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深爪エリマキトカゲ
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◆ ゆくとしくるとし('10→'11)3
個人的な振り返りを残り半分と、今年の抱負らしきものと、

あと去年の大体を費やした読書についても何か考えたい。



えっと、3つ目は「ある衝動」だっけか。

これは…少なからず迷惑を被った方が身近にいるので、

弁明口調になってしまいそうだけれどあくまで客観的にというか

自分を突き放して語るがために加えて無責任さも洩れなくついてくる

可能性が高いのでどうもすいません。

…この部分はふつうの読み手と未来の自分に加えて「被害者」も

読み手に想定されているので口調が少々おかしくなりますがご了解下さい。

そして曖昧模糊2段の実力を発揮すべく意味不明度がぐんと跳ね上がるのでご注意下さい。


先に衝動と言ったが、

あれは感覚そのものが衝動なのではなく、

日々内々に培われた「角のとれた」感覚に付随した行動が

衝動的に発露してしまった、の意である。

何に喚起されたかと言えばベースにはその感覚があり、

「起爆剤」としては「それっぽい小説または歌モノ」ですね。

小説やミステリを読む時は大体物語に入り込むのでもちろん

登場人物への感情移入もすんなりと行われるわけだが、

要は入り込む物語の「ある状況」が今の自分の社会人生活の

とある一面に何かしら類似しているという気付きがあって、

加えてその物語の進行に付き合い続けると現実がそちらに

「引っ張られる」ということ(全然要せてないねw)。

「引っ張られる」というのは、そちらに行った方が自然に思われてしまう、ということ。

現実だけを見れば無理のある展開であり、それに現実的な想像(僕が日頃

一般的に行使する類の想像)を加えても然りであったとしても、

その物語の進行が「なんかそれっぽい想像」の代替的な効果を発揮してしまうことで、

「イケイケ」になってしまうのである。

日常的に想像で駆動されて生きる人間の弊害がまた一つ発見されてしまったわけだ。

 本ブログ「深爪エリマキトカゲ」のサブタイトルには、

 僕が敬愛する飾磨氏(@『太陽の塔』)の名言が掲げられている。

 曰く、 「日常の80%は頭の中で起こっている

 頭の中で起こっていることをいきなり現実に当てはめるなどという愚行は、

 飾磨氏にとって最も唾棄すべき行為であろう。

 そして頭の中と現実との距離を縮めるためのすり合わせを行うことも同様。

 ただ僕はプラグマティストなので後者はしっかりやらせて頂きます(笑)

つまり、少しは後悔している。

「これ以上進めない」と言ったのもその衝動の反動であって、

(「いつも通り」と見紛うかもしれないが)「きたれよされば…」である。

そして「別にいい」と言われたかもしれないが、

もし自分に何かあればこちらからお知らせします。

そして、今後ともどうぞよろしく。  12:32


これは懺悔ではないですね(笑)

まぁ相手が普通である限り自分も普通なので僕自身は特に問題ない。

何か問題あれば遠慮なくどうぞ。

という発言の問題性には踏み込まないことにして…



残り一つは…「一人遊びの極意」。

えーと。

イコール「読書」ってことで。 

おしまい(笑)


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今年の抱負をば。

学部生時代みたいに毎年何か違うことを…という気力はもうない。

まぁ気力というか…「ありもの」に使う体力は節約しようかな、と。

もちろん自分発の、に限定した話なのだが…。

で、去年に引き続き「よくわからないもの」への好奇心を培っていこうかと思う。

明確な「これがしたい」に結果まで見えてしまうものは、

まぁ他にすることがなくてしかもうずうずしてる時以外はご遠慮しよう、と。

「よくわからないもの」に対するにはやはりどれだけ慣れても体力・精神力を要するものなので、

もちろんそればっかりというわけにはいかない。

まーそのへんのあんばいはてきとーに、おーわくだけはーくしておけばなんとか。


仕事については、特に何も言うことがない。

利益を生むための最先端研究に携わる身なのでそう簡単に内容を話せるわけでもないが、

それに加えてあまりこの場で敢えて考えるようなことがない。

仕事に関しては「よくわからないもの」なんてないから。

技術の内容ではなくて、哲学的な意味で。

つまりやるべきことは考えなくてもわかるので、考える必要が生じるのは

仕事に対するモチベーションが減じた時であろう。

今の状態ではそこの補強はほとんどなくても平然としていられるが、

「いずれ変化は起きる」ことは確実のものとして構えておく。

この構えも日々の緊張感を保つ糧になるかと思う。


そして最後に一つだけ自分に対する戒めを。

今は読書を楽しんでいて、苦痛に耐えながら勉学に励むことなど

この先考えられない…ような枠組み作りに励んでいる部分もきっと

「構造を意識した読書」には含まれているのだろうけれど、

この読書はそのこと(=読書)自体を目的とするものではない。

どこかで「晴耕雨読、一生読書して暮らせたら幸せね」と書いたか言ったかしたが、

あれは短絡した気分が言わせたもので、細微にわたる想像を巡らせた上での本音ではない。

つまりは、敢えてぼかして言うが、

「いつか今まで読んできた、あるいは貯めていていつか読もうと思っている本たちを、

まとめて手放す時が来たとしてもそれを喜べる状況」の到来を否定しない。

もちろんそれは「死よりも前に訪れるもの」としての、である。

「目的とは一生形を変えて追い続けるもの」という概念的なものではなく、

漠然とはしているがもう少し具体的な形を持っての戒めである。


この最後の文は、「変化を受け入れることそのものの自己目的化」に対する戒めになるのだろうか。

この自己目的化はいち生物として否定するものでもない気もするが、

完全に肯定してしまうと「人間のみが持ちうる意識」を軽んじることになる気もする。

なんだか「背を向けて離れていくうち、前方に同じものと再び出会ってしまった状態」みたいだが、

今はこれ以上深く考えるのはやめておこう。

…そろそろ実家から寮に戻るから、というだけの理由ですけども(笑) 16:18


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というわけで、皆様、

 今年もどうぞ宜しくお願い致します。

皆様にとって、今年も良い一年でありますよう。

chee-choff
by chee-choff | 2011-01-02 16:20 | 思考