10/23 @Veloce
『いいひと。』の22巻,真理子と妙子の,一郎の墓前での会話. 一郎に語りかける真理子がいて,それを傍らで聴く妙子がいて, しかし僕ら(読み手)は桜を見る. 春の風に舞う,桜の花弁を見る. (花弁の影が墓前に,二人に落ちる) そこでは真理子も妙子も,一郎の存在をしかと感じている. 自分の拠り所として,あるいは二人を繋げる存在として. その二人の「心の宛て先」を,僕らは花弁に見る. 墓前を彩る草木に魂を感じ, 感じた魂をもって縁とする. 抽象(想念)でなく,実体に実在をみる僕ら(日本人)の間では, 山川草木,花鳥風月,森羅万象に魂が宿り,縁が起きる. その縁の存在を許容するには, 単なる実際主義だけでは到底足りるものではなく, 生半可でない寛容の心(達観?)が必要な筈なのだ. …いや,それは現代の「実際」が複雑になり過ぎたからだ. 現代には現代の縁が「在る」のかもしれない. +*+*+* 遅々としてなかなか読了に至らない『いいひと。』(読み始めたのは去年だったはず)の, 22巻を読んだのは恐らく3回目で, 修羅場回だからか今日も読み終えるのに2時間以上かかり(足イタイ…), いつも通り立ち読み後のVeloceでブレンドのLを頼んでからは (いつも「L」と言って「M」に取られて「いえ,大きい方です」と言い直して, 「ミルクとお砂糖はお付けしますか?」「いえ,ブラックで」と断るという一連のやりとりが もう10回はとうに超えてるはずなんだが…顧客を覚えないのはチェーン店ならではの優しさ? 一度だけ「ミルクとお砂糖は…あっ(こいつブラックの野郎だった)」という反応があったのが懐かしい) 「花弁の落とす影」に気付いた時を反芻して, あれはなんだったんだろう…と5分くらい頭の中を桜の花弁がはらはら舞っていて, そこから思い浮かんだことをVeloceのレシートの裏に書き込んだのだけど(その清書が↑), その想起後に読んだ本と想起内容が共鳴して図らずも涙を目に溜めてしまった. もちろんその前段あってのことで,ここだけ抜粋してもアレなのだけど. >> 中川幸夫さんの名を世に知らせることになった作品に「花坊主」(一九七三年)がある。真っ赤なカーネーション九百本の花を毟り、それを持ち帰って、大きなガラス壺に一週間詰めておく。すると花は窒息してしまう。その腐乱した赤い花肉を詰め込んだ壺を、真っ白の厚い和紙の上にどさっと逆さに置く。すると、鮮血のような花の樹液が和紙にじわりじわりと滲みだしてゆく……。「花の血」である。 花のいのちを最期まで見とどける。花のいのちをこの手でずしりを受けとめて、最後にもういちど花にそのいのちを咲かせてやる。最期の華やかな狂いをたっぷり演じさせてやる。そんな情を中川さんは花に注ぐ。 鷲田清一『死なないでいる理由』 p.144-145 いのちを見とどける──「花」をめぐって >> この作品名を検索してみると,なんとあった. ううう苦しいぜ. …感度を上げた人間にはちょっと強烈に過ぎた.
by chee-choff
| 2011-10-23 22:32
| 読書
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