前振りなく言うけど(という「前振り」ですこれ),
一冊でも読んだ人には分かるのだけれど, ウチダ氏の本は「何が言いたいのかわからない」ものが多い. 本が書かれたとなれば著者は何か言いたいことがあるとなって, 読み終えて「結局のところこれが言いたかったのか」と うんうん頷いて納得,という形がふつうだと思われている. それがそうだとして,では「何が言いたいのかわからない本」を読み終えて, 「この人はなにが言いたいんだ?」と思って,そこからもう少し考えてみると 「この人は“何を言いたいのか分からなくする”ことで何を言いたいのか?」 という疑問にたどり着くことができる. ここまで来てやっと著者も安心,というところなのだけど, それはつまりどういうことか,ということが ズバリ書いてある箇所を見つけた. でそれは,むべなるかなウチダ本ではなくてハシモト本である. >> だから,うっかり私の本を読んでしまった人は,「一体この人はクドクドエンエンと,なにを言いたいんだろう?」と首をひねるのだ.そして困ったことに,この私の本は,いつも明快に,“著者がなにを言いたいのか,分かったようで分からない”というところへ行くようになっている.つまり,「この橋本治という人は,あまりにも“宗教にならないように”という仕掛けを自分の本に張りめぐらしすぎている」ということである. ということはどういうことかというと,「宗教というものは,あまりにも簡単に“答”を出してしまうものである」ということだ. 宗教の側の出す“答”は,いつでも簡単だ.それは,「私の宗教に入りなさい.そうすれば簡単に分かりますよ」だからだ.宗教がまず“信じる”ということから始まっていることを,よく考える必要がある. (橋本治『宗教なんかこわくない!』p.84-85) >> 「宗教」という言葉がたくさん出てくるが, この本の初版は99年であり, つまり当時の「宗教」の代名詞であったオウム真理教を題材に書かれている. とだけ言って,抜粋した章の大事なところをいきなり抜き出してしまう. >> 必要なのは,宗教でも指示でも教祖でもリーダーでもなくて,“自分の頭で考えられるようになること”──日本に近代化の必要が叫ばれるようになってから,日本人に終始一貫求められているものは,これである.これだけが求められていて,これだけが達成されていなくて,これだけが理解されていない. (…) 断言してもいいが,「宗教が理解できない」などという不思議な劣等感を持つのは,日本人だけだ.誤解しない方がいい.「宗教を理解する」あるいは「宗教とは何か?」を考えるということは,「もう宗教というものはいらない,もうこの宗教はいらない」と考えられる人間だけが出来ることで,そんな人間の集団は,日本人しかいないのだ. (…) 実際問題として,日本人には「私はなぜ宗教がいらないのか?」の答が分からない.宗教を不必要にしてくれる“これ”の正体も分からない.宗教を不必要とするものは,ただ“なんでも自分の頭で考えられること”なのだ. つまり,“宗教”とは,“まだ登場しないあるものの前段階”であるようなものなのだ.つまり,「自分の頭でものが考えられない人間の前段階とは,神様や教祖様という絶対者からの支持待ち状態──すなわち“宗教”である」と. 「宗教とはなにか?」の答は,まずこのようにして包囲されるのだ. (同上,p.88-90) >> ハシモト氏はズバリと書き過ぎて, 正面から受け止められず,反発されたりする. ウチダ氏は身体性を前面に出し過ぎて, 細部に突っ込まれたり,真意を酌んでもらえなかったりする. が,二人の全ての著作から,同じメッセージをビシビシと感じる人は感じるのである. 「まずは自分で考えなさい」と. それが「おじさん」たちの長き経験というかその人そのものを根拠としての「命令」というだけでなく 同時に「当為」でもある,ということが氏らの著書に懇切丁寧に書かれている. もっと沢山の人に内田樹,橋本治の本が読まれればいいな,と改めて思う.
by chee-choff
| 2011-01-19 23:17
| ハシモト氏
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