>>
(…)道元Aと道元Bは,一方があって他方がある,一方がなければ他方もない,という種類のものでございます.小乗がなければ大乗はなく,大乗を支えているのは小乗による存在や時間や意識の分析と論証なのでございますから. 高村薫『太陽を曳く馬(下)』p.89 >> 「宗教は無思考の典型だ」という印象をハシモト氏著作をいくつか読んで持っていたが, どうやらそれは単なる「現代の流行り」らしい. 宗教を俗世と離れたものと見ると理解が遠くなるが, 自身に,あるいは身近な感覚に引き寄せ(られるものと考え)ると, 理解可能なものであったのが意外だった. うん,そりゃ「道元A」だけじゃまずいわな. >> (…)閉鎖的な宗教集団の論理が,(…)反社会的行為の説明にならないのは,オウム真理教の事件と同じだった.激しい修行による思考停止や,何らかの物理的な洗脳や,グルへの絶対的な帰依といった蓋然的な状況だけでは,宗教的救済の意志が殺人と暴力に軽々と転化していったことを説明できなかった理性の敗北を突如思い出しながら,(…)この暴力行為はむしろ宗教一般に内在している何ものかであるか,否,そんなことではそれこそ警察には歯が立たないことになる,(…) 同上 p.95 >> 『正法眼蔵』を読み込んで役僧と渡り合う合田刑事がもう凛々しすぎて鼻血出そう. あと,今の自分に心地よいと思われている宗教の一面は, 「そこに静謐がある」ということだと気付いた. 無思考のそれ,感覚に付き従うままのそれはある種危険であるが, 脳の活発と共存できる身体のそれならばあるいは… という思いと共に,連想は繋がり続ける. >> クラウゼヴィッツが指摘したように、国民国家の遂行する戦争機械に駆動力を供与するのは「怒りと憎しみ」である。 国民国家内部に蓄積される怒りと憎しみは、どのような形態のものであれ-戦争の成り立ちを説明する言説のかたちをとろうと、戦争抑止のための言説のかたちをとろうと-戦争機械に(少なくともその一部分は)収奪され、戦争機械を前に進める動力を提供する。 そのことはもう2世紀前から分かっていることだ。 ぜったいに「怒らないこと」。 クールになること。 それが戦争へのコミットメントを、戦争による災禍の到来を一秒でも先送りするための最良の方法であると私は信じている。 明日は明日の風と共に去りぬ 4月16日 >>
by chee-choff
| 2011-06-28 00:20
| 読書
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