2011/04/28 22:27
両者が同じだと気付いた。 般若心経を書いていて、 「あれ、こうすればするする書ける」 と思って、「こうすれば」の内容も分からずに なんとなくつらつら書いてみて、 書き続けるうちに 「これってこういうことかな…」 と「こうすれば」を言葉で表現していく。 今日の「こうすれば」は、 指先に力を入れるのではなく、 もう少し(心を中心としての)内側を支点にして、 指先は筆を保つだけにして書くというもの。 これを別の言葉で 「筆を信じ、紙を信じる」 とも思いついた。 「自分がこう書こうとしているそのままに頑張る」 のではなく、 「なんとなく書きたい字はイメージしていて、 でもあんまり力は入れずに、 筆が紙に対して"こう"滑ってくれたら書けそうだな」 といった感じ。 それでイメージ通りの字が書けなかったら (=書かれなかったら)、「なにか」を修正して、 もう一度「委ねる」。 あるいは、イメージした字に近いかどうかだけでなく、 「筆の滑り、筆の運び」の良し悪しも感じた。 書く時の効果音にある「さらさら」というやつである。 といった細かい話はここではおいといて、 前に「ある価値観を試しに採用して、 自分の考え方が、判断がどう変わるかを見る」 という話をしたことがあった。 どういう文脈だったかは… ハシモト氏の本を心地よく読む心得みたいな話だったか。 で、思念先行で現実味がないなぁと思っていたが、 良い例がこんな所に転がっていた。 いっしょなんですよ。 具体的には、ある納得できない結論があって、 「それはそういうもんなのかな」と思って、 それに合う論理を新たに組み立ててみる。 「結論に筋道を合わせる」などと言えば ふつうは良いイメージを持たれないけれど、 極論を言えば論理とは全部そういうものだし、 「あんまり論理的でない」と思われる日常での 些細な判断なんて全部「後付けの英断」なのである。 「ある固執から離れて自由になる」 という点では両者は全く同一だ。 上の例でできるかは分からない(これからだ)が、 両者の具体的な対応関係を考えるのはおもしろそう。 2011/04/28 22:41
by chee-choff
| 2011-11-12 22:41
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