深爪エリマキトカゲ
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◆ 生と死のアモルファス
以前,同僚M氏とこんな話があった.

 人はいつ死ぬか分からない.
 身近な人が唐突に亡くなるという経験も30年も生きれば一度はあるだろう.
 あるいは医者に癌と言われ余命を宣告された時を想像してみる.
 きっと病室の窓から見える木々の緑が輝いて見えるだろう.
 だからこのことを念頭に生活していけば毎日を本気で生きられるのではないか?

 でも実際はそうならない.
 いつ死ぬか分からないとずっと考えていれば気持ちは暗くなる.
 「どうせ死ぬのだから」と気持ちが負に転化することも想像に難くない.

 ではそんなことを全く考えずに日々を過ごせばよいか?
 …重苦しく考えずともそれにノーと言わせる実感がある.
 今を一心に生きる姿が輝いて見えることはもちろんある.
 だが日々のコミュニケーションに垣間みられる「生の軽さ」の淵源もここにある.

 「人はいつ死ぬかわからない」.
 このことを忘れずにしかし同時に暗さを抱え込まずに生きる.
 それがきっと大事なことだと思うが果して可能だろうか?

確かそのような話の流れの中で,僕は「身体を敏感にしておくことが大事」というようなことを言った.
(その時はそのまま「脳化社会」(@養老孟司)の話に流れていった気がする)
日頃から身体性に深い興味を持つ身として自然と口を衝いて出た言葉だと思う.
それは一面では正しいはずだが,やはり言い足りないものがあった.


今日ある音楽を聴きながら本を読んでいて,唐突に「無常観」という言葉が出てきた.
「行く川の流れは絶えずして…」である.
この言葉には何やら冷めた感じがし,生の躍動から遠く離れた印象を持つかもしれない.
だがそれは無常観という言葉を「純粋な客観的視点」と捉えているからではないか.
裏を返せば,ごく主体的な,生身の一人がもち得る無常観というものがあるのでは,と思ったのだ.
(この話とウチダ氏のいう「不条理」(@カミュ)とも繋がる気がして大変興味深いのだが
 これはまたどこかで.『ため倫』をいつか読み返したいな…)

そしてその「生身の無常観」と自分の思考のポリシーが繋がっている気がしたのだ.
そのポリシーとは,「考えることから逃げない」こと.
何度か書いてきた通り,3回生の時に意志したこのポリシーにより僕の日常はがらりと変わったのだが,
これは極言すれば「考えてはいけないことなど何一つない」という静かな宣言でもある.
もちろん「あることを考えること」と「それを口に出す」ことの間には千里の径庭がある.
(その距離を埋める欲望を拒むこと,そのことから「ためらい」が生まれる)

ある種の思考を(無意識に)拒否したところから「生の軽さ」が生まれる.
もしそうなら,じゃあ考えればいいじゃないか.
そんな単純なことかもしれない.
そう,始まりはいつもシンプルなのだ.
(お,なんだか村上春樹っぽいぞ)


ちゃんと言葉にしてかんとな,と思う.
二人を流れる時間が今はゆっくりであると信じて.
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by chee-choff | 2012-03-17 17:01 | 思考