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深爪エリマキトカゲ
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◆ 自責と他責/脳とのおはなし
恐らく『「不自由」論』(仲正昌樹)に触発されて書いたであろう文章.
本書のあとがきの「思想と実践の分離」の話が核になっている(はず).
書評は以前アップしたのでここにリンク張っておきます.


「不自由」論―「何でも自己決定」の限界
  • 仲正昌樹
  • 筑摩書房
  • 756円
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書評


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自責と他責

2011/08/25 21:54
前に、ある話の発言主体によってその内容判断が変わってくることがなんだか悔しい
(そういう一連の心変わりに「騙された」と思う)、というような話をした。
(「前の話」はリンク先の上9行だけです.あとは別の本のお話.)
それから少しして、今はそのような経験をすることが全く無くなったなと気付いた。
それはなぜだろうかと考え、思考の芽が伸びてゆく。

今の自分が「話の出所の修正を受けて特に感じるところもない」のは
どんな話であれ自分に引き寄せて考えているからだ。
自分の感覚(身体)に基づいてある判断を下せば、それが何か別の基準によって否定された時に
「判断基準が違うのだから当然だ」あるいは「自分がそう思ったからしょうがない」
との考えに自然と流れる。

逆に同じ状況で「騙された!」とつい憤ってしまうのは、
主体的な判断を下していなかったからだと思われる。
「あの人が言うから」と言い、当のあの人の詳細さえ思い浮かべずに
とある意見に与すると、それが間違いであった時に「裏切られた」とつい思ってしまう。
最初から判断に責任を負っていないのだから、
それに続く言葉が他責的であるのは道理である。

この「自分のものさしを使わない」態度は、
主にメディア発の情報に対してとられるのだろう。
情報源が自分から遠くにおり、その具体的なところを想像しづらい、
または端的に手間であると感じる。
自分で考えてみたところで意見が変わるわけでなし、
周りも同じことを思っているなら無駄な労力は省くべし、
と思えばこの態度は合理的といえる。
同じように思う人が増えれば増えるほど、この態度の合理性は強化される
(それが先鋭化するとデマゴギーに結びつくと言える)

身近な人の意見に対しては、その人の性格や行動を加味したうえで可否の判断を下す。
この「その人の性格や行動を加味」することが、
上で言った「自分のものさしを使う」ということ。
面と向かったコミュニケーションが取られる限り、この振る舞いが自然となる。
(この点が意志疎通の成立確認項目筆頭だからである。
 「妻のご近所ゴシップを話半分に聞く夫」を想像すればわかりやすい)

ここまで書くことで明らかになるのだが、
メディア情報への接し方と身近な人々との接し方は、
各場面で自然に振る舞っているはずの一個人の中では矛盾した態度となってしまう
のである。
それをそのまま引き裂かれることが苦でなければ個人の内では何も問題は起こらないのだが、
実際に問題なのは「社会の価値観がそれを良しとしない」ことである。

「ものごとは分かりやすく、人は己の行動において首尾一貫していることが望ましい」という常識。
この常識と、氾濫するメディア情報とが、
個々のコミュニケーションにおける自然な振る舞いを侵食しているのだ。
そして、人の身体感覚は鈍ることになる。
これが情報化時代における脳化社会の、ひとつのありうる流れだと思う。
2011/08/25 22:21


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 もとは自然たる身体の一部である脳。
 脳という自然が人工(=理想・幻想)を生み出す、
 アクロバシー。

 そのアクロバティックな原体験を、機能構造を、
 脳は忘れる。無視する。なかったことにする。
 つまり、脳はその出所からしてアクロバシーを嫌う。

 だから、
 脳だけでは「矛盾を抱える」ことができない。
 脳だけでは「引き裂かれている」ことができない。

 脳化社会とは、人工の社会だ。
 理想の社会、幻想の社会だ。

 「それでは、幻想の社会は、何にとって、良いのか?」
 「…脳にとって、良い」

 「では、脳は、人か?」
 「…」

 「これにイエスと答えるのは、人か?」
 「…」

 「それも、脳ではないのか?」
 「…」

 脳は、沈黙する。
 自分を疑う姿勢の前に、ただただ沈黙する。

2011/08/25 22:35
by chee-choff | 2011-09-14 00:34 | 思考