深爪エリマキトカゲ
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◆ 方言と標準語<WW-07>
2011/01/16 23:30
今回は言葉の話。
「敬語」と言われて大学受験時代、古文に苦しめられた自分は
まず「尊敬語」と「謙譲語」を思い浮かべ、
前者は相手を上げる、後者は自分を下げる、
などという図式を思い出す。
この「上げ下げ」は立ち位置に関してのものだけど、
これを「距離」におきかえると、両者とも
「距離を置く」ために用いられるものとなる。
もちろん「丁寧語」も然り。
といった理解にとどまる人が大半なのではないかと
勝手に前振りを設定しておいて(ご無礼m(_ _)m)、
氏はここから「標準語」と「方言」の話に
結びつけてぐいぐい展開していく。
(ここまではいらないかも…)
標準語はなんだかよそよそしく、方言には暖かみがある、
と言えば地方出身者(京阪神も含めます)には
大体納得がいくと思われるが、その感覚を
適切な言葉で表現・整理する技術がすごい。
標準語と方言を「ことばの持つ自己表出力」において
対置し、その変数を「ことばの流通する範囲」とする

この解釈自体はそう驚くものではないが、
解釈を補強(説明)する表現の卓越さには注目したい。
なお、抜粋記事のタイトルが示す通り、抜粋箇所は
本論へ合流するまでの「枝論」(こんな言葉あるのかな)
である。この「枝論」が「敬語への自覚」すなわち
「敬語という他者の認識への自覚」の必要性と
どう結びつくのかは、ぜひ本書を買って確認すべし。
(あれ、販促で終わっちゃった笑)
>>
モノローグがある種の共通性を獲得し、限られた範囲で流通してしまえば、それは方言になる。方言は、地域的なモノローグなのだ。「方言の重要性」が今の時代に言われたりもするのは、自分をより濃厚かつ明確に語るためのフィールドを持った言葉が必要とされているからだろう。
 方言に対する標準語は、「他者との交流」という必要から生まれた言葉である。だからその重点は、自分の外側=他者にある。他者との関係に比重を置く言語によって自分を語るということは、自分を希薄にすることでもある
(…)
 普通、人は「渋谷界隈の若者言葉」を方言の一種だと思わない。方言というのは田舎にて、都会にあるものではないという思い込みがあるからなのだが、ある限られた範囲内でしか流通しないという点において、若者言葉は方言の一種である。そして、その流通が限られた範囲内であるからこそ、ここでは親疎の別がなくなってしまう。
 方言を通用させることができる安心感と同じものは、実は日本社会のどこにでもある。若者言葉もその一つで、「その言葉を共有させられるからこそ仲間だ」という安心感によって、この特殊な言葉は成り立っている。そして、その言葉の罠も、また同じところにある。「その言葉を共有させられるからこそ友達だ」という安心感によって成り立っている以上、その言葉を使う人間達の間に、意志の疎通を図らなければならない「他者」は存在しないのだ。他者が存在しない以上、言葉はぞんざいになる。(…)すべてが同質の人間達によって成り立っている言葉は、「他者」を欠き、それゆえに「他者への説明」も欠く。つまり、言葉としての機能を大きく劣化させてしまうということである。それが、他者の訪れることが稀な閉鎖的村落であるならともかく、大都会の真ん中で「他者への説明」という機能を欠いた言葉が公然と流通しているのは、あまりにも不思議であり、不自然である。
p.118-120「存在する敬語への自覚、他者への自覚」(「毎日新聞」)
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2011/01/17 00:15

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by chee-choff | 2011-03-27 23:56 | ハシモト氏