深爪エリマキトカゲ
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◆ ゆくとしくるとし('12→'13)3
2の続き。

「感度を下げない生き方をしたい」という話だった。
しかしそれは大自然の中でワイルドに生きたいわけではない。
街中に住む以上、人目を気にせず無法に振舞うわけにはいかない。
人と社会的に接しながら、感度を下げないでいられる方法があると思うのだ。
 一緒にいると、心を開きたくなるような人。
 そこにいれば、五感を研ぎ澄ませてのびのびとしたくなる場所。
理想を言えばそのような場所に暮らし、そのような人と一緒にありたい。
もちろんその理想を実現することは大変難しく、膨大な努力を要することだろう。
生き方として言うならば、「今いる場所」でそのような理想に近づける努力をしたい。
そしてその努力は、とても抽象的なものだ。

どうも抽象的な話は脳の専売特許というイメージがつきまとう。
けれど僕は、抽象的な思考が身体の感度を上げることにつながると思っている。
ただそれが直接つながるわけではない。
脳-身体間の重心が脳に偏っている時、そのバランスを整えるのは脳の仕事だということだ。
そしてその仕事を日常的にこなしつつ、生活圏の大部分を占める「ああすればこうなる」をルールとする領域から時には距離をおく必要がある。

話が戻ってきた。
つまり、通常の社会人一般の生活を保ちながら、(その価値観の全てを自分の生活に適用すると感度を下げざるを得なくなるという個人的な危惧のために、)どこかに感覚を開放できる回路(アース?)を通しておきたいのだ。
…どうも話が分かりにくい。
維持すべき「感度が高い状態」を語るのではなく、なるべく避けたい「感度を落とした状態」を語ったほうが分かりやすそうだが、それはやめておこうと思う。
恐らく、その先が続かない。
というより、単純に面白くない話になりそうだから。

簡単に言えば、自分なりに気分良く生きたいということだ。
この「自分なりに」の意味は、あまり心地よくない場所に自分がいたとして、その場所に居続けて自分が気分良くなれるよう努力するのではなく、さっさとその場所を離れる解決法をとるということ。
場合に応じては自分から環境を変える努力をする可能性ももちろんあるだろう、と思いたいところだが、過去に同じことを言って、その通りに振舞って、何度か失敗した経験が僕のその認識を揺さぶっている。
極端な表現を使えば、僕は「気分良く過ごせる場所を求めてひたすら逃げ続けたい」と言っている。
(この「逃げる」も抽象的に使っている。例えば簡単に会社を辞めるようなことはしない)
けれど、字面を眺めるに極端だと思えるだけで、実際やってみると案外そうでもない気がするのだ。
逃げるという言葉がネガティブに響くが、感度を上げてこそ自分が今いる場所の居心地について自信が持てるのだし、囲まれている価値観が通念的であればあるほど、そこから逃げるためには勇気がいる。
その勇気は、現に居場所を移す際の行動力の源でもあるし、逃げおおせた後に自分の感覚を正当化する源でもある。
話が循環しているが、この勇気は「自分の感覚に対する信頼」と言い換えられる。
五感の感度と、この信頼は正の相関関係にある。
結局のところ、気分良く生きたいとは自分の感覚を信頼できる状態でありたいということ、自分の感覚が信頼できていればたいていの場所で気分良く過ごせるということかもしれない。

すっきりしない展開になったがこれはこの辺でおしまい。


読書のこと。
本を読む時間は去年一年間では安定していたと思う。
一方で読むスピードは、だんだんと遅くなっている。
読む本のジャンルで速度は変わるのだが、遅くなったのは小説を読むスピードだ。
森博嗣氏のエッセイに何度も出てくる話だが、森氏は読むスピードがとても遅い。
本人曰く、小説を書くスピードよりも遅い、らしい(書く方は確か10分で原稿用紙1枚分だったはず)。
その理由として「文章を映像に起こすのに時間がかかっている」ことを挙げている。
小説を書くのは、頭の中に描いた映像を文字に変換するだけだから速い、と。
そういうものなのかなと読みながら思ったが、そこで僕は文章のイメージ化の大切さを感じた。
今まで自分が読んできた小説で、印象的だった場面は全てイメージとして自分の中に定着している。
それは断片化されて脳内のイメージ保管庫に雑然と散らばっているようなのだが、そのイメージの断片の「強度」は、自分がその場面の描写を文章で読む時に想像したイメージの強度そのものだろうと思った。
だから、小説を読んでいて「ここぞ」という場面ではたっぷり時間をかけようと思ったのだ。
 追記)速く読めるほど良いという価値観は以下に続く話以外にも結びつくところがある。
 その一つは「効率主義」だ。
 何かを得るとき、それを得るためにかかる時間は短い方がよい。
 これも、得るものが最初から分かっていれば疑念をさしはさむ余地はない。
 (学生の頃に速読法を会得しようと試行錯誤したことがある。フォトリーディングとか。ダメだったけど)
 ある種の読書で効率主義が邪魔をする時というのは、読書を通じて「謎」と相対している時だ。
 単語の意味を調べる時は紙の辞書よりは電子辞書が速く、周辺情報も欲しければ検索がより適している。
 それは手に入れたい情報が明確である時のこと。
 小説を読む理由は情報を得るためではないし、速く読み終えることでももちろんない。
 けれど実際のところ、「速く読み終えないと」という思いに囚われることがある。
 単に積ん読量が膨大だからかもしれないが…
 と、これは下にも書いてるな。

去年のゆくくるでも読むスピードが遅くなったことを書き、それは量(冊数)をこなす義務感から開放された(というか「量が質に転化する」という価値観の束縛が解けた)からだと書いた。
しかしそれは、完全には解けていなかった。
おそらく完全に解けることはないと思う。
なぜなら「量が質に転化する」経験を幾度となく積んできて、そこから得られたものが今の自分の一部を構成しているから。
例えば受験勉強。
いや、義務教育のほとんどがそういう価値観を原理としているかもしれない。
だからそれが悪だというのでなく(という言い方もなんだか消極的だが)、その価値観の拘束を逃れたいと思った時には長い時間と大変な努力を要するという認識を確かめておきたかったのだ。

その価値観はメリトクラシー(努力至上主義、だったかしら)とほとんど等しい。
努力をすれば、した分だけ技術が身につき、恩恵が受けられる。
努力の開始条件が平等である限りにおいて、平等な概念である。
(遺伝的要素もあるだろう、と言われればそうかもしれない…ええと)
メリトクラシーは努力を正当化し、努力する者に意欲を与える。
それ自体は善でも悪でもない(無条件で善とされることも多いけど)けれど、「何によってそうなるか」を失念してしまうと厄介なことになる。
つまり、この価値観が努力に価値を与える根拠について忘れてはいけない。
その根拠とは「結果」だ。
よってメリトクラシーは成果主義と容易に結びつく。
この両者のタッグが教育現場(また大きく出たな)における盲目を作り出すというのは、つまりは過程がなおざりにされてしまうということ。

…自分の話をしていたはずだが、何が言いたかったかといえば、本は読みたいように読みたいし、読みたいという自分の欲求(の内容というか詳細)にきちんと目を向けるということ。
だから、時間をかけて本を読むことはもちろん悪いことではないし、「自分はこの本をどう楽しめばよいのだろう」という思考に落ち込んで読書が中断されることも、時には必要なのだ。
後者はパッと見で「何もしていない状態」に思われてしまうことになっていて、それは空白の時間をなんとか作るまいとする現代人特有の宿痾(=持病)によって忌避される状態とされている。
その宿痾の根源は消費至上主義だと思われるがまた話が無闇に広がりそうなのでおいといて、結局のところ「今自分は何をしたいのか」を常に把握できている限りにおいて無為の時間も消費行動も健全なものとなる。


そしてまた話は違う所へ向かうが、「今自分は何をしたいのか」を知るにはどうすればよいかについて。
これは僕自身については、「今自分はどういう状態でありたいのか」という問いにシフトさせてよいと思っている。
今まで何度も書いてきたが、人は何かをする時、「何かをすること」自体を目的としているわけではない。
その行動の過程に重きをおく場合、あるいは結果を重視する場合があるが、「過程」も「結果」も行動そのものではない。
それらは状態なのだ。
つまり、人はある(安定した)状態に至るために行動する。
この、状態を直接志向するのではなく、行動を媒介させて迂回的に求める理由とは何だろうか。

まず一つの簡単な解としては、「(消費)社会の要請」がある。
 金は天下の回り物。
 経済が成り立つためには、「回転」そのことが必要とされる。
 行動が全て回転に寄与するわけではないが、「行動の伴わない状態の志向」は回転に結びつかない。
社会の要請であるということは、それは個人の意図とは別に考えなければならない。
また、社会の要請は「(身近な)他者の要請」とイコールでもない。
社会の要請と呼ぶものが具体的でないと言うのではなく、それは消費社会という「数ある社会の一つのあり方」に過ぎない。
「金が無ければ何もできない」という表現が拝金主義の魔力を帯びるのは、ここから連想させる対偶が間違っているからだ。
論理学(だっけ?)の対偶の定義は、「AならばB」に対する「反B(=Bでない)ならば反A」である。
「お金がない(A)」の否定は「お金がある(反A)」で、「何もできない(B)」の否定は「何でもできる(反B)」である。
すると定義通りに対偶を言えば「何でもできればお金はある」となる。
これは「お金があれば何でもできる」ではない。
命題の対偶は常に真だが、命題の逆は真とは限らない。
つまり上で「連想させる対偶が間違っている」と書いたのは正確には、「命題の対偶」だと認識しているはずのものが実は「命題の対偶の逆」であって真ではない、ということ。
最も身近な話(つまりカネの話)に抽象からのアプローチとなっているが、この時点で実感が伴うかどうかはおいといて、ここでまず「なるほどね」と思えるところから、拝金主義の呪縛を解くプロセスを始めることができる。

何の話をしているのだろうか…
まあいいや。話をちょっと戻して二つ目の理由としては「状態を直接志向することが抽象的だから」を挙げる。
18:31
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by chee-choff | 2013-01-02 00:23 | 思考