- 始まりの言葉 -
2011/01/08 18:32 今日は久しぶりにカフェで読書。 そして懐かし(お馴染み?)のベローチェ。 やっぱりカフェはいいね。 で、久しぶりだったからか、 思考がスムーズに混沌としていてよかった。 その混沌の中から記号にしておきたい話が一つ。 (といっても帰りのバスの中での思考だが。) 物事には二面性、あるいは多面性が備わっていて、 良い風にも悪い風にも見方によって見える。 それはそうなのだけど、 一面が決定的に見える物事に対して、 別の見方を探索する時に、 「その逆もあるんだ」と最初に決めてかかる姿勢に、 何か疚しいものを感じていた。 だがそれは、一般性に囚われていただけかもしれない。 逆に考えれば、その志向性は、 「物事を多面的に捉える姿勢をもつ」という 古くから伝わる格言(のようなもの)の実践とも言える。 単に自らマイノリティを目指す「無茶な個性の発揮」 ではなく、連綿と続いてきたある種の思考の「作法」 に忠実な態度であった、とも言えるかもしれない。 そうふと気付いて、その方がいいと思った。 差異から始まる思考。 "差異"は投げられた。 2011/10/21 16:21 続きを書いてみる。 上にある「逆もありき」思考を、 「身体を言葉へ投げ込む」実験と呼んでみる。 「言葉の世界を遊弋する」と言っていいかも。 身体と言葉のどっちが先にある、と言われて それは西洋的実存からすれば身体なのだけど、 今回の場合は「言葉から身体をつくる」方向。 まず「論理的にこうなるな」と頭で納得して、 その納得を生活に適用してしばらく過ごすと 単なる論理が身体性を獲得する事はあり得る。 これは「自分の中の何かの納得」と「習慣」の 作用の結果であり(前者が後者の成立を促進する)、 論理性はここでは数ある触媒の一つに過ぎない存在だ。 以上の話は一人で閉じていても成立するのだが、 人とのコミュニケーションも勘定に入れれば、 「(相手の)身体が(自分の)身体をつくる」方向性は 日常生活の中でざらにある。 結婚生活(「一つ屋根の下」)はその典型。 もちろんその夫婦は言葉のやりとりによってお互いに 納得し合いながら生活を作り上げていくのだけど、 両者の距離が近いほどその内容よりも「言葉の語り口」が 否応なしに相手に伝わるものであって、 二人が共に形成する身体(=身体性…共身体?)は言葉よりも 身体(=日常の振る舞い全て)に依るところが明らかに大きい。 そして「言葉が身体をつくる」のと「身体が身体をつくる」 のは「身体をつくる」点において同じという視点に立てば、 前者を後者に生かすことは可能である。 つまり「身体をつくる」ことを知ればよい。 そしてその「身体をつくる」ことは、 「時間的な隔たりをおいて自分の中に差異を発見する」 ことである。 ここで、差異と身体が共鳴する。 何せ「差異」は時間軸におけば「変化」のことで、 変化しない身体は存在しない。 おしまい。 +*+*+* 脳を時間軸におくと,何が起こる?
by chee-choff
| 2011-10-21 23:06
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