深爪エリマキトカゲ
cheechoff.exblog.jp
Top
◆ とんとことんことこんとん
いやはや…
旧友のことをぽけーっと思い浮かべていたその日に,
その人と会話することになるとは.
その会話が予想外に唐突に始まったため,
電話口で「あれ? …あれれ?」とか言って5秒くらい混乱してしまった.
頭の中にあったことをそのまま言うわけにもいかんしで(何考えてんだw),
しどろもどろに始まり,しどろもどろに終わる.
まあなんとも,器用には生きれないもんすね.
とりあえず元気そうでよかった.

あ,あといつも話し終えて時間が経ってから気付くのだけど,
旧友と話してて自然に出てくる関西弁がなんとも奇妙だなと.
喋ってる時に自分では違和感ないのだけれど,
そして相手もこの「エセ関西弁」に慣れてるからもう何も言わないのだろうけれど,
いちおう正規の関西弁(?)が頭では分かってるからか,
自分(の身体)にとっては自然であってもやっぱり何かがヘンなのだ.
その何がヘンって,うーん…なんでしょね.

+*+*+*

言葉がなおざりにされている今,
言葉には実感が伴わないという"常識"が幅を利かせている.
先立つ言葉なくして「実感を分節できない」のが実際のところだが,
それを実感するには「言葉から始める」以外に方策はない.

産業主義はコンテンツそっちのけでメディアの開拓に忙しいが,
"時代の求めるもの"と「コンテンツの質」に相関はない.
多様性が"多様を知らぬ画一の集積"に堕さぬために,
「言葉の豊穣」に触れる機会をどのようにして得るか.

生に占める言葉の影響力に,どう気付けばよいか.
言葉と共に,どう生きていけばよいか.

>>
 人がなにかを考えたり思ったりするとき,そこにはかならず言葉がある.いちいち言葉なんか必要ないよ,というのが日常的な実感かもしれないが,言葉なしには人間はほとんどなにも出来ない.そして自分が自由に使うことの出来る言葉,つまり母国語の構造と性能の内部で,そこから多大な影響を受けつつ,人は日々を生きていく.いつもどのような言葉をどんなふうに使っているかによって,思考の程度や範囲そして方向などが,母国語の性能の守備範囲内で決定的にきまっていく
片岡義男『日本語の外へ』 p.425 母国語の性能が浪費される日々
>>

+*+*+*

>>
偶然が必然にというのは,九鬼[周造]のいう「定め」としての偶然の内面化でもあるし,わたしたちが先ほど述べたように,じぶんの存在を必然性の糸で縫い上げること,仮構することでもある.他方,必然を偶然にというのは,わたしが<わたし>として生まれたよりももっと遠いところ,「そこではまだ可能が可能のままであったところ」へとじぶんを送り届ける,つまりは<わたし>を存在としてほどいてしまうということである.つまり自己同一への強迫から下りるということでもある.九鬼のばあい,それは他なる者との「出逢い」のなかに賭けるということでもあった.
鷲田清一『死なないでいる理由』p.193-194
>>
「偶然を必然に」する技術は世に溢れているが(主体性云々,個の尊重云々),
「必然を偶然に」する技術も同時に必要なのではないか.
後者のそれを技術と呼ぶことが憚られようが,
きっと"主体が確立した"現代ではそれを技術と呼ばねば認識できず,涵養され得ない.
「必然と偶然を共に内面化する」こと,それはきっと二律背反と呼ばれるのだろうが,
両立不能だと思われてしまう価値観の足場の名は「義務論的倫理学(deontology)」(p.173)だ.

>>
それ[=「負債」という観念を道徳の根源的契機とみる考え方]は道徳や正義の起源を商業や算術の論理に見いだす議論として,歴史の長いものだ.(…)価値の平衡についての算術的・幾何学的な観念──平等・比例・代償,幾何学でいわれる方正・規則正しさ,そして天秤で量られるかのような償い・報い──との関連の中に正義の概念の歴史的起源をみてとったベルクソンの議論も,そういう系譜のなかにある.ベルクソンの論点に近づけてもうすこしいうと,カントの道徳論は,自己矛盾を犯してはならぬという無内容な形式的必然性へと人間の責務を還元するもの,道徳を論理の尊重のうえに基礎づけようとするものであり,つまりは「不道徳のもとは不合理に存する」と考えるものである.
同上 p.182-183
>>

 論理だけではダメだと論理立てて言う.
 その論理に整合性はあるのか?
 そもそも論理なんていらないのではないか?
 …そうではない.
 論理が論理自身を疑えること,その性質があって始めて,
 人間が論理を身近なものとして(「使い使われて」,その境界を曖昧にして)扱うことができる.
 反証可能性が科学を科学たらしめているのと同じ.

書き忘れていたけれど,本書は今日Veloceにて読了.
今日はハロウィン祭(「鮎まつり」でした)だったらしく駅前公園近くのカフェはごった返していたが,
特に思考を乱されることもなく,読んでは止まり,読んでは止まりをつらつらと.
本の中に今のその自分の状況が書いてあってまた現実と頭の中が混ざり合ったり.
>>
他人とともにいながら他人に見られないですむ,あるいは他人を見ないですむ,そんな空間.(…)他人が間近にいるのにだれとも話さないでいられる空間,そこでひとりっきりになれるという想いが,知らない喫茶店のドアを開けるときにはあった.
同上 p.202
>>
人が近くにいる安心感と,余計な想念を打ち消すに丁度良いノイズとなる会話.
(「ホワイトノイズ」と書こうとして違うかもと思い調べたら面白いものを見つけた)

 頭の中のことは現実に含まないという考え方がふつうだと思われるが,
 現実が「今の自分と関わり形作っているもの」だとすればそれはとんでもない考え方だ.
 とここで「小説は小説家のリアリティを形にしたものだ」というタカハシ氏の話を思い出した.
 小説はフィクションだけれど,リアルでないことはリアリティを少しも損なわない
 小説家がリアリティを感じた小説の源泉たる脳内ストーリィは,やはり小説家の現実なのだ.
 >>
 そしてカルヴィーノさんはこういうのだ.
「文学ではリアリティそのものはわからない.
 わかるのはレベルがあるということだけだ.
 異なったレベルの現実があるということだけがリアルなのであって,
 それ以外に現実的なことはなにもないのだ
 リアリズムというのはそういうことなのだ.
 だが,これは哀しむべきことなんかじゃない.
 文学以外にこんなことを教えてくれるものがあるとでもいうのか?」
 高橋源一郎『文学じゃないかもしれない症候群』p.52 (改行は引用者)
 >>

話を戻すと,現実と夢(頭の中)の混同があると言って,
その混同は両者の距離を縮めることになるのかなとか,
いやその「現実と夢の距離」なるものは意味のあまりない抽象であって
個々の現実の出来事と夢の内容との距離がそれぞれにあるだけだとか,
実は最近「右目で見る」=「夢で(←手段)見る」という発想が浮かんでいて
「右目の成長」は「夢が現実に近づく」のだろうかとかとりとめなく考えている.
(下線の話はまた記事を改めて詳細に書きたい)
…多分話を戻そうと思ってまた逸れた.もう忘れた.

>>
 プライドというのは,普通おもわれているのとは逆で,自己のうちから生まれるというより,他者から贈られるものだと,わたしはおもう.じぶんがなにか他人にはない特別なものをもっているからプライドが生まれるのではない.他者にとことん大事にされた経験がなければ,ひとはじぶんの存在にプライドをもつことができない.だれかに大事にされているという経験が,これほど大事にされる存在なんだから粗末にしてはいけないという,自己感情の支えになる
同上 p.218
>>
生を肯定する誇り.
他者との深い関係なしには得られないもの.
自己に閉じこもっていて油断すると忘れてしまうが,忘れてはいけない.
個人の尊重(憲法13条)と言って,個人は自己だけではない.
…独りがデフォルトな自分が偉そうなことは言えないが,
(読書を通じて)常に「ここにはないもの」に思いを馳せる志向が,
まだ見ぬ(あるいはその人と居る時の)他者の思いに繋がっている,
と信じる.

これを断定出来ない理由は,「独りがデフォルトだから」だ.
詳しくは言わない.
[PR]
by chee-choff | 2011-11-06 01:25 | 思考