深爪エリマキトカゲ
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◆ interlude - ゆきふらぬはこにわ -
今年は新年50分前に家を出た。

雪が降りそうで降らない、月の見えない夜空を見上げ、

「そういえば、雪の匂いってどんなだっけか」

とつぶやく。

 雨の匂いは馴染みがあり、降る前からそれとわかる。

 けれど雪については、記憶の引き出しはからっぽ。

 雪には消音効果がある。

 部屋の中でいやに静かだと思いカーテンをめくれば、

 外は一面の白銀世界という経験は幾度かある。

 同列にするもんじゃないけど、

 あるいは匂いも吸い取ってしまうのか。

 だとすれば、「あること」によってではなく「ないこと」によって、

 「降りそうな雪」はその存在を感知しなければならない。

 もしそうなら…その点において、「他者」と同じだ。

 あるいは、「死者」と。

空一面が雲というわけでなく、隙間と言うには大きく開いた空で幾星かがきらり。

まぁ降ることはないか、と思う。


雪のために登山靴を履いていた。

登山においては歩く道がでこぼこでごつごつしているので、

足首を守るために靴紐が足首の上のあたりまで結べるようになっている。

平地を歩く時は上まで結ぶことはないけれど、

それでもスニーカーやらに比べると足首の自由度が小さく、大股では歩きにくい。

まあ、ゆっくり歩くか。


とのんびり登っていたが、なぜか新年10分前には境内前の門に着いてしまった。

時間があると思って行きからアスファルトが敷いてない山道を選んだというのに…

間に合わずとも悔しくないので、間に合っても特に感ずる所がない。

門はまだ閉まっており参拝客がずらりと並んでいたので、

その列を整えている警備員の方々の外側にぽつんと立ち、

彼らをそれとなく見守る=恒例の人間観察。



参拝客も警備員もみんな、周りを見ていない。

参拝する人々はそれぞれ連れとの会話や携帯いじりにいそしむ。

警備員も目立った動きをする客がいれば注意はするが、

それ以外の待機時は整列する参拝客の頭を通り越して、虚空を眺めている。

なるほど、これが「空気」というやつか。

これだけ人が集まる場所で、「空気」になり、より純な「客観」が味わえる機会はそうあるまい。

と、盗眼2級の僕は独りごちる。

 盗眼(とうがん)とは、眼を盗み見て勝手に対象客体の視覚をトレース(追体験)すること(今作った)。

 もっと言えば、その人が見ているもの(や眼の動き)を通じて考えていることを勝手に想像すること。

 相手に見返されるとそんな想像はいとも簡単に吹っ飛んでしまうので、

 対象が無防備に自己を晒している状態であれば成功率は高い(悪い子ですねw)。

 「目を盗む」だと慣用的に「人の見ぬうちに」になってしまうので、

 「眼を盗む」として文字通り(以上かw)の意味を込めてみた。

 2級に意味はほとんどないが、参考までに自身の所持階級は算盤6級、毛筆2級、硬筆2段。

 まだ伸びる余地はたっぷりある、といったところか。

最前列には高校生くらいの若者グループが陣取っており、

警備員に啖呵を切ったり後ろの参拝客の列を撮影したりしていた。

楽しそうだ。「浮き足立つ」とはこのこと。  13:54 雑煮おいしー☆

今年も若い人が多い…かどうかは正直、ぜんぜん分からない。

何年か定点観測でもしないと説得力のある事は言えないか。

 今年の立ち位置はわりと「定点」としてふさわしい安定感を醸していたので(お札販売所のすぐ横)、

 今年から始めちゃおうかしら、定点観測。

 しまいに警備員の方々と顔見知りになって目で挨拶をするようになるかもしれない。

  「(やあ、今年も居るね。)」「(毎年ご苦労様です。)」

 …発想がじじくさい?(笑)


自分のことは何も考えずひたすら無作為思考トレースを弄んでいたら、

思い出したようにがばっと開門し、若者がどどどと走り込んで列もそれに続いた。

あら…今年はカウントダウン無かったのね。

去年は新年20秒前からどこからともなくカウントダウンが始まり、

カウントが減るにつれてばらばらだったものがまとまっていき、

「ゼロ!」と共に、拍手と方々での「おめでとう」があった。

だからこそ去年は年の変わり目を多少とも意識できたのだった。

それと比べると、今年、'10→'11は文字通り「地続き」であった。

そーなのかー。


それから10分ほど列が動く風景を眺め、

後ろに下がって参拝を終えた人々をまたしばらく眺め、

飽きた頃に焚き火にあたって暖をとった。



火をじっと見る。

 大きい火の先端はじつに勢いがある。

 火種の方がもちろん高温のはずなのに、

 火種に近いほど明るくはあれ火炎は緩慢にゆらゆら揺れている。

 …そうか、先端の彼らは「最後の一息」であったか。

 消え入る間際は、荒々しく、猛々しく。

ここで今日(今年)はじめて、右目を使う。

 (ミニ解説:僕は右目にピントを合わせると左目のピントがずれ、

  ついでか知らないが左右の像が大きくブレて二重に(というより分裂して)見える)

火が二つ並ぶ。

左の火はピントがズレているが、赤々と燃え続けている。

右の火は、火の境界の軌跡の遷移が分かるほど詳細に見えるが、なんだか「血の気がない」。

暖がとれていることは体で分かるが、右の火は触れても熱くなさそうな作り物の火に見える。

そして、恐れも感じない。

左目で見直して感覚が戻ってきてはじめて、その「恐れを感じない」ことを恐れた。


 そうか。

 まだ僕の右目は、「赤子」なのだ。
 
 これから育てていかねばならない。

 あるいは、もはや君はこれ以上育つことはなく、

 この先ずっと「大人に成りきろうとする」他の自分に対する抵抗として生き続けるのか。

 …僕は君に対して育てる意志を持とうと思うが、あとは君次第だ。

 「彼」を支える者同士のよしみで、君の奔放に付き合おう。



そしてこれも恒例の、「缶ジュースお汁粉」タイム。

今年はたまたま目に入った違う銘柄『金のお汁粉』を選ぶ。

自販機の投入口に入れようとする手が止まる。

 この行為は、日常ではなかった。

 慣れた手つきである「はず」の手が、慣れていなかった。

 「はず」と思い、違和感を感じた過去の自分と、

 「それはそうだろう」とすら当然で思うこともなく事を進める今の自分が瞬間、拮抗し、

 立ち止まらせた「自分」とは誰か。

味は、よくわからない。

毎年一度しか飲まないのに味比べなどできるはずはない。

ただ、「これこそが缶お汁粉!」感はあった。

缶ジュースの、というよりは、缶の風味が分かったような気がした。

そして、これが分かるからこそ味わえる幸せと、

これが分からなくなって初めて味わえる幸せがあるのだな、と。

ふーん。


帰りは行きと同じ山道。

大体の感じを行きに掴んでしまっていたので、

上を見つつ左右を見つつ、ゆっくりと下りる。

月は相変わらず隠れているが、

笹の葉のシルエットはくっきり鮮やか。

左右に広がる竹林は、

その遠近によって異なる相対速度を演じてくれる。


帰りはこれから登りの参拝客とすれ違う。

ほとんどの人は懐中電灯を持って歩いていた。

足下を照らす老人夫婦、前後左右そこかしこを照らし舌も乾かぬペアの婦人、

前を歩く子どもの足下を照らし、自分を薄め「我が子」となって歩くお父さん。

繋がりを、大切に。


山を下りてからも余力があったので遠回りして散歩して、

家に戻ったのは1時半。

2時間以上歩いた計算。

よく歩いたなー

なんだかんだいって、自分も浮き足立っていたわけだ。

まだまだ若い、と。


さてさて体も頭も冷えたし、風呂に入って寝るとしましょう。


+*+*+*+*+*+*+*


遅くなりましたが、皆様、

 あけましておめでとうございます。

15:46
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by chee-choff | 2011-01-01 15:50 | 思考