長嶋氏の本はこれで三冊目.
一冊目は正確には本ではないけれど, 一つ前の朝日夕刊の連載小説『ねたあとに』. あれは本当,ホントに何にも起こらない日常の とりとめもない細部をつらつら連ねた作品だった記憶があるが, その文体に惹かれて氏の本を手に取るようになった. 「細部の描写がリアル」と言ってまぁ間違いはないけれど, これぞ氏の真骨頂と勝手に思った部分を取り出せば, 「主人公の視点の移り変わりがリアル」だという所. 主人公(本作では「望美」)が淡々と流れる日常の一場面において, 周りの状況(の進展)と彼女自身の意識のシンクロ度が凄い. 周りの状況にただ流される, 目に留めた一品からちょっと前の出来事が自然に想起される, そして「きょろきょろする視点」と「周囲と混ざりはするが混ざり切らない感覚」の自由さ. その意識の飛び具合を平易かつ的確に表現された部分に幾度も「ビリビリ」した. リアルな現実に対し,それを文章で表現することによるリアリティの減損を 最小限にとどめているということが,氏の文章を読むことで立ち上がる 登場人物の躍動を感じることで納得できる. 細部にこそリアルが宿る,氏の文章は一字一句逃さず読むことをおすすめします. 以下,好きな箇所を抜粋. (抜粋が多めなので読む人はこの先読まぬべし) この部分を読み返すだけで, 立ち上がる数々の場面を得た. これも「残念」? 「残念」とはいったものだ.本当に,念がそこに残るんだ.(p.124) 「いろいろなんて……」さらに問い詰めようとして,黙る.遠慮したのではない. これは「残念」だ. 頼子が,いろいろあるんだよ,だなんて類型を,紋切型をいうのが残念なのだ.望美は部屋をみる.いつか絨毯の上の座布団から,特徴のない女子学生の部屋をみたとき,残った念を思い出すかもしれない…….(p.140) その読書と綾が急につんけんする現実とが,混ざりあっている.殴られた気がしてよりショックということではなくて,あるいは逆に,「読書で救われる」という気持ちでもないのだが,とにかく今,自分は単に「気まずくて嫌だ」ではない感じ方になっている. (…) あの小説のやりとりが現実に混ざったということは,突然嫌われる(殴られる)ことが自然なことだったと,心のどこかで思っていたということだ. 本当は,誰とでも仲良しなんて無理だもの.(p.147) 本は,すべて,ほら,ほぼ同じ形をしている.目の前の,返却された本のいくつかを手にとってみる.ライトノベル,ギターの弾き方,幽霊探偵.すべて表紙がついて,綴じられて,活字が行になって並んでいる.本を読む人の格好も,ほとんど同じになる.だけど,そのすべてに全然ちがうことが書いてあるし,読んでいる人の心の格好もバラバラになるだろう. そういえば文学好きで,ベストセラー本を馬鹿にする人がいるけど,そんなのおかしい.クラシック好きが演歌を馬鹿にしているようなものだ. 「私たちの好きな本を馬鹿にしている」という綾の感じ方は,だからこそ発生する.それは逆にいうと,望美が読んでいる本を差別している考え方でもある. 文学というジャンルがあるとして,それが立派そうにみえるのだとしても,それはやはり外側からの見立てでしかない.下らない文学は,どこまでも下らない.過激なのも,笑えるのも,無為なものも,エロいのも,いくらもある. だけど「過激で笑えるんだよ」と啓蒙しても仕方ない.その本を手に取った人が文字を目で追って,そう感じた時に初めて,過激さや笑いはこの世に(その人の心の中という「この世」に)生じる.生じるのは,そのとき「だけ」だ. だからやはり,誤解を解くのは難しい.外側からみて立派にみえてしまう行為らしいことに,望美はいつまでも戸惑わなければいけない.(p.164-165)
by chee-choff
| 2010-07-03 23:32
| 読書
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