新しい示唆を与える言葉.
>> 私一人がここにいて,ここからどの方向へも抜け出すことができない.魔法瓶の中に入れられた自分を想像することができる.魔法瓶の内側は鏡のように中身を歪めて映し出すだろう.だが,歪んでいるのは現実の方かもしれないではないか.どちらが正しい姿なのか判断ができない状態,すなわち単一の視点,それが孤独というものの中心である.(…) 「まあ,そうは言っても,結局のところ,孤独を感じるためには,孤独ではない状況を知らなければならない.そうじゃありませんか? その対比があってこそ,孤独だと感じるわけです.(…)」 森博嗣『少し変わった子あります』 p.130-131 >> 僕は孤独が好きな人間であって, プライベートでは圧倒的に一人でいる時間が多く, 好き好んでその状態を保っていると自分で思っているが, たまに,人と会って喋りたいな,と思うことはやはりある. その心境の解釈として「根は寂しがり屋なのだろう」と簡単にまとめていたが, そこからは「四六時中一緒にいても苦痛でない人がいるなら居て欲しい」という推論が導ける. が,この抜粋は逆のことを言っている. たまに人と会いたくなるのは,「孤独を再確認するため」だという. ずっと一人でいると,孤独であったものが孤独でなくなるのだ,と. ここでは孤独を「落ち着き先」とは捉えていないようだ. 常に対照物がちらつき,それに惹かれはしないがどこかしら不安定な状態. その不安定が恍惚と結びつく,というのが,分かるような分からないような…. 『恋恋蓮歩の演習』(森博嗣)から以前引いた言葉で, 「自由を問えることが自由である証しだ」 というものがあった(多分そのままではないが). 自分は自由だろうかと悩む姿は何やら思考の束縛を受けている印象と思われたりするが, 自由に振る舞う無垢な状態では不自由を想像することはできない. 「思考の自由」を考えるならば,自分の自由を疑う, すなわち自分をひたすら対象として思考に繰り込める状態が 「自由」だと保呂草は言っているのだと思う. それが安定か不安定かは人によって捉え方も変わろうが, 最外殻を包含できるのは「不安定」だろうなと僕は思う. (こんな言い方をするのは,思考の自由は安定と不安定の両方から成ると思っているからだ) その一方で,昔4週間ほど自転車旅行に一人で出掛けた時, その理由を道中や帰阪後に考えてこう書いたことがあった. >> 自ら人と離れることによって、 人の暖かみを感じてほしい 人の暖かみによって自分は生かされていることを 欲しくても手の届かない所へ行き、切に感じて欲しい そんな心の声が、 人知れず自分の頭に語りかけているのではないか… >> 孤独になることで,人の暖かみを再認識する. 人々に囲まれて生活し,慣れきってしまうことで失われたものを取り戻す… むむ,どれも本当のように思える. それぞれの場面を思い起こせば,切実な感覚にリアリティが込もっている. ケースバイケース,という無味乾燥な落着に今は意味を見出したくないが… あれ,この状態,これこそが「孤独」か? >> どちらが正しい姿なのか判断ができない状態,すなわち単一の視点,それが孤独というものの中心である. >> 「孤独というものの中心」? 孤独とはイコールではない…からこその表現だと思える. 「孤独の中心」とは何だろうか…
by chee-choff
| 2011-07-07 23:03
| 思考
|
ファン申請 |
||