今年の八幡さん
23:10に家を出る。 時間がない、と言いながら例年より早い出発だった。 近畿は北部は雪とのことだが、内陸たるここ大阪-京都の府境は快晴。 出る前は「雲がないと(空模様が)面白くない」と父に言いながら、覆うもののない空はやはり清々しい。 月の光で空気が満たされ、特別な夜を思わせる。 しかし軽快に歩き始めると、身体は何も考えなくなる。 いつもの年末、「いつもの特別」。 それは特別ではない。 今年は歩きやすい革靴だった。 踵からつま先までバランス良くクッションが効いており、一歩を踏み出せば自然に足が回る。 ズボンが薄くて寒くないかと心配したが、すぐにポカポカしてくる。 身体が喜んでいるのがわかる。 底の固い革靴はアスファルトを歩くと「コツコツ」と音を立てる。 音の響きを確かめ、リズムに乗ってくると、歩きの記憶が呼び起こされる。 社会人としての日常、駅前の大通りを歩くリズム、寮近くの住宅街を歩くリズム。 京都と神奈川が地続きで繋がっていることを想像する。 地続きなのは紛れもない事実だが、それとは関係のない空想。 つまり、今京都を革靴で歩く音は、神奈川の大地にリズムとして伝わっている。 八幡さんへ向かって歩く自分のリズムが、厚木の夜の住宅街を歩く自分と同調している。 歩くことは、記憶なのだ。 今歩く自分が、かつて歩いた自分を呼び覚まし、混ざり合い、記憶の一部となってゆく。 意識下にすら遠い過去の自分が現れるのならば、潜在意識で律動する「歩きの記憶」は誰のものか? いつもと同じ道を歩き、坂を上る。 去年はなかったところにツタヤが建っていた。 が、それ以外に大きな変化はない。 新築の家がいくらか増えたかもしれない。 機能的なコンクリート塀で囲われた新しい家。 無慈悲に屹立する壁は不審者を寄せ付けない機能をしっかり果たしている。 一方で、開放的に見える生垣は隙間が多く、手入れがなされている形跡がない。 家の主が頓着しないのか、そもそも人家ですらないのか。 整然と区画がなされた住宅街の、個々の家は個性を遺憾なく発揮して雑然としている。 そこに借景という発想はない。 これは所有の権利を追求した一つの結果だ。 所有の意識は、「自分のものか、そうでないものか」という目線をあらゆるものに向ける。 曖昧さは排除され、所有権の及ばないものの存在が見えなくなる。 そこに節度が必要というのは、所有意識の追求は必ず途中で行き詰るからだ。 土地を買った。家を自分で建てた。では家の前の通りは? 最寄駅までの道は? 自分の家を借景に組み込む発想は、所有を占有という極端から遠ざけることができる。 景色を借りることは、お金を借りることとは違う。 家を出た時間のせいか、単に寒いからか、道すがら参詣客に会うことが少ない。 住宅街の奥へ抜け、八幡さんに通じる山道に入る。 月の光が竹薮の隙間を抜けて地面を照らす。 危なくはないが、一歩ごとに確かめるように踏み進める。 後ろから若いグループの笑い声と、左右に揺れる懐中電灯の光がやってくる。 先に行ってもらおうかと思い、脇道に逸れる。 逸れた先には小さな畑と納屋があり、空が円形に開かれていた。 名前の知らない数々の星座が夜空を構成している。 星の瞬きは大気の揺らぎ。 顔を真上に向けながらしばらくの間、天然プラネタリウムを堪能する。 我に返り、時刻を確認して、再び登り始める。 段差のあるポイントは身体が覚えていた。 月を見上げつ青白く照らされた竹肌を左右に眺めつ歩いていたが、躓くことはなかった。 山道を抜け舗装道に合流し、駐車場を抜け、八幡宮の敷地に到着する。 休憩所の時計を見ると、新年となる1分前だった。 そのまま参拝客の列に並び、わずかなカウントダウンの声を聞いた。 人の列の歩みが止められる。 境内の門前で警備員が誘導灯を掲げ、入場制限をかけている。 参拝客は若者が多いが、警備員の脇をすり抜ける者はいない。 けたたましく笑う声が聞こえるが、あまり不快感はない。 そういえば、この身体も触れ合うほどの混雑の中で落ち着いている自分がいる。 人混みが嫌いで、たまに乗る満員でもない電車内ですら居心地の悪さを感じる自分が。 周囲への気配りに欠ける騒がしさに、気が滅入らずにはいられない自分が。 そうか、正月だからか。 警戒感がない。良い意味で緊張感がない。 無防備で無邪気で、そしてみんな、どこか落ち着いている。 もしかすると、この騒がしさ自体は日常のそれと変わらないかもしれない。 それを感じる僕だけでなく、ここにいる人みんなの心の底に、落ち着きがある。 これはいい、と思った。 この落ち着きの感覚を忘れずにいたい。 やかましさ、騒々しさに隠れた、静かな心を。 波立つ水面に目を凝らせば、水底でたゆたう海月がすまし顔をしている。 これも例年通り、境内に入ってからは賽銭箱に並ぶ列から逸れて、目立たない暗がりにひっそりと立つ。 すぐ横の小さな座敷舞台(とりあえずそう呼んでおく)で、横笛と太鼓に合わせて4人の巫女が舞をしている。 その両手には鈴をつけた棒と矢があるが、矢は舞台前の通路で参拝客から先に受け取っていたものだ。 舞が終わり、祈りを捧げ、巫女は参拝客に矢を手渡す。 舞の空間で、巫女を媒介して矢に霊気が宿る。 参拝客の表情をしばらく眺めてから、本殿の周りを順路に従って歩き、お守りの販売所まで行く。 途中で八幡さんに寄贈された灯篭がずらりと並んでいて、引き寄せられるように近づく。 その一つひとつの作りが異なっていて、興味深い。 多くの灯篭に「永代○○○」(忘れた。ずっと灯を絶やさずという意味の語だったと思う)と彫ってある。 そして「石清水八幡宮」と。 「石」の書き方の違いが恐らくは作られた時代の違いを表している。 中に一つだけ、「天壌無窮」と彫られたものがあった。 (壌とは土のことで、窮は極のことらしいが、後者の意味は「貧窮」に近い) 「無」の点4つのうち、中2つが真下に伸びている。 「はらい」と違い、「点」の止め部分の彫りは丸みを帯びている。 石を穿って文字を彫る時に使われた道具のことを想像する。 お守りの販売所で、参拝客に面して並ぶ巫女とそれを監督する長を観察する。 もちろんのことだが、参拝客と神社の関係者は同じ場にいても表情が異なる。 神社の面々は無防備な顔をしていない。 いないがしかし、緩んだ表情の参拝客に相対する巫女は、土産物屋の販売員と同じ顔をしてはいない。 周りに気を配りつつ、無邪気に和みきった参拝客の雰囲気に同調させてもいる。 客がお守りを見ているだけの時と、客に話しかけられている時の巫女の表情の変化に見入ってしまう。 冷たい顔と温かい顔がころころと入れ替わる。 二つの表情はかけ離れ、そのつなぎ目が見出せないにも関わらず、そこにはなめらかな変化がある。 6人ほどが並ぶ中に、頭一つ抜き出た背の高い巫女がいた。 髪を後ろで束ねてすっきりとした首筋を覗かせながら、凛とした佇まいで参拝客の応対をしている。 その表情の、なめらかな不連続とでも言えそうな不思議な変化に見とれていて、なにかが繋がる。 頭の中を流れる音楽が変わる。 ああ、彼女は「16歳の佐伯さん」だ。 もっぱら内なる想像の産物に違いはないのだが、小さな感動が訪れる。 「佐伯さん」は『海辺のカフカ』(村上春樹)に出てくる、私設図書館の館長さんだ。 50歳を過ぎている妙齢の淑女だが、カフカ少年は16歳の彼女と、夢と現実のあわいで邂逅する。 作品中の細かい人物描写はここでは書けないが、僕の中の彼女のイメージは「透明な人」だ。 その顔を目に焼き付けようと思うが、おそらくそれは叶わない。 現実のやりとりと関わりとがなければ、顔も姿もディテールは容易に抜け落ちる。 だから、その表情の変化を心に染み込ませようと試みる。 経験そのものではなく、その経験の不思議さを記憶に留める。 それは可能なことなのだろうか。 体が冷えてきたところで、境内を出たところでやっている焚き火にあたる。 炎が繰り出すエネルギィをその身に受けながら、去年やっていたことを同じように試してみる。 眼鏡を外し、左目で炎をしばらく見つめ、そして右目で炎をしばらく見つめる。 左目はぼやけているが、視覚と肌感覚は正常に連関している。 右目の方が炎の猛り方が繊細に視認できるが、その像は肌感覚から乖離しているように思われる。 少しは成長したのだろうか。 左目の衰えと右目の成長は、何かを求めているのだろうか。 双方の変化は歩み寄りなのか、ひとつの平衡へ向かっているのか。 矛盾を生きるという決意は、その平衡をより複雑にするのだろうか。 すぐ隣に女子中学生らしきグループがいて、そのうちの一人がくるくると回転していた。 「こうしたら体ぜんぶあったかいで!ほらほら!」 賢いな、君は。 十分温まったところで移動し、休憩所前の自販機で缶お汁粉を買い、冷める前に飲む。 (手で缶の温もりを味わい過ぎるとその後の喉の満足が得られない経験も覚えていた) 外灯に照らされた時計は1時を指している。 こんなものかなと思い、下山を始める。 行きと同じく山道を通り、住宅街に戻ってからは別の道を選ぶ。 市民プールの横を下り、そのまま大通りを横切って、高台の際をはしるかつての「裏」通学路を歩く。 ひらけたところからは通っていた中学校が見え、遠くにはくずはタワーシティがそびえ立っている。 昔はあれがまるごと無かった、と言えばそれは確かなのだが、その映像記憶はない。 強いて取り出すほどのものでもないのだろう、今は。 「地元の感じ」について、所々懐かしい家々を見渡しながら考え、しかし終始軽快な歩みにて家路につく。
by chee-choff
| 2013-01-01 17:41
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