BGM:iroha氏のインスト,「star-phase」.
この曲をリピートしまくって途中で気がついたけれど, これはきっと「Japanese-Techno」なのだ. メロディに時折表れる装飾音(trill)は「こぶし」だろう. (そいえば「こぶし」って漢字で「小節」って書くの最近知った) それはさておき. 本書は森氏の「私的詩的素敵」がふんだんに詰め込まれている. シリーズ作品に比べて自由度がかなり高いと感じた. そんな本書を読みながら付箋を貼った箇所を読み返し, 何か書きたくなった所で立ち止まり,思いを巡らせ,書いてみた. ネタバレ的要素はほぼ無い. そしてそこだけ抜き出しても詩的感覚が顕われるような箇所を選んだつもり. 対象が詩的であればあるほど読み手の想像は自由度が上がる. 詩というのは「紅一点の具体を備えた抽象」ではないかと考えてみる. 身近なコトものが言葉として表れるが(その身近な言葉が「紅一点」), それと結合される別の言葉や展開の不思議さによって本来の意味を失い, 詩全体が浮遊していく. その「ふわふわ感」だけだとつかみ所のないところに, 「紅一点の言葉」が垂れ下がる綱の役割を果たす. その綱を握り,飛んでいく先が詩の作者とは別の場所かもしれない. その善し悪しは作者のこだわりの範疇かもしれないが, 詩の役割を考えるとそれでもいいのだと思う. 日常の感覚から離れ,どこかへ「飛んでいく」ための詩なのだから. ああ…先に続く話と関係ないこと書いてしまった(いつものことだが). ということで,以下に付されたコメントはともかく, 森氏の詩的感覚だけでも味わっていって下さい. では. 注)分かり切ってる話だけれど定期的にアナウンス. 抜粋内の下線は抜粋者によるもの. そして[]内は抜粋者が加えた. 加えて,今回は改行も勝手に足しました. 文字の並びという「絵的」にその方がよかったので. +*+*+*+*+*+*+*+* >> 画面を見ながら女が言った。 「裏返しの私が……、いるみたい」 女に見られながら画面が綴る。 「裏返しの私が……、いるみたい」 (…) 「私は、きっと夢を見ているのだ」 と女はキーボードを打つ。 「私は、きっと夢を見ているのだ」 とキーボードは女に打たせた。 (p.56-57) >> 前半ではうっすら見られた二者の分離が、 後半でより顕著となった。 二者とは、女と画面、あるいは女とキーボード。 すなわち、言葉を発する者と、発された言葉。 状況としては「独り言」と同じだが、 発された言葉を託す(主体に見立てる)対象がいる分、 より分かりやすい分離構図となっている。 さて、無粋な解説はただの導入であって… パッと読むと「おお…」と心動くものがあったのだが、 ・その「心動くもの」とは何か。 また、 ・この分離が主体的に認識できる状況はあり得るか? という二点について、読み返した時点で興味を持った。 後者はきっと考えると面白いのだが, 後の楽しみにとっておこうと思う. こうやって疑問を頭の隅に沈殿させておいて, ふとした弾みに思い出してついでにストーリ(展開)がびゃーっと 脳内を(まさに一瞬)駆け巡る感覚は病み付きになる「脳の躍動」だ. 得よう得ようともがくのではなく,普段涼しい顔をしていての 突如到来という「落差」がポイントなのである. 2011/01/07 00:15 +*+*+*+*+*+* 2011/01/09 14:45 >> 流れている。 躰の中で塞き止められていたものが、 今は緩やかに流れ始めていた。 液体が流れる管の内壁には、 僅かな摩擦による、 擽[くすぐ]るような感触があって、 それが生命の心地好いリズムとなる。 生きていることは、摩擦の集積なのだ。 (p.82) >> 氏は摩擦の有用性によく言及する。 「貿易摩擦」 「フリクションを回避する」 一般的にはあまり良い意味では使われない言葉だが、 物理を思い浮かべればあまりに自明だけど 摩擦がなければ世界は万事が「すってんころりん」だ。 擦(こす)れ合うとは「接触」「密着」「衝突」である。 摩擦の本来の意味が、インターネットをはじめとした ネットワークの発達で失われつつあるのは本当だろう。 「接触」のない、ネット掲示板での感情の「摩擦」。 この「摩擦」は以前は比喩でしかなかったはずだが、 今はもう通用せず、「比喩」の役得すら 感知されることがないのかもしれない。 比喩とは、ある肉体的な感覚を別の出来事(たいていは より抽象的な話)に付随(転位?)させる手法だ。 その大元の肉体感覚なくして、比喩は意味を成さない。 なるほど、『語感の辞典』の存在感もいや増すわけだ。 閑話休題。 「生きていることは、摩擦の集積なのだ」 という言葉にグッときた、という話をしたかったのだ。 で、「血液が血管と擦れる感触」と言われて 初めてそういう感触を自分の躰に対して 感じようとしてみたのだが、なにやら ゾクゾクする感じがあるようでよくわからない。 が、同時に「これは使える」と思った。 というのも、 「身体のある特定部分に意識を集中させる」 時に「その部分を流れる血の廻り」 を想像することが効果的なのではないかと思ったのだ。 ウチダ氏のブログでも武道の話題でよく そういう話になるし(「キネステジー(内臓感覚)」とか)、 つい先日読了した『「密息」で身体が変わる』(中村明一) で呼吸法の説明に戸惑ったばかりであった。 もちろん「血の廻り」はあくまでいち表現であって、 「身体感覚を研ぎ澄ますには適切な言語表現の力を 借りねばならない」とウチダ氏が述べる通り、 僕にとっては言語表現の思考錯誤のはじまりを 意味するに過ぎない。 その思考錯誤の意欲を担保するのは、 自分の躰に隠された力(感覚)が発現する時の躍動だ。 2011/01/09 15:49 +*+*+*+*+*+*+* >> コーヒーの熱が空気へ伝わるように、 僅かでも着実な伝導が、 自分の心をゆっくりと冷却している、 と感じた。 (p.136) >> この比喩も好きだ。 はやる心が落ち着いていく様を対流伝熱で例える。 自分を囲む空気の存在に気付き、その流れを感じるうちに 落ち着いてくるという一連の流れを想像すると、 もしやこれは比喩ではないのかもしれない、 と思わせてくれる。 +*+*+*+*+*+*+* >> しかし、このままだ。 このままだった。 変化はなかっただろう? 何か別の生きものになれる。 その予感も当たらない。 どこか別の世界へ行ける。 その予感も当たらない。 当たらないことはわかっていた。 その予感だけが当たったのだ。(p.157) >> これは「何も分からないことだけは分かっている」 といった類と同じ「屁理屈」だと 言われるものかもしれないが、 この状況に僕は強い共感を覚えた。 というか、同様の経験が何度もある。 実行した結果が想像でき、その後にやってくる後悔をも 今トレースできるにもかかわらず、やってしまう。 この「過ち」と認識されてしまう行為を学習もせず 繰り返してしまうのは、行為自体の吸引力だけでなく、 「想像した通りに事が進む」という具象レベルでは 何ら生産性のない「未来予知」を楽しんでいる、 という面もあるのではないか。 それは、同じ問題の筆記テストを何度も繰り返し受け、 点数がこれ以上あがることがなくなっても 嬉々として続ける行為と同じ駆動原理かもしれない。 あるいは、その場に試験監督がおらずとも。 2011/01/09 16:53
by chee-choff
| 2011-01-17 23:09
| 読書
|
ファン申請 |
||