『ねじまき鳥クロニクル』(村上春樹)の第1部を読了.
第2部からは図書館で借りることにします. マン・マミーヤ!(それだけ) +*+*+* 解剖学者として長年「変わらないもの」(=死体)に取り組んできた養老氏は, 「相手が変わらなければこちらが変わるしかない」ことに(後から)気付き, 自分で考え,考え抜き,自分で考えることを当たり前とした. その風格が文体に滲み出ていて,読み手にイヤでも頭を回すようはたらきかけてくる. 養老氏のことばを考えずに鵜呑みにすることは,できないんではないか. 「なんやすっぱりゆうとるけどようわからん…」となっても, 内容そのものを否定することはできず,立ち止まるか, もやもやを抱え込んで先に進むしかない. そしてそれが,あまり苦痛ではない. 負荷(ストレス)がかかると言って間違いはないけれど, その負荷は「脳と身体の健全な関係」の構築に作用することも間違いない. 負荷のかかる先は,主に脳だからだ. >> 実在ということの定義ですが,どういうふうにその人にとって実在するということを判断するか.それは,実在するものによってその人の行動が変わるからわかるのです.(…) 先ほど私が「日本人にとって世間が実在だ」と申しましたのは,日本人は世間を考えながら行動を調整しているからです.行動が変わります.ですから「旅の恥はかきすて」ということで,世間のない外国に行きますといろいろな悪いことをするのです.日本人にとって外国の社会というのは実在ではございません.私はそんなふうに実在を定義しています. 養老孟司『手入れ文化と日本』p.233-234 >> 人の意思やそもそも存在に関係なくここにある自然こそは実在である, という考え方は西洋哲学のもので,日本人の意識(生活実感)としてはそうではない,という話. この部分を読んで, 「日本で起きたコーランを破り捨てる事件に日本人は大した反応を示さなかった」 ことについてハシモト氏が言及していたことを思い出した. 日本は生粋の島国(ガラパゴス)なのだ. 情報の伝達技術が発達した今でも,その根っこはそのまま残っているのかもしれない. >> (…)あらゆることをそれですべて説明できるという説明の仕方は何通りかあるのです.それはその体系がそれで丸まってしまうものです.そのかわり,それを本当に信じ込んだ瞬間にその世界から出られなくなってしまいます. だから,私は「意識は脳の一部である」と考えるのです.どこかが開いていない理論は危ないのです.自然選択説が根本的にそれを持っています.すべてを取り込んでいこうとします.そして,理論と言うのはそれに合わない出来事というものをないことにするものです. 同上 p.238-239 >> この部分はダーウィンやドーキンスの話題の一部だが,とても汎通性の高い話である. 陰謀史観(フリーメーソンとか? 詳しくは知らない)がすぐに連想されるし, 「あらゆることをそれ(一つ)ですべて説明できる」ことのもたらす全能感から,そこに 「社会活動が消費行動から始まる現代の子どもの教育構造」を並べることもできる. (後者は併読している『下流志向』(内田樹)からの連想だ) 全てを説明できるただ一つの道理に魅力を感じるのは意識の当然として, (ただ一つ,と言っている傍から)それが「何通りかある」ことに怪しさを感じられるのも, 本来は意識の当然のはずなのだ. この2つの当然が矛盾を形成していて,「そういうものだ」で済ませばいいものの, 「矛盾は解消すべきだ」という"別の当然"(←これは意識の独断によるのだが)を持ってくると, 話が単純な,そして危険な方向に転がっていく. 面倒っすね,ほんと. しかし…タイトルがひどいな(笑)
by chee-choff
| 2011-10-04 23:41
| 読書
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