深爪エリマキトカゲ
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◆ ゆくとしくるとし('12→'13)1
帰ってくる時の話。

普段から時間を気にするという生活をしていないため(朝起きてから出勤前と寝る前以外はほぼ成り行き任せの時間感覚。仕事中も然り。まあそういう職場です)、電車とかバスの時刻表にはめっぽう弱い。
帰阪しようとなんとなく思ってからバスの時刻表を見て、次のバスには時間があまりないと気付いて準備をてきとうにして出てきたせいで、新幹線でと思ったのに読了済みの本を持ってきてしまった。
こういう時にならないと新品で本を買う勢いがつかんのだなあとその時思って、まあそれはブックオフの羽振りが良すぎるから悪いのだけど(費用対効果の話をすると。たとえば105円で1週間が面白く過ごせるなんてこと知ってしまったらもう…ね、いろいろあほらしくなる。もちろんモノサシはたくさんありますが)、小田原駅の三省堂書店で文庫棚を購入前提で眺めることになった。
そうすると「今自分が最も読みたいと思う本」を探さねばと気張ってしまうのが普段の行動パターンなのだけど、今日は何冊も候補を挙げて逡巡するようなことはなく、手にとって「あ、これやな」とほぼ即決したのが鶴見俊輔の『思想をつむぐ人たち』。
軽めの本で、と思っていたのが鶴見俊輔という名前に惹かれてしまった。
そして読み始めてから「今自分が読むべき本だ」と気付く。
考えすぎは良くないね、時によっては。
年末年始はこの本とお付き合いすることになりそう。

+*+*+*

今年一年は、自分にとって、どのような年であったか。
もちろん自分のこと書くつもりだが、本ばかり読んできた生活から出力されるのは「(他)人の話」ばかりになりそうな気がする。
こういう小説を読んで、あるいはこんな評論を読んで自分はこう感じた、こう考えた、というのは読書感想文あるいは書評であって、一部そんな話にもなるとは思うが、やはり個々の作品に対してというより読書生活の総体について、振り返ったり客観化したり、他の生活要素との関連や「その先」について考えたりしたい。

「その先」という言い方は読書の目的とか進む方向性みたいに聞こえるけれど、そんなことは考えていない。
別に考えてもいいけど、それも一つの前提を満たしてからのことである。
なにかといえば、「今の自分の充実に繋がること」。
これを自分は「純粋刹那主義」と呼びたいと思う。
刹那主義とは後先考えずに今現在を享楽的に生きることであるが、「今現在の充実」を追求するという点で純粋刹那主義と刹那主義は共通するものの、「今現在の充実」の中身が両者で異なる。
純粋刹那主義は「今現在の充実」の中に過去の思い出も、将来設計も含んでいる。
つまり、過去と未来を、その形の確定・不確定を問わず現在の充実に繋げるような生き方のことだ。
刹那主義は暗澹たる未来が予測できたとしても、その予測を完全に忘却して今の充実のみに目を向ける。
それを「視野を狭めることによる充実の追求」と捉えた時に、純粋刹那主義はその逆のスタンスとして、すなわち「視野を広げることによる充実の追求」と表現することができる。
 なぜこのようなスタンスに「純粋」とつけるかについて触れておく。
 ある種の人間は、今を純粋に楽しもうと思った時に過去や未来を含めて考えることを避けられない。
 それは自分のことだけを考えようと思って他者を考えざるを得ない人と似ている。
 (後者のような人間にはノブレス・オブリージュという性質が備わっている)
 今の今だけを見ていると不安になってしまう人、彼は今だけを考える技術(気楽さ?)が足りないのでなく、
 未来や過去も含めて考えて初めて安寧が得られる人なのだ、という捉え方もアリだと思う。
 もしかするとそれらは「未来や過去のコト」というだけで、時制は全部現在と考えてよいのかもしれないが。
過去の失敗にしろ、未来の懸案事項にしろ、余計なことを考えて今が塞ぎ込んでしまうこともあろう。
だが、それは「過程」なのだ。
幸福な状態が永続しないことと同じ理由によって、不幸な状態も永続することはない。
しかしその「永続することはない」という事実を素直に受け入れることで、「ひとつうえの静かな境地」に立つことができる。
「それもまた過ぎ去る」
つまり、そういうこと。

常にとまでは言わずとも、然るべき時に、「静謐」とともにありたい。


という書き出しになりました。
とりあえずすき焼き食べてきますーうふふ 21:00

+*+*+*

ふたたびウィスキーにはまりました。
実家にはそれはそれはおいしいお酒があって、「マッカラン13年」というらしいのですが、ストレートで1ショットをちびちびなめるように飲んでおりますと、これがなかなか香りが良くて、スーッときてカーッときてくーっという感じなわけであります。
「ストレートでちびちび」は寮でも濃い目のお酒(生薑と林檎のお酒、老酒など)でやってるんですが、来年からはウィスキーも仲間に入れてやりましょう。
きつけには一番効果がありそうな気がいたします。
「次の日にどれだけ残るか」をまずは実家で試しておきましょうか。
(今『海辺のカフカ』(村上春樹)を読んでるから寮でのウィスキーはジョニーウォーカー氏にしよう)


はい、てなことでレコ大見ながらマッカランをちび飲みして(運び屋ぱみゅ氏は歌手やったんすね)、今はジャックダニエルを飲みながら書いてます。

話を戻して…純粋刹那主義、はもういいか。
今年を振り返るとしましょう。

+*+*+*

今年は何があったか。
上と書いてることと早速違いそうだけれど、まずは読書以外の、主に対人的な出来事を振り返ってみる。
と、一番最初に思い付くのは10月はじめごろ(ちょうど所属グループが変わって仕事が落ち着いてきた頃)から始まった「とある流れ」なのだけど、これについては思うところがたくさんある。
たくさんあってでも書けることがほとんどなさそうだと思うのは、言い直せば「書かない方が良さそうなことがたくさんある」ということ。
それはとても人目に晒せない私秘的な話というわけではなく、言葉として定着させない方がよい曖昧な思いがある、ということ。
曖昧を曖昧のままにしておきたいのは、冷静で客観的な視点に基づいた分析対象にしたくはないということ。
だからほんとうはこの話題にすら触れない方がいいのかもしれない。
けれど、その「とある流れ」は日常的に自分の念頭に一定の位置を占めており、一定と言いながら可変的に膨縮を繰り返していて、読書の時も何か考える時も完全には無視できない要素となっている。
そんな重要な要素を、これまた日常生活で大切でもはや欠くことのできない言葉とのやりとりに、参加させないでいられる道理もない。
 ちょっと逸れるが「言葉とのやりとり」という表現に、言葉は使うものではないというニュアンスを込めている。
 そうでなく「言葉と対話する」のだけど、そうすると僕は何を用いて言葉と対話するのか?
 対話というからには言葉のはずだが、言葉は対話相手であってツールではない。
 用いるのは「イメージ」だ。(続きはたぶん後ほど)
ただ僕が望むのは、その「とある流れ」 のただ中に、まさに現場にいる時は、その流れに余計な思念を介在させず身を浸すことであり、「とある流れ」から少し離れた時にその現場での振る舞いを振り返って後悔しないようにすることであり、現場での自分の自然な振る舞いを妨げないように思考をしていくことだ。
そして後悔しないようにするということは、きっと「結果を口にしない」ことだ。
流れの中にあって、総括なんてできるわけがないし、してはいけない。
その流れの中にいて、自分が苦しいのであれば、別の認識を得るために総括(意味付け)をする意義はある。
しかし、これも確かなことだが、「とある流れ」そのものに対して、僕は心地よさを感じている。
勝手に引き寄せられている、と言ってもよい。
その「とある流れ」のただ中にいる時と少し離れて一人でいる時の思考が、いやそれに加えて身体感覚も全く違っていて、ただ中にいる時の自分はその(全く違うという)認識を経験する毎度ごとに嬉しい驚きを感じるし、少し離れた時の自分には的確に把握し切れない未知のものがそこには溢れている(未知そのものは少し離れた時の自分にとって格好の分析対象ではあるのだが、それは上記の通り自制すべしということだ。未知にも種類があって、「解明すべきでない未知」というか「未知なる未知」とでもいえばよいのか。まあ後者のように言って、では「既知の未知」とは何ぞやと聞かれれば、さあ何でしょうね笑)。
流れには敏感に、決して感受性を閉じることのないように。
(ガッツのある人は何の話題か想像してみて下さい。面倒くさい書き方ですんませんー)

さて、次。
上の話とつながりがあるのだけど、自分に素直になることにした。
この一つ前の記事でさわりだけした話。
なにかといえば、自分の渡世スタンスとして「流れはつくらないが、そこにある流れが自分を巻き込む予感があって、それが面白そうなら流れにのる」というものがあるのだが、この中の「自分を巻き込む予感」が今まで何度か暴走したことがあった。
簡単に言えば、本来自分に関係ない話に「自分がお呼ばれしている」と思ってふらりと顔を覗かせてしまったのだ。
しかも好奇心旺盛な顔で。
飲み会でもそうだが呼ばれてないのに来る奴というのはたいてい鬱陶しいもので、それは本人に自覚がないからこその厚顔無恥なのだが、ご多分に漏れず自分もその一人を演じていたことになる。
それを本気で演じていたかどうかは周りの人には関係がなくて、もちろんそれは本気にしろ冗談にしろ鬱陶しいことに変わりはないからだ。
ここでいう冗談とはおそらく「かまをかける」といったニュアンスになるはず(呼ばれたわけじゃないことは分かってるけど、仲間に入れてもらえるなら加えてよ、という感じか?)だが、これが相手の目に調子良く映るか不誠実に映るかは、ひとえに「もともとの自分と相手の距離感」に因るのであって、この距離感を僕は軽視していた。
だんだんと縮めるべき距離をいきなり飛び越えてやってきた人間に対して、人はまず驚く。動揺する。
その驚きが好意に化ける場合というのは、ほとんどない。
当然。
で、当たり前が面白くないとかほざいていた自分は「流れに乗っただけ」と無責任発言をなんとも無垢にほざきながらびよーんと不誠実な跳躍を披瀝し、何人かの善意の人間を困らせた。
やれやれ。
…これは(ハルキストとして)使い方が悪いな。
反省。そんでこれも含めて重ねて反省。
そう、話を戻せば、なので(ここで順接はおかしいかもしれない)実は↑は全然素直な振る舞いではなかった。
というのも、ありもしなかった流れをつくって乗り込み、ある節目にたどり着いて相手の困惑を目にする前から「あ、これはないな」との自覚を得ていたのだ。
自分の心を冷静に見つめていれば、その展開は予想できたはずなのだ。
そして、ある種の流れの判断をする時の自分がとても「軽い人間」であることが暴露されてしまった。
…これは「素直すぎるといけない」と語っているようにも聞こえるが、実はその方が表現が近くて、そして今思い至ったのだが、この節で言いたかったのは「相手とのコミュニケーションは地道にやる」ことの方だった。
自分と相手との関係は、普段の直接の言葉のやりとりの中で形成される。
大事なところでメールに頼っていた自分は、はっきり言って中学生レベルだ。
普段から想像力を暴走させている人間がメール中心でコミュニケーションをはかればどうなるか。
うん、失敗します。確実に。
ということで、メールはあんまり使わないことにしました(あーほんと中学生レベルだ)。
携帯電話の使いどころは、もっと先にある。
(というような生活をしています笑)

+*+*+*

反省ばっかしてるな自分。
それにとても眠くなってきた。
ウィスキーのせいだろうか。
ということで今日はここまで。  25:00
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by chee-choff | 2012-12-30 21:05 | 思考