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深爪エリマキトカゲ
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◆ 幻想の共有
幻想の共有

2010/11/21 16:35
『これも男の生きる道』(橋本治)を読了。

今回はウチダ氏の師としてのハシモト氏に注目したい。
すなわち、「ウチダ氏の言論のルーツ」(と勝手に
思われたもの)をいくつか見つけたのでここで紹介。

>>
「戦い」というのにはいろいろな種類があって、その「戦い」は時として、偶然ひょんなことからやってくる。だからこそ、「戦うのなら"敵"というものの正確な把握をしておけ、どういう状態を"勝ち"とするのかという"決着のつけ方"を知っておけ」と言うんですけどね。
(…)
 相変わらず、ふざけてるんだか真面目なんだかわからない私ですが、でも、今までのところは全部本当のところなんだからしょうがない。現実というのは、真面目と不真面目が入り乱れているもので、だからこそそれを相手にする人間は手を焼く。現実というのは、ふざけてるんだか真面目なんだかわからないものなんですから、「ふーん、そうか」と言ってしまうしかないーーそのことによって、「最も重要な決戦」が始まる、のかもしれない。
(p114-115)
>>

ここを読んで、ウチダ氏の
 口癖は、「そういうことも、あるかもしれない」
という言葉を連想した。
どんな突飛な話でも、とりあえず相手の言い分に
耳を傾けてみる。
話者の独自の合理性、幻想を見定める。
相手の話をまともに聞かずにただ退ける人には、
この「見定める姿勢」が決定的に欠如している。
そうならないためには、(まずは)相手を
「まともな話し手」として信頼しなければならない。

この価値観は次の抜粋とも通じている。

>>
(…)重要なのは、「相手も人間なら、こっちも人間だ」ということ。「会社」だろうと、「家庭」だろうと、あるいはまた「社会」だろうと、そういうものはみんな、「人間の作っている組織」なんです。「人間が作っているんだから、どっかにとっかかりはある」ーーまずはそれを考えてみることです。「会社は会社、家庭は家庭」と、それを作っている「人間」のことを頭から排除して、「なんだか自分とは違うもの」とだけ考えてしまうから、そこに入っていくことができなくて、そこから逃避してしまうんです
(p221)
>>

他者の幻想を見定めるというのは、
ここでいう「そこに入っていく」ということ。
自分と違うものを恐れる心を持っていては
「そこに入る」ことができない。
自分と違うものには、一度「入って」みないと
同じ土俵に立てず、理解のとっかかりすら掴めず、
目を背けて、避けて通るしかない。
そんな姿勢は、世界が広まれば広まるほど、
自分の肩身を狭くさせる。
 世界との通信を容易にしたインターネットが
 私的空間の拡大、同好の寄せ集めにしか
 利用できていない人は皆その肩身の狭さを感じている。
 ツールはあっても適切な利用方法が分からない。
 「本質はメディアではなくコンテンツ」とは
 まさにこのことを言っているのだろう。
そのような姿勢を改める一つの契機(ヒント)についても
抜粋しておく。

>>
 相手がどういう人間かわからなければ、つきあえない。つきあえないのは、相手がどういう人間かを、「知らないから」です。知らないのなら、知る必要がある。その時に必要なのは、「相手は、自分とは違う種類の人間だ」と思うことです。「違うからわからない」ーーこのことが一番重要です
(…)
 必要なのは、その相手が「自分の知っているような人間」か「自分がまだ知らないタイプの人間」かの区別だけです。「知ってる人間」なら、なんとかなるでしょう。「自分がまだ知らないタイプの人間」なら、「知らないから、つきあい方もわからない」と思えばいいんです。「そうか、こういう人とのつきあい方は知らないんだ」と思えば、少しは落ち着きだって取り戻せます。
(…)
 私が一貫して言っていることは、「"できない"を認めろ」です。「"できない"を認めれば、"できる"ようになる」ーーこれだけです。「"できない"を認めて、さっさと"できる"ようになれ」ではありません。「"できない"を認めれば、いつかは"できる"ようになるんだから、落ち着きなさい」と言うだけです。
(p216-217)
>>

ここからは自分の話になるので読みたい方だけどうぞ.




これ(=3つめの抜粋)を言われて、「なんとなくそう思っていたけれど
言葉にすればこうなるのか」と思った。
自分は人間観察が好きなので(何せ趣味ですから)、
「自分の知っている人間」か「自分の知らない人間」かは
わりと早い段階で把握できると思っている。
そして「自分の知らない人間」とやりとりをする必要が
生じた場合、その人を知ろうとせずとも、
「自分の知らない人間」のままで円滑に事が運ぶような
接し方をすることにも慣れている。
(というかそれができない人間は社会人失格だが)

これが上手にできて自然なうちに相手を知っていける人は
「世渡り上手」と呼ばれるのだろうけれども、
僕が決して世渡り上手でないのは「相手を知ろうとする
意思」が能動的にはかなり薄弱であるからだと思う。
「あなたが自分を僕に見せてくれるなら僕は見ますし、
あなたが僕を見たいのならば喜んで見せますが、」
と来て、普段言わない続きを敢えて言えば、
「特に強いて僕はあなたの中身を見せてほしいとは
思っていませんし、僕の中身をあなたに無理強いしてまで
見せようとは思いません」
というのが今の僕の基本的なポリシーである。
(いつもの言葉を使えば「来る者拒まず去る者追わず」.)

相手は決してそう思っているとは限らないのだけれど、
自分にとって、自分が相手にすること又は相手が
自分にしてくれることが「強制的」だと
思われてしまった時に決定的に萎えてしまうのだ。
これをして「メンタルが弱い」とか「ザ・草食系」とか
言われてしまうのだろうけれど、それで終わりではなく
ひねくれているというのは、相手から自分への
(冷静に考えれば全く別件の)あるアプローチを
自分への興味を持っての動作と読み換える詐術
(自分で自分を騙す、ということ)には長けているのだ。
行動意欲を萎えさせる前者とかき立てる後者とが
上手い具合に拮抗していて、それでいて後者は
表(表情とか)に露呈せず内で満足させる術も
備えているからして、結果として客観的には
自分と相手のやりとりが(自分発の劇的な変化は
ほぼ見られず)フツーに行われることになる。

なんだか無駄なエネルギーを使ってしかも
到来し得るチャンスも無駄にしているなと
自分で改めて思うのだけれど、
今はこれで安定しているからしょうがない。
でも「今はこれで安定しているからしょうがない」と
いうただ一つの理由で(=他に何かの理由がなくとも)、
この先長いこと今のまま落ち着いていられる自信が
あったりするのが少々恐ろしい。
それは日々頭をこねくり回している思考の方向性が
「そっち」を向いているからである。
どこかでその方向性を変えた方がいいのかもしれないが、
「知的ブレイクスルー」を幾度か経験すれば
自ずと変わっていくものかもしれない。

…やっぱりこの手の話のオチはいつも
「現状維持」になるのよね。
ま、いっか。
2010/11/21 22:39
by chee-choff | 2010-11-22 00:12 | ハシモト氏