長いことこの案件を放置していた(と改めていうほど長くもないが,
まぁ「時候の挨拶」みたいなもんですね). 毎日ご飯を食べる机の上に読み終えた本をおいておけば, 書評を書きたくなる気持ちが日毎に積み重なっていくのでは, という期待を持って目の届くところにこの本を放っていたわけではないが, 自然と書きたくなった今から遡って想像すると, そんな想定が意識にのぼらない程度には存在していたようにも思える. というような記憶の曖昧さ,というか記憶についての記述の抜粋(お,つながったw). 物質的なものがどこかに埋蔵され,それがのちに掘り出されるという場合,その「物質的なもの」そのものは,掘り出された時点において,埋蔵した時点におけるそれとまったく変わりのない「あるもの」である.しかし記憶という心的現象はそのようなものではない. (…)たしかに記憶とはどういうものかを考えるとき,人はふつう,物質の埋蔵と掘り出しのようにそれを思いなすものだが,そのときその物質自体がなんら変化していない元のままの状態であることが暗黙のうちに理想とされているのである.(…) 「ある経験をおぼえている」とか「あのことを思い出した」とかいうとき,人は,「かつてそうであったがいま自分がそうではないところのもの」に自分自身をさし向け,自分をそのような存在として立て,自分をそこに同化させているのである.したがって,「想起」を実現させているとき,人は「もはやそうではないところのものになる」ことにおいて「いま」あろうとするという背理のうちにある. (…)人は「狭義の記憶」において,「頭がいい」からいろいろなことを思い出せるのではない.ある情緒的気分の流れが何らかの現実的な契機と接点をもつことによって,そのつど人を特定の「記憶を実践する存在」に追いやるのである.(…) 人は情緒性によって,自分の過去と現在を関係づける.言いかえると,人は,過去から現在にまで流れ来たるさまざまな情緒的条件にもとづく物語を不断に編成することによって,自分という存在のありかを確認しつつ生きているのだ.その編成された物語のそのつどの表出こそは記憶(狭義の記憶)である.(…) このように考えれば,ある記憶(の再現)が,ときには実際の経験事実と著しく異なったものとなってしまうことも不思議とするにあたらない.なぜなら,経験時点から再現時点までの情緒的な生のプロセスこそが記憶を記憶として生きのびさせるのだからである. (…)記憶による事実の変形や歪曲は,人間の能力の不完全性を示すものというよりは,むしろ記憶という現象の本質的用件のひとつなのである. (p.91-95) 記憶がはっきりしてくるということは,単に貯蔵能力が発達したこととは違う.生活経験的な記憶があるということは,そのときの生き方と,現在の生き方との間に,何らかの情緒的脈絡がついたことを意味している.そういう脈絡のつけ方をどこかでしているからこそ,記憶がまさに記憶としてよみがえるのである. 人間は,自分の心身をたえずいまの状況にかかわらせながら生きている.心身は,いまの状況のなかでいろいろなことにぶつかり,それに対して,ある受け止め方,働きかけ方をとっている.その心身がいろいろなことにぶつかっているぶつかり方と,かつて子どものころにぶつかっていたぶつかり方との間には,いつしか一定のパターンができ上がっているのがふつうである.あることが,一見「全然何の理由もないのに」大人になった自分のなかで思い出されてくるのは,そうした過去の経験によってかたちづくられた情緒的な態勢が,いまの状況への向きあい方との間に,ある同型性を維持しているからである. (p152-153) これはもちろん「事実レベル」の話ではない. が,大抵誰もが経験するであろう最後の一節(一見「全然何の理由もないのに」大人になった…)が 身にしみる人が例えばいて,彼がその理由付けにこの一節を採用したとして, 過去の自分と今の自分をつなげる「時かけ」的タイムリープをすいすいできるようになる, というのはなかなかステキな事ではないかと思う. こんなことを書くのは僕がその一人に数えられることを望んでいるからであり, こういう認識を持てば上記に加えて過去に何度も触れた「過去の自分が何を考えていたかを 思い出せない悲しみ」が実は的外れであったと考えることもできるからである. 記憶に残らないから記録を残すという行為も全く無駄であるとは言わないが, その行為の本来の意味の達成においては実は「必要ないかもしれない」ということだ. つまり,記録行為の「無駄ではない部分」とはその「本来の意味」ではない部分であり, 記録をつける時点で「生身の感覚」を自分の中で再現するような記録の残し方をすれば, 記録された内容それ自体よりも,重複的経験を時間差で味わえたことに価値を見出せるということ. 「あの時」の経験が本当に自分にとって大切なものであったか,それを決定するのは, その経験がまだ自身に色濃く残っている現在時点での自分だけでなく, そのような経験があったという事実をとうに忘れ,そのような経験と何ら接点のない 生活を送る中でふとその経験の記憶が呼び起こされた未来の自分でもあり, 一度もその経験を思い出すことなく日々を過ごしている未来の自分でもある. 「必要に応じて呼び起こされる」というほど単純なものでもないし, 「忘れないような日々の努力が必要である」というほど堅苦しいものでもない. ただ, 過去を振り返りながら, 未来を予感しながら, 今を一生懸命過ごす中で, 形を変えもはや原型をとどめていなくても, 「自分の中に過去の経験が生かされているのだろう」 という自分への信頼が, 「過去の経験たち」の主体性の発揮に多いに貢献するのかもしれない.
by chee-choff
| 2010-06-03 22:58
| 読書
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