いつも唐突に膨らんだ想像を書き付けるものだから読む方も大変だと察するのだけど,
実は思いつく方も「思いついた話が印象的なほど文脈を忘れる」ものだから 読み手同様に大変なのである. でもだから読み手と同じ気持ちで読めるかというとそんなわけなくて, 訳の分からない話を面白がれるのはそれが「自分についての訳の分からない話」だからで, 読み手自身と繋がりようのない訳の分からない話というのは, そう,ひとこと「訳が分かりません」と言っておしまいなのである. という言い訳を書きたくなるほど後ろめたいわけでもなく… そして迷惑なことにこれが調子の良さを示す徴候であったりもして… 「内に籠る」という表現があって, 精神的な意味合いでそれを使う時は「外との接触を断って自分の中に閉じ籠る」 という意味なのだけど(まあこの点だと「部屋にこもる」のと大して変わらない), 「籠った先」の精神が内で閉じていなくて外に開いている場合は, 籠ったと思い込んでいるだけで実は開かれている. 読書に没頭している状態というのはある意味そういう状態であって, その状態を何かメタファーで表せないかなと少し考えてみたのだけど, 「ドアを開けて部屋に入ってドアを閉めるのだけどその部屋には天井と壁がない」 とかどうだろうかと思って,その解釈は 「ドアを開けて閉めるという行為が主体に"内に閉じた状態"を認識させるのだけど 主体の居場所はドアを開け閉めする前後で変わっていない」 というもので,廃墟じゃあるまいしどっか自然に(いや「人工に」だけど)そういう場所ないかな, とまた少し考えてみて 「塀を巡らせた城下町で壁にドアがあるのだけどその前後の空間の所有権は共通に公的である (=私有地でない)」という『迷宮百年の睡魔』(森博嗣)に少し影響されつつ想像できないこともないが どうも曖昧な絵だなあとか思って, もう少しファンタジー寄りにというか,純粋に「ドアだけ」を思い浮かべたらパッと出て来たのが, 「どこでもドア」. 本物だと「どこでもドア」をくぐると(今とは別の)行きたい所に行けてしまうのだけれど, レプリカであれば本当に「ドアだけ」であり,「くぐるだけ」である. ドラえもん展示館みたいな所(確かあったと思う)に,草むらの上に「ピンクのそれ」が展示してあるのを 何かの記事で読んだ記憶があるけれど(夢の中だったらすみません), あれは紛れも無くレプリカでありながら「レプリカとしての機能」があるのだ, と今僕は勝手に思い至ったのであった. そう話を広げるなら別にドアを抜ける行為を「内に籠る」認識に限定する必要はなくて, もっと漠然と「そこを抜けると"何か"が変わる」のだ,と. そう,真面目に(←これが重要)ノブに手をかけ回してドアを押し,敷居を跨いで抜けると「変わる」のだ. 変わると思えば変わるのである,という認識レベルの話に具体性を付与するのだけど, それは「変わる何か」が具体的になるのではなくて, 「何かが変わる」ことを体感する意味での具体性なのである. …言葉が足りない? 話を戻せば,言いたかったのは(言わない方がいいかもしれないけれど), 自分は閉じていると認識しながらも雰囲気としては「閉じた開放性」という 不思議さを醸し出せたら楽だなあ,とか. これを楽と言って,共感できる人がいるとも思えないのだけど… いつも思うのだけど,自分は楽をしたいのか苦労したいのかよく分からなくて, 「きっと楽に苦労したいんだろう」とか平気で矛盾な言い方をして喜べるのが, 単に自分の中で「"矛盾"が流行り」というだけなのか頭がおかしくなったのか あるいは頭をおかしくしようとしているのか. でもまあ,別にどれでもいい..
by chee-choff
| 2011-10-26 23:42
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