深爪エリマキトカゲ
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◆ 六連休の四日目みたいな疲労
今週は月と金(今日)に有休をとって週休4日です.
が,「今日から3連休」という感じではない.
なんかもう出勤も有休も違いがないような.

会社の勤労管理システムに有休の理由を書くんですが,
いちおう今日病院行ったんで「通院のため」って書いたんですけど,
誤変換で「痛飲のため」にしたら笑えないなあとか.

今日病院に行ったのは花粉症のお薬をもらいに.
前にもらった1ヶ月分が切れたからなのだけど,
気がつけば恐ろしいスピードで1ヶ月が過ぎていた.
そう,気がつけば3月はもうおしまいだったりもする.
花粉症の時期は「自分を保つのに精一杯」なのはしょうがないけれど,
自分のことだけを考えて過ごす時間のなんと短いことか(体感が,ね).
これはきっと普遍的なことで,そして自分はあまりよろしくないなぁと思う.

風邪は快方に向かっていて,一方で花粉症は引き続き抑えられていて,
「この時期のベスト」と思われていた状態がどんどん上方修正されてはいて,
それでもタイトルに疲労と書くのは「蓄積されてる分」の話です.
今日は駅前の病院に行ったのでいつも通りブックオフにも行って
(『アウトブリード』(保坂和志)を105円でめっけた!これ定価2100円なのね…ハードだなあ)
ベローチェで読書もして
(体調的に軽い新書がいいなあと『<対話>のない社会』(中島義道)を読み始めたが,
 何を勘違いしたのかぜんぜん軽いはずはなかったけど不思議にしんどい今と波長が合い,
 隣でぺちゃくちゃ喋る中学生(話だけ聞こえてそう思ったが見てみたらたぶん大人)の話と
 本の内容がこれまた不思議に共鳴して不思議に(説明せい説明)思ったりした)
コーヒー1杯飲む間に水を8杯も飲んで不審がられたかもしれないが
(店内に90分いる間にグラスが2回割れる音がしたけどまさか僕のせいじゃないよね)
いろんなことを考えながら考えるだけに留めて病院行ってさっさと帰ってきました.

考えることを「考えるだけに留める」のは思考内容に感情移入しないようなことでもあり,
(この「感情移入する」は「当事者になる」といったニュアンス)
でも今日みたいな体調が悪い時のそれは別の意味も帯びているようで,
それはむしろ逆に「感情移入のための手間が省けた状態」を指しているようにも思える.
というのは簡単にいうと,
何やらしんどいことを考える時に没入しようと思うなら,
元気な時よりもしんどい時の方がやりやすいね,ということ.
で,「しんどいこと」はすごくおおざっぱな表現ではあって,少し具体的にするなら,
「直視しづらい本質的なこと」とか「今の自分の価値観を揺るがすこと」だとか.

という意味で(どれだ?)今日は外出から帰宅するまでの思考がなんだか「するり」としていて,
普段の自分ならしそうな躊躇がそこにはなく,それを振り返る今の自分は「おお」と思う.
きっと調子がいいのではなくてどこかが麻痺しているのであって,
でも思考をじっさいに回す部分は麻痺もなく疲労もなかったからでしょうね.

でいくつも思いついたことがあったので思い出せる限り再現しておく.

まず「2種類の可能性」について.
(1)「子どもに宿る無限の可能性」とか,僕がよく引く「可能が可能のままであった頃」という時のは,
その主体が可能性を発揮することはイコール主体の変化でもあるわけです.
選択肢はたくさんあって,その一つをいったん選んだならばそこから自分はどんどん変わって行く.
「選択を間違えた」と思った彼は選択した当時と変わっていないのかもしれないし,
ある程度変わったからこそ次の変化を求めていったん立ち止まることを「選択した」のかもしれない.
(2)一方で,消費主体としての選択可能性というものがある.
これは相応のお金と引き換えに商品や経験を得る選択肢の広さを言っていて,
選択肢の広さとは言わずもがなで「どれだけお金をもっているか」です.
この消費主体の特徴は何かというと(1)と正反対で,
「選択の前後で主体が変化しないことが前提」です.
これを実感ベースで説明するのは今思いつかない(か忘れてる)のでしませんが,
代わりに「経済活動」という枠で説明してみます.
お金を信用して経済が回っている以上「お金の信用」は何よりの大前提で,
これは経済活動の範疇においては何が起ころうが「変わらない」.
逆に言えばそこが変わる時に行われている活動は経済活動ではない.
消費主体はお金に信用をおいている限りは消費主体であり続ける.
お金で経験を買って「スキルアップする」とか「生活を充実させる」とか言いますが,
それは消費主体であることをそのままに自分を変えようとしているわけです.
それが上っ面の変化だと言いたいわけではなくて,
例えば消費主体が消費主体であることを(普段は意識しないけれど)忘れることは
「自分の根っこに変わらないものがある」ことを意識しないことでもあります.
それが足かせになることがある,と言いたいのだけれど,
これは「プロとアマチュアの違い」といえば分かりやすい.
「生活のために妥協しなければならない」ことは一つの足かせです.
仕事で稼いだお金で生活している人は,その意味で「その仕事のプロ」で,
その仕事が自分のプライベートを制限している(時間は減りますね)だけではなく,
生活がかかっているという意味で仕事に関わる行動に足かせがはめられている.
これは当たり前で,「それをわざわざ足かせと表現する意味はない」という声も聞こえそうですが,
僕は「意味はある」と思います.
これは前に書いた「生身の無常観」に通じる認識でもあり,
『薄氷の踏み方』(甲野善紀・名越康文)で名越院長が大切という「認識」の一例でもあります.
(この本についてはまた書きたい.書評として書くのは難しそうだけれど…文句なしの☆☆☆☆☆です)

話がずれてからいつも以上にずるずると引きずってしまったのは,
「戻るのにも体力が要る」からですね.
さて戻りますと,二種類の可能性の話でした.
(「変化を前提する可能性」と「変化を前提しない可能性」の二種類ですね)
そしてもんのすごいおおざっぱに言いますと,
「この二種類の可能性を混同したところに時代の早とちりがあったんではないだろか」
と思ったわけです.
これは「労働より先に消費を体得してしまう消費社会の教育における弊害」と
同じようなことを言ってるんでもありますが,
(あと「期待通りの自己実現」とかいう変な話もありますね)
帰りのバスの中で考えてる時はもっと広くというか違うことを考えていたような…
まあ,忘れました,はは.

そして一つのことを長く書き過ぎてあと全部忘れちゃいました.ははは.
たぶん『薄氷の踏み方』(今日読了しました)を読み返せばぽこぽこ出てきそうなので,また.
で,本書を読んで一つだけ気になったところを.
きっと他に指摘する人がいなさそうな話なのだけれど,
甲野氏は本書の中で何度も「(甲野氏の)生きる意欲(の有無)」について言及していて,
本書の内容もすごいけどこのことが示すこともかなり大きいんじゃないかと.

甲野氏の著書もいろいろ読んでみようと思います.
『剣の精神史』とか.

あと言い訳っぽいこといいますけど,
今日の筆致の疲れ具合は中島氏の著書の影響を強く受けているという自覚を持っています.
なんか丁寧語だしね(なぜ?)
おしまい.

+*+*+*

タイトルを見直して思う.
多分自分は連休があまり好きでないんでしょうね.
もちろんそれは会社人間だからではなくて,
「リズムが崩れる」から.
それは会社人間の言い分じゃないか.
違います.

+*+*+*

ああ思い出した.
上まで書いて一度送信して見直そうと思ったら思い出した(と書く意味は何もないんですが).

「自分のことだけを考えていられる幸福感」
というものを今日自分に対して感じたのでした.
それは体調的にそうせざるを得ない,という状況があってのことなんですが,
…これなんか分析しにくいですね.
まあ感想だけいうと,
周りが見えないで自分中心に振る舞えている人はその間は幸福で,
そしてそれに邪魔が入ると一気に不幸を体感するんだろうなあと.
自分は「不機嫌な顔をわざわざ露にする意味」なんて功利的に考えてもないだろうと
日頃から思っているんですが,そうせざるを得なくなる状況について
今日はうっすらと想像が及んだのでした.
まあこのことで自分の生活態度が変わることはなさそうですが,
今までにない方向の「想像の芽」を今後伸ばせる可能性を見つけられた気がします.
もちろんこの「可能性」は上でいう(1)の方です.

今度こそおしまい.
そしてきっと23年度もここでおしまい.
よいお年度を.
違うか.
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by chee-choff | 2012-03-31 00:07 | 思考 | Comments(0)