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深爪エリマキトカゲ
cheechoff.exblog.jp
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◆ 大災害を願う心象について
先程大きな地震があった。
宮城で6強。
当初の連発さからいうと、久しぶりにきた。
こっちでは3と4の間くらいか。
揺れが収まるまで本棚の平積み本を押さえていた。


ウチダ氏コミュでタイトルの件が過熱している。
その具体的なところは知らない。
(そのトピックのコメント数のみ見かけただけで、
 中は全く覗いていない。)
しかし自分も気になるテーマではあるので、
これを機に一人で勝手に考えてみる。

小さな地震が日頃から継続的に起こっていて、
一つ起こるたびに身構えてはすぐに収まって、
「いっそのことおっきいのこんかい!」と
図らずも思ってしまったことは僕にも幾度かある。
震源地に近い人からすれば「なんちゅうことを!」
との非難轟々を免れない想像であることは承知だが、
彼らを思っての思いではないことにまずは注目したい。
(揺れがきて、緊張している人間がまず考えるのは
 「揺れが大きくなったらどう動くか」という
 まじりっけなしに「自分のこと」だ)

自然に思われたことを「異常だ…」とみなすよりは、
「異常に思われるが実は正常ではないか…」
と思考の後にみなせるのならば、
その方が精神衛生上は具合がよろしい。
という前提で論を組み立ててみる。

先に結論を言えば、タイトルの心象は
「苦しい日常からの逸脱願望」の発現ではないか。
「余震で揺れる」が毎日のように続いてしまえば
それは日常になり、その都度最悪の事態を
想像せざるを得なくて疲れるわけだから
その日常は当然「苦しい日常」となる。
「余震で揺れては収まる苦しい日常」からの
手っとり早い逃避の可能性といえば、
「余震のあとにバカでかい本震が来る」だろう。

「バカでかい本震」が来れば当然自分が今いる部屋も
崩れるだろうし、会社も崩れるし日常はズタズタになる。
が、余震で揺れるその瞬間にはそこまで想像できない。
余震で揺れ始め、最悪の事態を想像し、
それが実現した時の自分のとるべき最適行動を
シミュレートし、余震の成り行きを最大限の
緊張を持って見守り、デカい本震が来なかったことを
確認し、緊張から解放されてまずやってくる感覚は
「またか」であり「もういやだ」なのだが、
「またか」「もういやだ」の想定する対象は
上で述べた「苦しい日常」だけであり、
瞬間的な連想としてそれだけからの解放を求め、
それが「いっそのことデカいの来いよ」になる。

よく考えれば「なんとバカな考えだ」と分かるのだから、
そんな考えを瞬間的にもった自分は「ろくに
深く考えていなかった」だけであり、
それさえ認めればこのことはちっとも異常ではない。

ということかしら。
むむ…冷静にならねばいかん。

ついでに言ってしまえば、
「もしかすると自分は異常では…」という想定も、
(これまで正常に相対してきた)「苦しい日常」からの
解放を願う心象が原動力になっていないとも限らない。
こういった「自分を疑う余地」を常に残しておかねば、
非常時に適切な対応をとることはできないだろう。


大災害に対して、
物の準備も必要であり、
心の準備も必要である。
が、それに加えて、
「頭の準備」も必要である。
そして、
「腰の準備」も必要であり(「腰を据える」)、
「腹の準備」も必要である(「腹を決める」)。

いろいろ要るね。
by chee-choff | 2011-04-08 00:24 | 思考