深爪エリマキトカゲ
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◆ ゆくとしくるとし('12→'13)2
内田樹氏のブログを読んでいて、英文があったので思いつきで発声しながら読んでいた。
英語は大学受験科目としては好きな方だったので、仕事やらの必要性がなければわりと好きに読める。
気楽に読めるのは、書いてある単語の全てを理解する必要がなく、大体の(というか把握できる限りの)文脈をつかめばよいからである。
それで高校時代は英語の発音にこだわっていたので、文章の意味が分からずとも読み上げるだけでちょっとした楽しさがある。
上の記事は日本文のあとに英文が続いていて、もちろん日本文と同じスピードで英文を読むことはできないので、「まあここは読み上げとくか」という気分になったのだと思う。
で、英文がわりと簡単だったのもあるが、読み上げると英文の内容がするすると頭に浮かんできたのである。
あとで下の和訳を読んで、大きく意味を訂正するような箇所もなかった。
これが自分にはなんだか意外な経験に思えて(というのも、読むべきものとして英文を読んだ時はいつも「理解の及ばなさ(勉強すればもっと分かるはずなのに)」ばかりを気にしていたから)、ふと気付く。
そう、日本語を学んでいた時も最初は音読していたのだった。
語学としての英語を学んだのは中学校から大学2回生までの8年で、8年も勉強しておきながら「音読しないと意味が頭に入ってこないレベル」というのもどうかと思うが、たぶんこれは自分だけでなくみんな同じようなものだろうという思いがあって、つまり語学教育に根本的な欠陥があるのだろうなといったことはまあどうでもよくて、「自分の読みたい本を音読しまくれば英語も上達するだろうな」とブログ英文を読んで考えたのだった。
もちろん英会話のためでなく、英文読解のために。

内田氏のブログは日々の更新分をリアルタイムで読んでいるほかに、過去分を紙媒体に印刷して読んでもいる。
大学院にいた頃に研究室のプリンタで印刷しまくった分(99年~08年を時を遡って読んでいた)は読み終えて、最近は(ちょっと公には言いにくい所で紙媒体に起こした)09年分から時系列順に読み進めている。
読むのは部屋でご飯を食べる時でかつ新聞がない時で、だいたい土日の昼間か日曜の夕方である。
著作もさんざん読んでいるので「どこかで読んだ話」がもちろん多いのだけど、内田氏の扱うテーマは「いっぺん読んだらだいじょうび」なものがないというか読むごとに受け取れるメッセージが変わるので、いまでも飽きずに読んでいる。
というか、文章の内容から何かを得るというよりは「頭の調子を整える」ために読んでいる節もある。
実効性のあるお守りみたいなものだろうか。
あまり思考がスムーズに運ばない時に読んだ方が効果があるのだ。

で話を戻せば、内田氏が確か09年分のどこかで「外国語学習の意義」について書いていた。
覚えている部分だけ起こせば、コミュニケーションのための(一例として)英語は伝えることが主眼で文法よりは身振り的メッセージ(伝える内容と意志とその表現)が大事であり、逆に文法をきちんと学ぶべき理由は「膨大な知のアーカイブにアクセスすること」にある(あらゆる他者に開かれた文章はきちんと決められたルールつまり文法に従って展開されているから)、と。
(その知のアーカイブの比喩として「ボルヘスの図書館」と書いていたが、これは古典小説に出てくるんだろうか?それとも実在する?)
外国語を学ぶ目的がはっきりしていて、その目的と学習内容がしっかりリンクしていれば(このリンクがはっきり見えないのが受験英語で、リンクだけはっきりしていて目的の薄っぺらさが意志を阻害しているのがある種の英会話ではなかろうか)、きちんと時間をかけることで外国語を習得できるはずなのだ。
と思ったので、どこかの節目で英語をちゃんと身につけようかしら。
(ほんとうにまとまった時間がとれるなら読むためのフランス語を学びたいのだけど)
どっちにしろ今の会社にいる間は外因がなければやんないだろうな。

ゆくくる本題に入る前に一区切り。
ちょっと大掃除してきます。  17:02

+*+*+*

さっき続きを書き始めて5行くらい書いた時に、いきなりPCがシャットダウンした。
何事?と思ったら「Windowsキー」をシフトと間違えて押してしまったらしい。
運悪くそのすぐ次にU(終了)かL(ログオフ)を押してしまったために、落ちた。
しかし運悪くと言いながら実家でブログを書いていてもう何度かやったことがあるので、キーボードのキー配列が良くないのだと思う。
自分のブラインドタッチがてきとう過ぎるのかもしれないが。
タイプウェルでがむしゃらに鍛えてたからなあ…
そういえば自分の打鍵速度はタイプウェル上では10打/秒でけっこう速いと思っていたのだけど、会社に入ってからみんなふつうに速いことに気付いてから自然とタイピング熱がおさまってしまったのだった。
若い人にとってはスピードタイプも当たり前なのね。
隔世の感ですな…という加齢発言はさておき、本題に戻らねば。
あ、こまめに保存しよ。

+*+*+*

今年の出来事はこれくらいにして。
いきなり話が大きくなるけれど、自分の生き方について書いておこうと思う。
今の自分が思う、これから生活していくうえでの、方針の大枠のようなもの。

 ①多様性を守る生き方
 ②感受性を下げない生き方

まずひとつめ、多様性について。
選択を迫られる機会は生活のいろんな場面においてある。
その選択の結果が個人で閉じる場合と、他人に影響を与える場合がある。
個人で閉じる場合にはこのテーマが問題となることはない。
というか、この問題を考えることが個人で閉じる選択肢を狭めるようなことはない。
複雑なのは後者の場合だ。
会社で仕事をする時はまずもってそうだが集団で行動する時、ある選択に対する価値観は一人ひとりが違っていても集団全体として一つの選択をしなければならないことがある。
例えばワンマンの社長が仕切る会社であれば、社長の経営方針の選択に全社員が同意するということ。
2人以上を集団とすれば、そのような選択はサラリーマンが仕事をするにおいて日常茶飯事である。
その選択の際に、選択権が集団の中の特定の人間に委ねられていることもよくあるが、では権限のない構成員は選択の場にいる意味がないのか? といえばもちろんそんなことはない。
ないはずなのだが、それが建前止まりで実際は意味がないことも多い。
下っ端が何を考えたからといって仕事の方針ががらりと変わるわけではない、結局は上司の気分次第だ云々。
それは事実かもしれないが、それを事実と認めて思考が終わって、得るところは何もない。
人間の脳は「頭の中で考えた通りの現実になる」ことに一定の快楽が得られる仕組みになっていて、その快楽はこの事実認知で確かに得られるだろう。
自分はそれでは物足りないと思う。
考える甲斐がないというか、思った通りのことが起こって何が面白いのかと思う。
想像内容を実際に目で見て確認できることに、価値があるのだろうか(あるのだろうけど)。
技術が未熟であった時代は、ある種の想像が夢と呼ばれ、技術の進歩によって夢が現実となったとされた。
そのメタファーだろうか。
その昔の「ある種の想像」は簡単には実現できなかったからこそ、実現する過程を思い描くことすら困難であったからこそ夢と呼ばれた。
簡単に実現できる、あるいは「ああすればこうなる」と過程が容易に思い描ける想像をそれと並べてよいのだろうか。
「満足感を得るためだ」と言い切れるのなら反論も何もないが、それ以上のものを求めてしかしそれは原理的に得られないから恒常的に不満を感じているのが現状ではないのか。
…この話はちょっと具体的にしにくいし、話が逸れてしまった気がするので戻る。

多様性を守る、という話だった。
この一見抽象的に過ぎる標語をそのまま行動指針にしたいと思っている。
すなわち、「ある選択をする際に多様性の維持を第一に考える」状況をありうるものと想定している。
(たとえば…と例を書こうとして全く思いつかない。ディテールに興味がないとここで躓く、と分かっているのでしょうがないとは思うけど、人に理解してもらおうと思ったら「分かりやすい例示のストック」もせんといかんのだろうな。正味そうさせんとするインセンティブもないのでやっぱり放置するのだけど)
多様性を第一に考えるというのは、極端にいえば「内容そっちのけで」である。
もちろん(合理的な、またはある感覚に基づいた)選択の根拠が必要なのだけど、その根拠についての思索を大事にしたいのだ。
多様性を守る、とは「少数派を守る」と言い換えることもできる。
少数派の意見が、少数派というだけで切り捨てられることのないよう尊重されるのが民主主義の原理だ。
それはつまり、少数派の意見の遇され方によって、民主主義が機能している度合い(「成熟度」とよく呼ばれる)を測ることができることを意味する。
多くの人が考えもしないことというのは、決して考えてもムダなことでも、考える価値のないことでもない。
周りの目を気にしながら意思決定が行われる社会(つまり日本社会ですけど)では、「思考の穴」が、他の社会も同様に存在するかもしれないが、その存在が明確にされない、つまり「なかったこと」にされやすい。
だから、もし市民社会において民主主義が維持(されていなければまずは「確立」)されなければならないというのなら、そのような社会においてこそ少数意見の存在そのものが重要となってくる。
…僕自身はいちおう(と書いてしまうのは「定義を言え」とか言われるとまともに喋れないからだが)民主主義は維持されるべきと考えているのだが、それは「思想の自由」のためだ(もしかすると関係ないかもしれない…うむ、自信がない!)。
 21:44追記 そういえばこの辺で書こうと思っていたことがあった。
 上の話を少し言い換えると「選択の際に少数派の尊重を第一に考える」となる。
 この発想は村上春樹のエルサレムでのスピーチ(「壁と卵」の話)がもとになっている。
  もとは人がつくったが、人そっちのけで膨張を続ける(政治)システムという壁。
  その壁に対し、個人という卵は時にあまりに無力である。
  僕はどれだけシステムが正しくとも、個人が間違っていようとも、個人の側につきたい。
 内容の一部を要約すればこんな感じだったと思う(スピーチの文章は内田氏のブログで読んだ)。
 正しさに関係なく、という部分が一見過激に見えるかもしれない。
 けれど、戦争も虐殺も迫害も、全ては正しさの名のもとに遂行されたことは歴史が物語っている。
 「人の命は何より大事」と言ったその口で、何の違和感もなく人を殺してきた。
 抽象すれば、同じ過ちを人は何度も繰り返してきた。
 その一回一回において「同じ過ち」という自覚がなかったのは確かだ。
 そうであれば、同じ過ちを繰り返さぬためには、同様に抽象的に考えなければならない。
 それは例えば、言葉の正しさ(論理性をその原理とする)を乗り越えることだ。

と、勝手に話が難しいところに向かってきたところで晩御飯の時間となりました。
おせちです。わくわく。
しかしこれ続くのかな…  19:28

続きません(ぴしゃり)
言いたかったことだけ、もう一度言い直しておく。
ある選択の根拠についての思索を大事にしたい、と言った。
それは、とある大きな流れがあるとして、この流れに乗らない方がよいとなんとなく感じた時に、その「なんとなく」を形にしようという努力をまずはしたいということ。
何も考えずこの流れに乗ってしまうのでなく自分が立ち止まりたいと感じている理由を言葉にしようとするのだが、それは言葉にできるまで判断を保留するという意味ではなく、むしろ言葉にしたいという思いを胸にその大きな流れとは別の流れに乗るという能動性に繋げたい。
能動性と言いつつも、これは大きな流れとの対峙がスタート地点であるからして受動的であるとも言える。
とはいえ、たぶんその表現はどちらでもよくて、大切なのは「行動は思考の放棄ではない」という認識。
決断というのは、一連の思考が結論に至ったからできるというような生易しいものでは本来ない。
選択の判断基準が明確でなく、確固とした理由付けが確立できぬままに選ばねばならない時に、それでも「なにか」を根拠に方向性を決めることを決断という。
その「なにか」は、決断して行動してから、事後的に言葉にできるのかもしれない。
その可能性を捨てないこと。
逆に判断基準の明確な選択というのは、結果のフィードバックにたいした意味がないのではないか。
結果が予想通りにせよ外れたにせよ、選択前の水準の思考で話がまとまるのではないか。
「跳躍」がなかったのだから。
つまり、選択の前後で主体はなんら変化しないのだから。
…抽象的過ぎるかな、うん、この辺で。


ふたつめ、いきましょう。
「感受性を下げない生き方」をしたい。
これは分かりやすくて、五感の感度を下げないで過ごせる生活がしたい、ということ。
ざっくり言えば、人は脳が支配的となる活動領域においては感受性を下げる、鈍感になることを強いられる。
まずは都会がそう。
全てが「ああすればこうなる」で設計された場所では、秩序の形成が全ての前提にあり、確実性が尊ばれる。
五感が確実性を嫌う、とだけ書けば分かりにくいけれど、確実性を「一定の入力」と言い換えればいい。
触覚も嗅覚もそうだけど、それらを構成する器官が検知できるのは客観化可能な絶対値ではない。
 裸であれば皮膚が身体の最表面だが、服を着れば身体の最表面は布地になる。
 臭いの異なる部屋に入ってその臭いが気になるのは、部屋に入った瞬間に限られる。
刺激の検出器そのものが可変的であるために、惰性にとても弱いのだ。
違うか、正確に言えば、検出器が受け取る刺激(の次元)が「絶対量」(物理で「位置」と言えばすぐ分かるのだが)でなく「変化量」なのだ。
抽象的な意味で、都会では「絶対量」は乱高下(らんこうげ)までするにしても「変化量」は変わらない。
だから、原因結果の完全なる予測で覆われたシステムの中にいると、五感の閾値はどんどん下がる。
僕は、そのようなシステムを居心地がよいと感じるようになりたくはない。

その理由について、そういえば掘り下げたことがないかもしれないが、恐らく話は込み入っている。

という続きを、書く前に、ケーキを、食べようかな?
山登るんで、エネルギィ補給をば、ね。  22:14


あ、ゆっくりしてたら時間がやば。
永ちゃんはいつまでも若いね(あんましらんけど)
てことで、行ってきます。

みなさま、よいおとしを。 23:05

+*+*+*

無事、下山してきました。
ウデが冷えた。。
下半身の方が薄着やったのに、足はへいちゃら。
腕振って歩かんと上半身はあったまらんのかね。

特に何もなかった気はしますが、気が向けばゆくくるの続きの前に何か書こう。

ということで風呂入ってさっさと寝ます。おやすみです。  26:15
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by chee-choff | 2012-12-31 17:03 | 思考