深爪エリマキトカゲ
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◆ 自然と習慣
2010/12/22 13:46
『じぶん・この不思議な存在』(鷲田清一)の一節に、
ふと立ち止まる。

>>
 そうだとすると、わたしたちがじぶんたちの「自然」と思っているものも、ほんとうは「人間の自然」という制度にすぎないのかもしれない。というか、表現がつねになにものかの存在を別次元へと変換することである以上、表現には「自然」というものはありえないということなのだろう。(p100-101)
>>

氏はこう書いた上で、パスカルの『パンセ』から
次の一節を引用する。

>>
(…)習慣は第二の自然であって、第一の自然を破壊する。しかし自然とは何なのだろう。なぜ習慣は自然なものでないのだろう。わたしは、習慣が第二の自然であるように、この自然それ自身も、第一の習慣であるにすぎないのではないかということを大いに恐れる。(断章九三)
>>

この複雑な言い回しから、
自然と習慣の包含関係について思いを巡らせてみた。
絵的には数学でいうベン図である。

この断章の前半は「自然⊃習慣」、
後半は「自然⊂習慣」の可能性について語られている。
「習慣は自然に含まれる」と言った時に意味するのは、
自然の中では(例えば食物連鎖や日本の四季といった)
いくつかの状態の反復=習慣が行われていることだろう。
しかし、その自然は(例えば生態系に組み込まれた
ある一種の突然変異により食物連鎖のバランスが
乱された後に訪れるような)長い不安定な時期を経て
ある一定のバランスの状態に落ち着いたものでもあり、
ここからは自然は習慣により形作られたとも言える。
これを「自然は習慣に含まれる」と表現して
よいかどうかは僕の感覚としては微妙であって、
というのもそういう「突然変異の起こる可能性」や
「不安定な時期」も含めてこその、地球誕生以来
今まで連綿と続いてきた自然体系だと思われるからだ。

自然と習慣の包含関係をはっきりしろ、と言われると
(そんなこと現実で言われる可能性はゼロだが)、
どちらかといえば「自然⊃習慣」の方が近いかな、
と思われつつも結局は「両者が複雑に絡み合って
お互いを形成している」と表現したいなと思う。
自然は習慣をつくる(自然という素地、体系の
構成要素がないと習慣の成立する余地はない)し、
習慣は自然をつくる(上述の通り)。
それでいいじゃないか(誰もダメとは言ってないが)。


そういえばワシダ氏著述部分の抜粋に線を引いていた。
>>
表現がつねになにものかの存在を別次元へと変換することである以上、表現には「自然」というものはありえないということなのだろう。
>>
「自然な動き」「自然な表情」…
本来自然ではありえないものに「自然」を形容する
志向(習慣?)は、自然への回帰願望だろうか。
それこそ人類規模の回帰願望。
意識を持ち始めてから止まることを知らない
進歩に邁進する人類の。

この矛盾を抱えた精神が「健全」であるとすれば、
自然への回帰願望が失われた世界(都市?人?)こそ、
雑り気なしの「暴走特急」なのかもしれない。
そして本当の恐さは、その「暴走特急」を
距離をおいて眺める視点が喪失した時に訪れる。
しかし、その「本当の恐さ」を経験する主体は、
原理上その場にはもういない。

なんだか、「生者は死を感得できない」もどかしさを
見ているようだ。
いや、(まだ?)もどかしくはないか。
2010/12/22 14:39

本書を読んでいた間ずっと(実際にor頭の中を)流れていたのは,
neko氏のピアノ演奏による「ケルティックウインド-Caring Dance-」.
毎度お世話になっております.
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by chee-choff | 2010-12-22 16:47 | 思考 | Comments(0)