深爪エリマキトカゲ
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◆ interlude - しじま、つつくら -
紅白を見ていての感想が,

「松山ケンイチが笑い飯にしか見えない」

の一言しか思い付かないままだらだらと大晦日の夜を過ごし,

途中で卒業アルバムを見ようと思い立ち,

いつも高校のを見てるから今年は中学のを見ようと思い(なぜか小学校のは行方不明),

同学年の旧友を眺めていて「あーいたなぁこんなやつ」と嘆息すること多数.

しかし(少なくともクラスメイトになったことのある人の)顔と名前はバッチリ覚えていて,

その声まで再現できるのだけど,その人に関わる出来事が何も出てこない.

既に固定化した印象の強い出来事はいくつかあって,でもそれが登場人物を思い浮かべて

はじめて小学校だったか中学校だったかが分かるところに少し不思議さを感じる.


 体験が記憶としてそのまま残らず,意識化しにくい形に変わって身体の底に沈んでいる.

 僕は昔からたいへん寡黙だったらしいが(実家に戻る度に祖母がそう語ってくれる),

 僕の記憶というのは意識化しにくいのではなく,言語化しにくいのかもしれない.

 そして意識化のしやすさとは実は言語化のしやすさなのかもしれない.

 とすれば,「昔の記憶があまりなく寂しい」と自分の過去について僕が思ったのは

 言葉に触れる機会がぐんと増えてからのことだった(だから学部4回生頃か)はずだが,

 あれは「記憶を言葉に表現することができない」ことを嘆いていたのだろうか.


 言葉を使わずとも,昔の記憶が今に息づく瞬間を感じる手だてはある.

 そしてその手だてを導くことができるのは言葉であることを僕はもう知っている.

 言葉を信頼することで,言葉で表しきれない自分を信じる.

 言葉が,そして言葉と共にある人間が,そのアクロバシーを体現できることを僕はもう知っている.



記憶に残っていた同級生の顔とアルバムに載っている当時の顔との差を楽しみ,

みんなが中学生に見えないのは自分のアルバムだからだろうか…

などと物思いに耽っていると,いつの間にか時計は23時を過ぎていた.

大急ぎで着替えて防寒対策を身体に施し,運動靴を履いて外に出る.



 今年の大晦日はあまり寒くないな.

 空は全国的に曇ると言っていたが,視界の所々に星が見える.

 往復とも山道を歩こうか.


変わったところといえば,

山道の入り口近くの竹籔が切り開かれ,新しい家がいくつか(といっても数十件)建っていた.

そういえば散髪屋のおっちゃんも「人がどんどん増えている」と言っていた.

大阪・京都の両都市圏に電車一本で通えるベッドタウンとしてここらは住み易いと聞いたことがある.


山道は去年と変わりなくあった.

曇っていて月明かりが弱々しく,自分の歩いている道の起伏がほとんど見えない.

どこに段差があったか,どこから舗装されているか,といった道の特徴を,

そのパターン変化に足裏が触れて初めて思い出す.

歩くのが年に1回ではさすがにそこまで覚えられないらしい.

ただ経験から醸される安心感ははっきりとあって,

調子に乗って上を向きながら歩くと幾度か地面の凹凸に足をとられた.


山道の途中で参拝者のグループに追いついたのでゆっくり歩く.

家を出た時刻からするとぎりぎりだったはずだが,もう諦めて時計(携帯)は見ずに後ろをひっそりついていく.

「ここ段差あるよ,気ぃ付けな」

おじさんが母親の後ろを歩く小さな女の子に声をかける.

会話を聴いていると年輩方と親子連れは他人同士のようだ.

女の子の歩みをじっと見守り,声に気配りを隠さないおじさん.

「優しいおとな」だと思う.

 「大人には3種類いる.

 優しい大人はめったにいない.

 優しくない大人には近づくな.

 いちばん危険なのは,どっちでもない奴らだ」

 たしか『優しいおとな』(桐野夏生)で,双子の少年は主人公にこんなことを説いていた.


新年には間に合わないと途中から諦めていたが,

石清水八幡宮の敷地に入り,休憩所を見渡せる砂利の敷かれた広場に着いたところで0時を迎える.

どちらかといえば間に合ったと言ってよいタイミング.

放送が流れ,拍手がちらほらと起こり,新年の挨拶が入り交じる.

礼を交わす男女も何組かいたが,ある向かい合ったカップルがふと目に留まった.

人混みから離れて立つ二人は2メートルほど離れていた.

頭を下げる仕草に落ち着きがあり,表情は見えないが二人で柔らかな沈黙を共有していた.

見ているこちらも心が安らいだ.


参拝者が増えると予想されたのか,本殿へ通じる参道を仕切って順路が作られていた.

確かに人は多かったが,特に去年より増えたとは思わなかった.

長く立ち止まることもなく南総門をくぐり本殿の見える位置までたどり着き,

やはり賽銭は入れずに参拝者の観察を始める.

それが習慣付いてしまったのか,去年や今年について思い巡らすこともなく,

すぐに背景に溶け込んでぼーっとする.


色んな人の顔が,その表情が見える.

誰かと一緒にいる人も,独りでいる人も,周囲を見渡すことはない.

遠くに目を向けるのは,遠くに知り合いを認めて手を振る高校生や

母子の歩みの遅さを何ともなしに見つめる父親.

視線の遠さからして僕は異質であったが,居心地は特に悪くない.

 異質(特異点)が目立つ場合と目立たない場合がある.

 人々が周囲への注意を欠いていれば,異質は目立たない.

  人々が周囲への注意を欠くのは,個々に満たされているか,または個々に余裕がないか.

  両者の違いが顕れるのは,人々の間で,または人々と異質の間で衝突が起きた時.

  一方で人々が周囲に気を配るのも,個々に満たされているか,または個々に余裕がないか.

  両者の違いが顕れるのは,人々の視界に異質が捉えられた時.

 異質のままでいる精神の強さに憧れ,そして憧れでなくなった自分には,

 「時に”人々”になって異質を外から眺めるしなやかさ」が足りないのだと思う.

 つまり傍観者でいいと思っていた自分の視界に,まだ自分自身が入っていないのだと思う.

 そのしなやかさを獲得する第一歩として,いったん傍観者の視点を手放さねばならない.

 そして手放した自分の行く末を,先の見えないまま,信じなければならない.

  きっと,戻って来たいと思う場所は,戻るべき場所ではないのだ.


本殿の外周をひとまわりし,入ってきた門をくぐり出て,焚き火にあたる.

冷え切った腕から先の暖をとりつつ,ふと思い出して右目で火を見る.

火が,赤々と盛る炭が,なんだかリアルに見える.

なんだか熱そうだし,現に熱い.

しばらく見つめ,視点を左目に戻すと,しかしなんだか「帰ってきた」気がした.

ふむ,やはり右目が見るのは「夢」か.

 夢がその姿をはっきりさせてくると,現実は霞むのか? 

 それとも,より強度を増すのか?

 現実と夢の関係が,そのどちらかを決めるのだろう.


恒例の缶お汁粉を外の自販機で買い,

しばらく両手で弄んでから飲む.

缶の側面,アサヒの銘柄の上には「老舗の味を再現」とある.

これは缶で飲む状況も含めての老舗の味だろうか.

 もしそうだとして,この缶お汁粉をお椀にあけて飲んだ時に,

 缶のまま飲んだ場合より美味しくなかったら面白いなと思った.

 やはり味というのは食べ物と食べようとしている人の相互作用なのであって,

 「缶ジュースが”本物”より美味しいはずがない」という先入観を外せればそれは実現可能だろう.

  新商品がひっきりなしに生まれることで,こういった視点は失われていく.

  この視点が「自分の仕事の存在意義を疑う」,ひいては「自分の存在への疑問」に至るとしても

  (それに薄々気付いているからこそ誰も考えない),やはり寂しいなと思う.

   哀しみの先に喜びがあり得ることを知っていて,なぜニヒリズムを嫌うのか.

   感情と思考は相容れない? それを決めるのは思考ではなく,感情なのに.

  
帰りも山道を歩く.

前後に参拝客がいて,足下の明かりには困らなかった.

「下りたらホームセンターに寄ろう. 洗剤と…」

携帯のライトを手にした若い女性のペアが,ゆっくり歩く僕を横から追い抜く.

ライトを忙しなく動かし,会話も止むことなく足早に下りていく.

そこには「あるべき気配」がなかった.

 ライトによって周囲の風景が明滅し,周波数の高い音波が飛び交ってはいたが,

 それら以外に「二人の女性がすぐそばにいる存在感」を感じ取ることができなかった.

 密な竹籔に囲まれた闇の中で彼女らが異質であったのは確かだが,

 あるいは彼女らは「人の気配を消した闇」として周囲に同化していたか.

 …すれば,自ら闇と近しかったはずが,その「一体感」に慄いた僕はそこでも異質であったか.


山道を下りきり,行きに目にした新築の宅地周辺を歩いてみた.

去年の大晦日はここらは全て竹薮だったのだから,建って半年も経たないだろう.

それにしてはどの家も人が入っている.

隙間の多い庭や蔦壁(フェンスに蔦を絡ませるもの)が新築の象徴に見える.

建家や表札はどれも個性的で,窓の形・配置にもモダンなデザインを感じる.

シムシティ2000(Windowsの都市育成ゲーム)をやり込んだ者として,
 
この界隈のこれからの発展を楽しみにしておこう.



山を下りてからもあちこち散歩していていたが腕がまただんだん冷えてきたので,

途中からいつもの道に合流して足早に帰途につく.

全く時計を見なかったのだが,家に着いて見てみると1時半を過ぎていた.

ベンチに座ったのは缶お汁粉を飲んだ時の15分程度なので,

かれこれ2時間以上は歩いたり立ち止まったりしていたらしい.

 ブックオフ通いに加えて在宅天狗,それに散歩部まで始めたものだから一段と脚が鍛えられたのだろう.

 体が冷えただけでそれほど疲労を感じないところ,とりあえず健康ではあるようだ.

早々に湯船につかり身体を暖め,特に何を考えるでもなくぼーっとし,

水を少しだけ飲んで就寝.


年の変わり目をほとんど意識しなかったなあ…
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by chee-choff | 2012-01-01 21:03 | 思考