深爪エリマキトカゲ
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◆ 卒業アルバム
高校の卒業アルバムを眺める。
主に人を見るのだけれど、思い出されるのは出来事ではなく、その人の「人となり」。
想起されるのは記憶というより印象。
それを呼び起こすというより「再構成」する。

顔も変わったなー、と思った。
何の顔かといえば、脳内に格納されていた人々の顔。
アルバムを見返したのは恐らく3年以上ぶりと思われるが、
見ない間にずいぶん変わったもんだ。

いや、紙の上は変わるはずがなく、久しぶりに眺めて発見があることを言っているのだが。
その変わり方から自分の心象について気付かされることもあり、興味深い。
過去は変わるという認識の、いかに強力なことか。
…「過去の時を止める」願望は「現在の時を止める」それとさほど違わないのではないか。

もう「思い出」といえる大層なものは深く沈んでいってしまったらしい。
ばったり当時の友人に会っても、自分から「あんなことあったね」と言える自信がない。
それをそれだけ「今を生きている」ということであり、
「過去が今を基準に、今と分離せず生かされている」と言うことも可能だ。


会いたい人はたくさんいる。
話すことがなくとも、勝手に出てくるだろうから。
そんなあいつも、あいつと一緒にいる自分も含めて、
つまり「共にいる場」を信頼できる、そういう場を形成できる人たちだから。


会いたい人はたくさんいる。
でも、やはり気付いてしまう。
「会いたくないけれど会いたい人」が一人だけいる。
相変わらずだと思う。

どっちなんだろう。
いや、決してどちらかに落ち着けさせられない。
それはもう諦めている。
それを諦めるとはすなわち、「ずっといる」ということ(どこに?)。

その人がどうあってほしい、というのは、ない。
その正直な思いが、「会いたくない」を構成する。
では一方で、「会いたい」を構成するものは何か?
たぶん、その人が僕にとって、「その人の前では一番正直になれない人」だからだ。

なるほど、実に正直だ。
「考えることに没頭しつつも飽いている」というアンビバレント。
引き裂かれていること。
その人は…

その人はきっと、「身体の人」だった。
そして驚くほど頭の回る人でもあった。
それが,「身体」であり同時に「頭」でもある表情に、正直に表れていた。
「とても表情では表せない」という表情。

それを当世風の「奥ゆかしさ」だと思った。


昔の自分はそんなこと考えてすらいない、
とは断定できなくなってしまった今日この頃。
それを考えるだけの素材を当時から培っていたことは確か。
ならば、断定する必要もないじゃないか。

…昔のことを考えながら標準語で書くと気持ち悪くなるな。
関西弁が文語として使いにくいのは明らかだが(その点川上未映子は凄い…読んでないけど)、
それとは別に、自分はやはり関西人なのだなと思う。
ま、えーか。


帰神します(注:神戸ではない)。
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by chee-choff | 2011-07-29 15:41 | その他