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深爪エリマキトカゲ
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◆ 我に「帰る」
2011/09/06 23:51
ロイディの前で奔放に振る舞うミチルを見ていて、
ふと思いついた。(森博嗣『迷宮百年の睡魔』)

何かに熱中していて、ふと「我に返る」ことがある。
僕なんかはそんな経験をした時に、
「せっかく集中していたのに切れちゃった…」
と思うことの方が多かったように記憶している。
何かに没頭できてないことを、今抱えている懸案事項が
気になってしまうことを、残念に思う気持ち。
わりと一般的な気がする。

でも、この「我に返る」経験をある例えで示した時、
むしろそれは「安心の訪れ」ではないかと思われた。
あるいは、この例えの方が原型なのかもしれないが。

 母親の傍で子供が手を動かすことに夢中になっている。
 自分が何を考えて手を動かしているのか、
 そんな気にする風が全く感じられない集中。
 しかし、ふと、手を止め、あたりを見回す。
 不安な表情と共に、きょろきょろと首を振る。
 母親の顔を見つける。
 満面の笑み。
 そして再び自分の手の動きに集中する。

これが「没頭と正気(に戻ること)」の原型ではないか。
つまり、集中が途切れる瞬間として「我に返る」のは、
「自分を見守っていたはずの人を再認識する」
ということではないのだろうか。
すると一人で作業をしていて見守られてなどいない、
という話になろうが、そこからこう考えが及ぶ。
「自分で自分を見守っているのだ」と。

大の大人が一人で奔放に振る舞う。
自然の中ではしゃぎ回る。
その所作に無垢さえ表れているような時、
彼は「見守られている」のだ。
自然の中で、と言ったから「自然に見守られている」
とも言えてしまうが、ここで言いたかったのは、
「自分の中に自分を見る目を持っている」ということ。
このことを意識し過ぎると、作業に集中できない。
しかし、このことが全く意識されていなければ、
もしかすると人は不安で不安でしょうがなくなるのでは


ロイディの存在はミチルにとって、
「そういう存在が自分の中にいればいいな」
という理想なのではないか。
敢えて内面化したいとは思っていないかもしれないが、
ミチルがロイディを自分の一部だと思っていることは
きっと確かだ。
自分の一部を外に出してこそ、よく見える
そう、みんな自分が見えなくて不安なのだ。

少し話を戻す。
だから、自分を客観的に見つめすぎて淡泊に見える人、
というのは、表面では感情の起伏が観察されないかも
しれないが、本人の中では「ほんわか暖かい」ことに
なっているのかもしれない。
きっと、彼(彼女)が一人でいる時の振る舞いを見れば、
そのあたりの機微を感知できるような気がする。
一人でいて落ち着いた雰囲気を醸す人は、
自分で自分を見つめることができる人なのだ

きっと、そうだ。
2011/09/07 00:11
by chee-choff | 2011-09-25 00:03 | 思考