深爪エリマキトカゲ
cheechoff.exblog.jp
Top
◆ 問い続ける人々
2011/02/15 21:58
僕は前に、自分が読む本の傾向について、
「考えさせる、考えるきっかけを与えてくれる本」
と書いたことがある。
これはそのまま本当で、では違う表現として、
どんな著者が好きかと問われればこう答えよう。
「ある(一つの)ことを問い続ける人々」。
そのかたちは様々であり、たとえば
「分からないことを素直に認め出発点とする」人や、
「媒介としての自分の身体を見つめ続ける」人がいる。
彼らは自分が変わってゆくことを恐れず受け入れ、
むしろそれを楽しみ、糧とするように振る舞う。
そして僕はそんな彼らに憧れ、そうありたいと思い、
分野を問わず「問い続ける姿勢」を吸収したいと思う。

「書き方や姿勢が導入になれば色んな分野に
興味が持てていいね」とは、たんなる結果である。
恐らく同じようなことを、彼らは何度も
言われ続けてきたのではないかと想像する。
それは彼らからすれば「本末転倒」な問いなのだろう。

一度知ったら、後戻りできない。
自分にそうさせるものが自分の中に生まれることが、
きっとあるのだ。

僕はそれに、憧れる。
 そして、「願えば叶う夢」だという確信がある。
 いつ叶うかは、きっと些細なこと。
 「事後的にそうだと知れるもの」に違いない。
 それが知れた時、おそらく僕は、
 それとは別の憧れに夢中になっており、
 達成感もそれほど大きく感じることはないだろう。
 「変わり続けること」「終わらないこと」とは、
 そういうことなのかもしれない。


+*+*+*+*+*+*+*


こんなことを書くに至った文章たち。

>>
「分からない」というのは、まだ結論が出ていないという意味なのであって、決して問いに答えを出す努力を放棄したわけではない。私にとって、「分からない」という答えは、「答えを出すべき問題を抱えている」ということだ。そして「分からない」に至る過程には多くの混乱と思考がある。逆に、思考停止または思考放棄を表すのが、安易に「信じる」態度とか、「信じられない」という言葉だ。
長山靖生『若者はなぜ「決められない」か』p14
>>
 11.04.07追
 話は変わるが、例えばニュースのコメンテータが
 陰惨な事件に対して発する「信じられない」という言葉、
 あれは本来は「信じたくない」が正しいのでは思う。
 そして自分の好き嫌いを可能(性)に読み換え、
 さらに可能を自分の能力でなく対象の特殊性・逸脱性に
 因るものとみなす意識の根底にあるのは「他責性」ではないかと。
 そして他責性を生み出す土壌はメディアにある、と。
  というか他責性はメディアの本質だよね。
  だからメディアの論調と自分の主張を同一化するととんでもないことになる。
  メディアは一般の声を拾うが、一般の声の構成員たる僕らはそれを
  他人事として聞かねばならない。
  「背後に生の声が立ち上るような記事」と言われることがあるが、
  それとてもちろん「そのもの」とは程遠い。
  メディアは隣人のような気軽さで接してくるが、メディアは隣人ではない。
  気軽さにかまけて、あるいは情報量に圧倒されて、僕らはよくそのことを忘れる。
>>
 結論というほどのものは何もない。ただ、からだによってでしか表現しえない事柄、からだを通してでしか答えのみつからない問いかけがあるのだ、ということだけを書きたかった。そしてまた、からだに耳をすまし、目をこらすことでしか理解出来ない物語があるのだということも。
如月小春「<からだ>の情景」p59(『越境する知1 身体:よみがえる』2章)
>>
その「からだによってでしか表現しえない事柄」を
からだの直接の影響の外に伝える・知らせるためには
言葉を綴ることが必要であること、
そうして紡がれた言葉によって読み手の身体が賦活される
(=書き手の身体感覚が読み手に再現される)ことがありうること。
その証明は個人の中で成されるべきであり、
僕が如月氏のこの文章を読むことそれだけで果たされるのである。
この体験に「一般化」は馴染まない。
一般化できるのはその構造だけだ。
…この体験に限った話でもなさそうだけれど。
2011/02/15 22:43
2011/04/07 23:26
[PR]
by chee-choff | 2011-04-15 20:18 | 思考