深爪エリマキトカゲ
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◆ ゆくとしくるとし('11→'12)2
2011年はどんな年だったか.


と言って,「考え方」ばかり考えてきた自分には,

当たり前とされる問いの立て方に安穏とできない回路ができてしまった.

だからなんだといえば,「一年ごとに特徴付けて何になるか?」という疑問が,

「ゆくくる」を書こうとする傍から立ち上がってきて面倒だなと思う.


意味など何もないと言いたいのではなく,

意味があるのならその意味をきちんと把握した上で考えた方がよいと思う.

そうでないとその行為が上滑りして,何も残らず全て流れて行ってしまう.


「一年ごとに特徴付けてアルバムにしまう」のは,全てを水に流したいからかもしれない.

 今年は良いことも悪いことも沢山あったけれど,来年は心機一転頑張ろう.

 「君子豹変す」「朝令暮改」「心機一転」とぱっと思い付くだけでも「水流し作法」の言葉はいくつかある.

 (そういえば今朝か昨日の朝日社説のタイトルにも「首相は豹変すべき」とあった)

過去を水に流すのは,学習機制を削ぐというマイナスにもなり,過去の失敗に囚われないというプラスにもなる.

日本文化の伝統的な作法としてのそれは,後者を生かしながら,前者の発現を別のフェイズで抑え込む,

ということをしていたと思う(という印象).

でも,昔からずっと同じように水に流していて,プラスとマイナスの効果がそのまま維持されるか,

と考えればまあそんな筈はない.

つまりプラスとマイナスのウェイトがズレてきていると思うのだけど,

なぜそれがそのまま良しとされる(←特に指摘されない=「まあいいや」)のかといえば,

ここでいう「プラスとマイナス」の価値評価基準が昔のものだからだ.


当たり前だけれど,人は何かしらに(自分に,家族に,共同体に,国に…)良かれと思って行動するわけで,

仕事をするにも会話をするにも,明文化できないレベルを含めて目的があり,

その目的を括れる印象の名は「kaizen」である(マータイさん哀悼…あ,あれは「mottainai」か).

 たとえ「誰かを不幸に陥れる」という行為であっても,

 それは復讐心の達成あるいは自己精神の安寧化という「状況の改善」が目的だ.

だから主体的な視点に限れば誰も自分が悪いことをしているとは思わなくて,

そこにふっと影が射すのは他の視点(特定の他者の視点や常識・ルールなど個を離れたもの)が混じる時である.

…と言ってみたがこのモデルに当てはまる人は(日本人には?)あまり多くなくて,

実際は主体的な視点が「影そのもの」(=実体がない)になっている.

つまり(「ツマリよ回れ」),自分の判断だけではうっすらしていて頼りなく(そこには判断の可否もない),

他の視点をバックに据えて(あたかも太陽のように),やっと憂いが消える.

ちょっと話を戻せば,だからこのような人が多数を占める社会では,プラスとマイナスを決める実効力は

個人にはない(と個人は認識している).


さらに話を戻せば(なんでこんな話をしてるんだ…),そのプラスとマイナスの価値判断の変化の要因に,

「想定できる射程の長さの変化」があると思う.

これ以上掘り下げると一気に話が散逸してしまうので単語だけ並べると,

地域共同体の解体→家族の解体→個人主義の流れ(例えばテレビに始まる「一家一台から一人一台」)も,

今ここの欲望を満たすべきという刹那主義も,

子どもが学校で「子ども自身の価値判断に基づいて」何を学ぶかを決定する「学ぶ主体の自主性の尊重」も,

すべて「想定できる射程をいかに短くするか」に血道を上げた結果とも言えるし,

何が人々をそうさせるかと言えば資本主義の枠組みでしょうね.

 資源の限界を知らずかつ身体性が濃く残っていた高度成長時代は,

 資本主義社会を突き進むと言って物質的にも精神的にも余裕があるためにモラルが保たれていたが,

 環境問題が前景化し,脳内事象の実現(養老先生の言う「ああすればこうなる」)が最優先事項となった

 情報社会ではモラル(例えば今は悪く言われる「弾力的な措置」とか)の存在余地がなくなり,

 ルール原理主義への違和感が薄れてくる(もちろんやりすぎて法から逸脱すれば捕まるが).



どんどん話が大雑把になってきたので閑話休題.

何の話をしていたのか…そうだ,今年の総括をしたいのだった.

その総括の意味も考えろよと自分に言い聞かせる所から思い切り脱線したのだけれど,

そうすね,じゃあ「2011年を水に流すつもりはない」ということで話を続けよう.


社会人になってもうすぐ2年が経とうとしている.

一つの会社に勤めていて個人の生活に劇的な変化が訪れる理由はといえば,

社内事情の変化(昇進などの配置転換や転勤)か,その人自身に生活を変える出来事が起こった時だろう.

後者で想像できるのは結婚か身内の不幸(これは実家通いの人に限られるかもしれない)くらいか.


同期で今年結婚した人はけっこういる(同期同士も少しばかり).

院卒の人間が多いせいもあるが,年齢的にも結婚適齢期なのだろう.

一時期は「震災の影響で結婚するカップルが急増した」などと騒がれたが,

過ぎてみれば(そう,自然とこういった言葉が口をついて出てくる)そんなことはなかったように思う.

相変わらず自分はそういった話とは縁遠く,でも教育問題に興味があるというのは

(自分の子どもの話に結び付くし)結婚したくないことはないのだろうなと,

しかしそれを他人事に言えるところが大変微妙なのだけど,

結局は相手がいなければ何も始まらないのであり,それを縁任せにしているところが

「そういうの全く興味ないんでしょ」と同期から言われる所以でもあり,同時に

「でもいつの間にか結婚してて”子どもができました”とかいきなり言いそうね」とも言われる不思議さである(?)

結婚観を語る気はないのだけど,この手の話については

「感度は上げているが(実生活で)自分から言い立てないことを奥ゆかしさと見なしている」

というところで手を打つことにしよう(つくづく乙女だなあ…).


何が言いたかったといえば,「今年は生活に大きな変化はなかった」の一言である.

それは仕事もプライベートもひっくるめて社会人として安定してきたと言い換えられる.

かといって漫然と過ごしてきたつもりはなく,

ある程度の緊張感をもって(仕事はもちろんだが)読書に励めたと思う.


仕事について少し触れると…今は過渡期で,来年も動きが激しそうだ.以上.

仕事とプライベートの分別については,会社で少々淡泊に振る舞っていて(理由は社内事情),

それがプライベートにも反映されて「なんだか落ち着き過ぎてる人」になっている感がある.

 はじけて遊ぶ気がないオーラが伝わっているのか自分に近づく人が減ったことが一つと,

 あとは僕をそんなに悪く思っていない人は自分から近づいてこないことが一つ.

 後者はそれはそれで少し寂しくはあるが,僕の意をきちんと汲んでくれた結果でもあって「正解」.

 だからたまに自分からなにかを誘った時にびっくりする人とびっくりしない人の差がなんだか嬉しい.

まあ,場の雰囲気に敏感でおりつつ,流れをつくったり流されたりしていれば,

何かが始まることもあるだろうし,終わることもあるだろうなと思う(なんという意味なし発言…でもないんだけど).


読書の話に移ろう.

読書時間はこの一年で大きく変わったとは思わないけれど…

あでも後半に仕事が忙しくなって少し減ったかもしれない.

ということでソーシャルライブラリから読書記録を拝借して載せてみる.

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ジャンルを細かく分け過ぎて分類タイトルが見にくいが…

去年の94冊に対して今年は119冊読了(月10冊届かず)なので去年より読書時間が増えているのは確実.

でも今年後半の読了数が少なめなのは,仕事のせいもあるだろうけど,

読書スタイルが変わったことも影響していると思う.

いつか書いたことだけど,読了数を逐一数える習慣が消えた.

このチャートもずいぶん久しぶりに参照してみたのだった.

(それでもマメに記録をつけているのは習慣化したのが大きいが,きっとこういう時に俯瞰できるのが楽しいから)

ノルマ的な価値観が払拭されて,遅読をあまり厭わないようになった.

何を今さらと言われそうだが,読書が生活に定着したのだと思う.


統計データをいじるというのはあまり面白くないね(笑)

数字で分かるからわかりやすいのだけど,今の自分にあまり興味がないのだったと書きながら気付いた.

そういえば今(@年末の実家)父の本棚を漁っていて寮に持って帰る本を選別しているのだけど

(そのために空の旅行鞄を持ってきたのだ笑),タイトルで惹かれる洋書の翻訳本がたくさんあって,

でもパラ読みしてみると「どうだ」と言わんばかりの統計データ羅列本が結構あって,

やっぱ欧米の人はこうゆうの好きなのかなとか,そういえば最近翻訳本全然読んでないなとか思ったり.

そんな本の中に『木を見る西洋人 森を見る東洋人』なんてのがあって「これだよこれ」みたいな(何が).


なんだかこうして本に埋もれていると社会人生活なんてどうでもいいや,と思えてきそうな気配があって,

それは僕が一生を読書だけに懸けても読み切れない膨大さが個を希薄にしている所もあるのだけれど,

じっさい僕が日々読書をするうえでの緊張感は会社人であることによって保たれているという実感はある.

だから,今すぐ会社を辞めて晴読雨読の生活をしたいという願望がゼロではないけれど

その生活が社会(多分「多くの人々」)とのつながりの無さによって堕落極まる想像が簡単にできて,

自分自身に現実的な俯瞰の目を向ければその生活はしょせん都合の良い夢物語でしかないことが分かる.

(でも実はそれが「叶わぬ夢」であることが大事であり,

 荒唐無稽でなくどこか惹き付けられる「物語」であるところが,今の生活を成り立たせているかもしれない)

その緊張感の出所を詳しく述べようとすると危険な香りが漂い始めるのでこの件については一言だけ.

「会社人間にはなりません(なれません)」.

(そういえば新人の頃は「俺達は兵隊だ」とカッコイイこと言ってた同期と10月だかに飲んだ時に,

 「会社辞めても生きていけるようにしとかんとな」って一体何があった(笑)

 まあ,人を養うというのも大変だからね(ごほんごほん) )



なんだか話がぐんと戻ってしまうかもしれないけれど,

一つ思い付いたことがあったので書いてみる.


ある学校の教室で「よく考えなさいよ」とクラスのみんなに言った先生を前にして,

彼が全然考えているように見えない生徒が素直にとる応答には2種類あって,それは

 「”考える”必要なんてないんだな」



 「”考える”って本当はどういうことなんだろう」

である.

この応答をとる前の「全然考えているように見えない」という判断は,

その生徒が”考える”ことについてあまり知らなくてもできる感覚的なものである.

そして処世術に長けた子どもは前者のように考え,

何かしら偏った子ども(と大雑把に言ってしまうが)は後者のように考える.

そして恐らく今の社会で有益と見なされているのは,

前者のような判断を何の疑問もなく下せる子どもなのだ.


「ゆくくる」の最初で「地震は自然,子どもも自然」と並べて言ったのは,

どちらも本質的には「(大人たちが)制御できないもの」だからだ.

もっと科学技術が発達すれば制御し切れるとか,教育制度や施設が整えば制御し切れるとか,

そんな大前提から履き違えた無邪気な発想が何を引き起こしたか.

もちろんその責任を一個人に押しつけることができるわけがなく,

それが意味するのは「待っているだけでは何も変わらない」.


…「人の口を借りる」とするする言葉が出てくるのはやはり本当. 18:43
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by chee-choff | 2011-12-31 18:43 | 思考