深爪エリマキトカゲ
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◆ 世俗と宗教を分かつものについて
こつこつ読んできた『太陽を曳く馬』(高村薫)もいよいよ終盤.

「世俗の言葉で宗教を語る」様を見て愕然とし,
自らの浅薄な宗教観を改めねばなるまいとは思ってもいいのだけど,
そこから「宗教にのめり込もう」とは思わない.
それは現今宗教を語るにおいて付きまとう胡散臭さのせいではなく,
自分に引き寄せた時に「宗教を完遂(という表現をしてよいのか分からないが)して得られると想像されるもの
(それが本当に「想像し得るもの」であるはずはないのだが)は自分が求めるものではない」と思われるからだ.

現段階の理解が正しいかは心許ないが,宗教というか「宗教性」というものは最後には個人で極めるものだ.
「あの子と一緒に涅槃三昧」などという言葉は耳にしたことがない.
(敢えて似せた表現をすれば「仏と一緒に〜」だろうか?)
別に冗談ではなく,これは「世俗の言葉で宗教は語れない」ということ.
とすると最初に書いたのは「語る」でなく「翻訳する」が正しく,
「世俗の言葉で宗教を(世俗に引き寄せて)語る」という表現がより正確となる.

きっと,僕は世俗の人でありたいのだ.
(物凄く当たり前な発言だが.何せ今まで知り合った人は全て(少なくとも表面的には)世俗の人だったのだ)
なぜそう思うのかというと,恐らく正しく「宗教の人」である人は他者の排除を厭わないからだ.
それは決して他者の排除を積極的に遂行することを意味しないが,
世俗の人がそれにどうしようもなく持ってしまうはずの後ろめたさや気後れを一切感じないということ.

そういう「閉じ方」をしたくないと思った.
自分を世間から遠ざけ固く閉じるかのようにも聞こえる日々の思考の泡沫が,
決して他者とのつながりを断つ手段に用いられることのないように.
そう改めて言わしめるほど,宗教は恐ろしく魅惑的なのだと思った.

(追記:ここで「世俗の人」「宗教の人」と呼んでいるのは,人間の性質の名である.
 いかなる人も「世俗の人」「宗教の人」の両者の一面を持つ,と言ってよいと思う)

果してこれは「世俗の言葉」か「宗教の言葉」か?

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「なぜ? 無論、鏡が正しく鏡であるようにするため。深淵が正しく深淵としてあるようにするため、でございますとも。その鏡とは、すなわち意味する作用としての<私>が霧散しないためになくてはならない外部。<私>の声が届かなければならない相手。その声が届く限りにおいて、<私>がなにごとか発し続ける動力にもなる、その当のもの。あなたがいま仰ったとおり、まさにそれなくしては語る声としての<私>が成立しないようなものとしての言語なのでございますから。そしてほら、人間に存在の意味を与えるものが言語であるなら、その言語に向かって有る<私>は決して消えてはならないのです」
高村薫『太陽が曳く馬 下』p.321
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ま,カタい話ばっかもなんなんで,息抜きにひとつ.
スタイリッシュ成仏.

【初音ミク】般若心経アシッドジャズ を歌ってみた by UmiNeko
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by chee-choff | 2011-08-29 23:44 | 思考