあ、さびしくなったら、探せばいいんじゃないかな。

…さて、具体例をいくつか、と上では言ったのだけど、他に何かあったかなーと。
あ、これにしよう。
「意味の価値関数は身体の状態を変数にとる」
しんどい時に重いこと考えるのはやめましょうね、と。
もう何度も書いてきたけどつい書いておかずにいられないのは、この真理(って言っていいと思いますホントに)がしんどい時には全く実感として響かないからで、こういう時に格言の役割ってあるんだなあと健康が回復した時にいつも振り返って思うからだ。
「思考停止を嫌う」が基本姿勢の考える人には格言を格言とする(通じるかなこれ)ことに忸怩たるものがあるのだけど、身体への信義を誓うものとしては清濁併せ呑む(?)しかないのである。

だんだんてきとうになってきた(笑)
そろそろ実家をおいとまする時間なので。
後で読み返して修正するところはしよう。
もう「ほぼ満足」なので最後の〆は寮のPCで書くとしましょう。
では、帰る前にうまいもんもうひと食いしてきます。 17:48
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by chee-choff | 2013-01-03 13:55 | 思考