人気ブログランキング | 話題のタグを見る
深爪エリマキトカゲ
cheechoff.exblog.jp
Top
◆ 敢えて考える5
久しぶりに「ink now」の続編.

何の話かもう忘れてしまった方はまずこちら(の後半部分)をどうぞ.

話はいよいよ山場.

と言っても「自己の腐敗度」が山場というだけだが…


◆2011/01/18 01:01
2010/01/24 13:10
昨日思ったこと。
もしかすると、今の自分は「羨ましがられている」
のではないかという発想を持った。
 これは明らかに自己防衛反応ですね(笑)
 ここらで危険水域に入ったと見ていい。

個人で閉じていれば思い至るはずのない発想だが、
研究室の人間(具体的にはKが一人でいる時だが)を
見ていてふと思った。
 困ったら身近な他人をダシに使う、と。
 まぁ常套手段ではあれ、その内実を今ここで晒す
 という神経はちと常軌を逸する気がしないでもないが、
 (過去の非常事態の自分であれ)自分のこういう中身が
 他人に了解されていると思い込むには
 格好の材料(行為)であって、それ込みの目で他人から
 見られてそれを吹き飛ばすようなオーラを自分の内側で
 形成する必要に迫られる様まで想像する自分は
 もう救いようのないマゾですね、といった話を
 続けていると立場がどんどん悪くなるので(今更か)、
 この辺で自粛。

なぜか。
昨日、M2のKはこの時期にも関わらずPS3で
楽しんでいるようであったが、ふとその振る舞いの影に
「不満」を見て取ったのだと思う。
それが僕自身と同じく大した研究でないことによるのか、
彼がそれを認識しつつかつちひろはなぜそんな泰然自若と
していられるのか(あるいは明晰なオーラを醸して
いるのか)に疑問を持っているのか、
あるいは(詳述はしないが)日頃の振る舞いが欲求の度を
高めたがために中途半端な自分の立ち位置に
苛立ちを覚えてしまうのかはわからない。
 なんとかぼかしてるけど酷いこと言ってるねこれ(笑)
 幸福や満足の指標は(特に身近な)他人との
 相対値によって大きく左右されるわけだから、
 他人を落とせば相対的に自分は浮上する。
 そりゃもっともだ、もっともなんだけれども…
 自分の思考で押しとどめるのであっても通常は
 その行為自体に後ろめたさを感じるものである。
 その後ろ暗さの理由までは普段の人はほとんど
 前景化させないかなとは思うけれど、実は
 「思考は顔に出る」ことを経験上みんな
 知っているからではないかと僕は踏んでいる(何を?)。
 つまりは「考えている内容の傾向はなんとなく
 相手に伝わってしまう」ということ。
 身体性が軽視される「脳化社会」では相手の表情や
 佇まいを読む技術も廃れる傾向にあるだろうから、
 逆に「思考内容と表情をちぐはぐにさせる」技術を
 こちらが磨けばそれは使えるのではないか(何に?)。
 と、ふと(ここ強調)思ったりもする。
 あ、あと「ちひろ」とは自分のことです。
 名前の由来は「千と千尋」からきているのだが
 (中学で先輩に「今日からお前は千だ!」と言われて
 それがダジャレだと気付くのに大変な時間を
 要したことに由来する)、そして一気に話が逸れるが、
 実は近々ブログのコンセプトをきっちり考え直そうと
 思っていて、それを如実に表すであろうブログの
 タイトルを「ちひろ氏の生活と意見」にして
 一人称を「ちひろ氏」で綴っていこうとか考えている。
 (ちなみに森見登美彦ブログの一人称は「登美彦氏」)
 まだ全然詰めていないので妄想的予告はここまで。

…こういった話はもちろん人に(当人になぞもってのほか)
話すたぐいのものではないが、自分で独白するにせよ、
自己弁護の詭弁の砂上楼閣的屁理屈であるとの視点を
免れ得ないが、そもそもそのような表裏(正邪?)一体の
論理にこそ(身体性、あるいは誠実が含まれていれば)
(少なくとも当人にとっての)真理が見いだせると考える。
 あ、自分でも気付いてますねこれ。
 しかしよもやこの「独白」を公開することになるとは
 思いもよらぬであったろうに(とものすごい他人事)。
 ちなみにここの「砂上楼閣的屁理屈」はたしか
 「モリミー語録」に入っていたかと思う。
 (=森見登美彦の著作に出現するオモチロイ単語集)
 これをぜひ習得したいと思い『太陽の塔』を
 数年越しに6回読み返したりもしたが…
 まあそれはまた気が向けば。
 そして「表裏一体」がよくわからない。
 たぶん「ふつうに考えるとよくないことの中にも
 よく見るといいことが含まれている」といったことを
 言いたかったらしい。言いたい放題やね(笑)
 あと困った時はなんでも「身体性」をもってくる、と。
 この言葉って適用範囲が広いからいろいろ言えた気に
 なっちゃうところが少し恐い。
 のでもう少し自重した方がいいんじゃないかな。
 ー>今の自分

逆に言えば、「反論の仕様のない正義」には実用性など
これっぽっちもありはしないのである。
 そこで(その「正義」を振りかざされた時点で)
 対話(議論)が終わっちゃうからね。

まぁこういう議論を一遍やってハイ解決ではなく、
延々と堂々巡り(に思われるが実は山頂に向けて山麓を
少しずつ上向きにぐるぐる回っているのだ、という
比喩はウチダ氏から頂いたもの)を繰り返してこそ、
自分のスタンスの誠実さが担保されるのである。
つまり「この道も楽じゃないな」ということであり、
「この道」とはいつか心に決めた「もう考えないことから
逃げない」のことである。
もちろんそれは大前提の話で、身体性を敏感に
しておきたいかたわら疲れたら無理せず休みたいわけで、
それは忙しい時もさらなりということなので、
こうして修論執筆真っ盛りのこの時期に
関係のない思考に励みつつ取るものはきちんと取るという
方針も守りつつ無理しないという意味での退路(側道か)も
きちんと確保されているという「高安全率の安心設計」
がここに確立されたのである(安心って何?)。
調子いいね。
 最後らへんはもう手が勝手に動くがごとく書かれた、
 というか打ち込まれた記憶がうっすらある。
 今までずっと考えてきたことやずっと読んでいる著者の
 言い回しなどは本当にするすると出てくる。
 「他人の言葉を語るほど饒舌になる」のは本当。
 それを「自分の言葉で話せている」と誤認せず、
 かつ自分の言葉を導くための「繋ぎ」であるとの
 自覚を強く持つことが、言論で生きる人間には
 必須のスタンスかと思う。
 あくまで「言論で生きる人間」の話。
 彼らはふつうの人に貸すための言葉を用意することを
 生業としているわけだから。
 だからふつうの人は「他人の言葉」を「自分の言葉」
 として話すことに躊躇する必要はない。
 むしろ日常はその行為で埋め尽くされている。
 気をつけた方がいいのが「程度を守ること」、
 そのためにあると便利なのが「自覚を持つ」。
 それらを「利便」ととるか「謎」(好奇心を誘うという
 意味で)ととるかが、ふつうの人と言論人の分かれ目。
 なんか話が変な所に…そしてここでおしまい。。

2010/01/24 15:57
◆2011/01/18 02:01
by chee-choff | 2011-01-23 17:31 | ink now