深爪エリマキトカゲ
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◆ ゆきふるゆくくる
今年ももう年末。


はやいもんです。

という一言は、先に過ごした時間の濃淡に関係なく、

本来同時に表すことのできない「時間の流れ」を極限まで圧縮して

目の前にポンと放り投げてこその表現。

つまり、中身のない、特に意味をなさない言葉。

でも、「意味」をなさない言葉にも「効果」はある。


「意味」への過剰な執着と裏腹に、「効果」への感応を鈍らせる。

これは、現代人が世界の流れについていくための宿命かと思う。



と、

いきなり話のスケールが大きくなり過ぎて方向転換できずに終わりそうなので、

まずは ぶちっ、と。




実家のPCは自分(か兄)が小学校時代に使っていたデスクの上に乗っており、

ディスプレイの背後にある大きな窓は空の模様が判断できる程度には視界が開けている。

今は雪はほとんど降っていないが、夕方から強くなるらしい。


雪が降ると外出しないでいい口実になる(なんだそりゃ?)と考える人が身近にいるが、

僕は全く逆である。

白いふわふわを目にした途端、出掛けたくなる衝動に駆られる。

雪国育ちでない証拠やね。



細切れに更新して「只今執筆中」な雰囲気を出してみよう…

twitterでやれって話ですね。 14:48


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書くことはいくらでもある。

が、それと本記事を延々と書き続けることとはイコールではない。


書くために必要なものは、

「話題」、「執筆意欲」、「身体全般の体力」。

装飾たっぷり中身なしの話はいくらでもあるけれど、ここでは表現力(方法)は「話題」に含めておく。


話題はいくらでも捻出できる。

 書きたいことをあらかじめ考えてから「書く」のではない。

 何か(経験、概念、…)の切れ端が頭に浮かんだ時にその切れ端をひしと掴み、

 切れ端につながる紐をぐいぐいたぐり寄せていく行為、の方が「書く」に近い。

 その切れ端はうんうん唸って沈思黙考の後にうっすら見えるなんてたいそうなものではなく、

 目をあけているだけで、ぽかんとしていても無数に「目の前に漂流」(頭の中の比喩です)している。

 気分次第でどれか適当に選んで、ぐいぐい紐を引っ張るだけ。

 その紐を引っ張る筋力は何のメタファーかと言えば、「文章の書き方」とかですね。


 …と「話題」についてはここで引っ張る手を止めて、放す→ひゅーっと落ちていく。

 いや、この比喩は少し違うかもしれない。

 さっきは切れ端が「漂流」していると書いたが、

 これは切れ端の絶対座標(って何だろね)に変化はなく、自分の立ち位置が変わっている状態ではないか。

 漂流している自分が切れ端を掴んだ時にいったん止まり、

 ぐいぐい紐を引っ張る間は方向(ベクトル)と変化量(スカラー)が明確な移動が行われ、

 紐から手を離すとまたあてどない漂流が再開される。


 「腰を落ち着けて考える」という表現の通り、

 思考主体は定位して初めて考え始めることができると思われがちであるが、

 その思考主体を傍(はた)から眺めると、案外「漂流」しているように見えるのかもしれない。

 そろそろ話を戻そうかしら…


書くために必要な要素の二番目、「執筆意欲」。

誰かに見せたい、納得してもらうために書く文章であれば、   15:11 紅茶休憩の後再開 

見せるだけの体裁を整える、あるいは論理をしっかり構築する過程を終えることで

執筆意欲が蕩尽される。

僕の今の場合は、表の名目はこの一年を振り返るためであり、

実際のところはただ思考を弄びつつ年末年始をゆっくり過ごしたいだけであり、

つまりそれと深く連関する執筆意欲は「よくわからない」が正解。

ぜひ言いたいことがあるでなし、誰かに自分を分かってもらいたいとか、

いやそれは少しはあるのか(本記事だけでなく、このブログを続けていく理由の一つやし)、

かといって「どう分かってもらうか」に関心はなく完全に相手任せであってこその支離滅裂であり、

いや、本記事に限ってのことを言うならば…

なんとなく「年末っぽい」ものが書ければそれでいい、ということかしら。

なので対応する執筆意欲なるものは消費量メータなぞあるはずもなく。


さいご3つめが、「身体全般の体力」。

これが一番書きたかった。

「執筆」と言って今はもう執る筆のかげかたちもなく完全PC化であるので、

「打鍵」か細かく言えば「打鍵による文章化」といった所だが(新語考えないとね…)、

打鍵の際に要する体力とは眼、手(指、手首)、腰、首あたり。

その中でダントツシビアに効いてくるのが眼。

大学3回生までは左1.5はあったはずなのだが、

東方を知ってから2年ほど酷使の時期があり(文字通り24時間ぶっ通しで画面を見たことも)、

4回生ではシミュレーション系の研究室に配属されたことで

プログラムのデバッグ作業で穴が開くほどディスプレイを凝視した一年があり、

今は今で職業柄ディスプレイ画面どころか画面の構成画素一つひとつに対して

微に入り細を穿つ目配りの日々を送っているおかげで、

視力が0.2まで下がった、というのはわりとよくある話なのだが、

常時目がひりひりしていて目薬が手放せない体になってしまった。

ここ2年でちょくちょく使い始めた右目も本格的に育てていかないと

 (右目については以前書いたのでまたリンク探して貼ります →__)

この先仕事どころか目を開けては何もできない人にならぬとも言い切れず、

想像するだに恐ろしいので想像はしないのだが…

なんかどこいくかわかんないので話を戻すのだが、

要は「眼が限界にきたら執筆おしまい」である。



その眼について少しだけ書く。

症状が出たのは最近ではないが、どうやら自分は「飛蚊症」(ひぶんしょう)らしい。

専門のサイトを参照してみると、

「明るい所や白い壁、青空などを見つめた時、

 眼の前に虫や糸くずなどの『浮遊物』が飛んでいるように見える現象」

とある。

自分の印象ではその浮遊物はほぼ「アメーバ」である。

眼球内の濁りがつくる影がその実体らしく、視点の移動に対してそのままついてくる、

かどうかは実際分からないが勝手にそうだと仮定して、

そのアメーバ君の動きを通じて視点の移動の詳細が分かったりもするのである。

これもひとつの適応なのかもしれないが言いたいことは別にあって。


病院に行くほど困ってはいないがやはり目障りではある。

視点を固定しているとアメーバ君はいなくなるようなので(これは補正?)、

自然とあまり眼を動かさない習慣がついてきた。

そしてこの習慣も後押ししてくれるという話なのだけれど、


「現象のインプットにおける視覚の占める比率が小さくなってきた」と感じている。

表現が少し変なので単純に「視覚によるインプット量を減らす傾向にある」でもいい。


色んな所に行って、色んなものを見たい。

旅行記を読めばあの国がどんな所なのか分かるけれど、

でも(挿し絵付きであれ)読むのと実際に見るのとでは全然違うよ。

誰しもそう思う。

僕も、そう思う。

でも僕は、そこから少し変なことを考える。

ある国へ行って、歴史的建造物を見たり伝統芸能を見たりする。

あるいは、そのことについて書かれた本を読む。

どちらもそれ相応に得られるものがあり、自分に染み込んでくるものがある。

得られるものは、前者の方が圧倒的に多いのかもしれない。

しかし、その染み込んでくるもののうち、今の自分に大事なものは、

見る対象、想像する対象よりも、受け取る自分の状態に深く対応するのではないか。


つい最近更新したmixiのプロフィール文章にはこう書いた。

 「動いて得られるもののうち大事なものが、動かないでも得られたら楽よね」

これも同じこと。


心躍る経験をしたい。

深く感動したい。

その躍動・感動は、「主体の目の前で起きる現象」と、「受け手たる主体」の相互作用による。

躍動・感動を得るには、その両方あるいはどちらかを充実させねばならない。

器用な、あるいは自覚的な人はその両方を充実させるだろう。

「個性」や「自分探し」を切実に感じる人は前者を充実させるだろう。

僕は軽度な身体的不自由を抱えており、その不自由は進行しており、

その不自由にある極端な解釈を施し、後者を充実させる方に自分を仕向けている。



まぁこの辺が「いち引きこもりの実態」といったところですか(笑)

自分ではもちろん楽しんでいて、

自分に影響を与えるであろう外部の不確定要素への対応も考えていて、

(ウチダ氏のいう「デインジャーに対する備え」の極私的バージョンですね)

かといえばその範疇の枠外にある「外部の未知の到来」を少しは望んでいて、

それでいて自分からは少しも動かない(がたまに突発的に動く)人間というのは、

理解してもよい他者にカウントされないもんなんですかね。

寂しいもんですね。

という発言に説得力がないですね(笑)


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相変わらずいつもと同じこと書いてるなーと最初は思っていたが、

いつの間にやらだんだんそれっぽい話の流れになったので、

このまま流れに乗ると思いきやちょっと満足したのでいったん筆をおきます。

さて、続きは今年の出来事を振り返るとしよう…


んあー外は雲ってるだけで雪降ってない。

「ゆーきふーれコンコン♪」ですね。 17:08
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by chee-choff | 2010-12-31 17:08 | 思考